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終戦60周年特別企画 見た・聞いた・体験した「戦争の話し」ジャーナリスト編
幻の特攻隊 人間機雷『伏龍』
●残念ながら沖縄では、日本で一番戦争が身近な島。だけど…
僕の見た大日本帝国と憲法9条

「残念ながら沖縄は、日本で一番戦争が身近な島。だけど…」瀬口 晴義

 いつもは脳天気な泡盛居酒屋の店主ですが、お店を閉めたあとに見る深夜番組で、このところ連日放送されている「広島・長崎」特集には、いろいろなことを考えさせられます。戦争は恐ろしいほど民間人の被害者を出す、そういう当たり前の、そして戦争が起こす最大の罪を再確認させられました。今この瞬間も世界で繰り広げられている戦闘のことを思います。

 かつてのベトナム戦争や湾岸戦争も、今イラクで行われている戦いも、沖縄にとっては他人事ではありません。その地で銃を持った、そして今も持っている米兵の一部は、沖縄の米軍基地から派兵されているのですから。

 同じ草野球チームに所属していたある元アメリカ兵は、湾岸戦争に派兵された経験を持っています。生きて帰ってきたものの、彼が言うには「薬物兵器の毒害で」、わずか数カ月の間に体重が2倍以上になっていました。本当かどうかわかりませんが、「一生、恩給が出るんだ」と、寂しそうに笑ってもいました。彼が手に持った銃で何をしたのか、あれから何年たっても聞くことはできません。
 たぶん、これからもね。

幻の特攻隊
 ここ数年沖縄は、「癒しの島」「南国リゾート」などの肩書きがついて、本土の皆さんに関心を持たれているようです。移住してくる方も実際にかなり増えています。ここは本当にいい島なので、その気持ちもわかります。でも、癒されてもリゾート気分が楽しめても、沖縄が「基地の島」であることに変わりはありません。住んでいると、否応なく基地や米軍関連のニュースに憤ったり悲しんだりしなくてはならないから。

 例えば−−。
 先日も騒音が著しい嘉手納(かでな)飛行場に、アメリカから約40機の戦闘機が「訓練のため」と称して飛来してきました。日夜轟音を立てて離着陸を繰り返しています。周辺自治体や住民は、もちろん訓練の即時中止を訴えています。
 また、民間地から数百メートルしか離れていない金武町伊芸(きんちょう・いげい)区の都市型戦闘訓練施設では、実弾を使った射撃が不定期に行われます。過去には、同じような訓練で民間地への流弾事件がいくつも起こっていて、先日も1万人を超える訓練への抗議集会が開かれたにも関わらず、「対策は万全」らしいです。

 もうひとつ、ヘリが落ちた普天間飛行場に替わる米軍基地建設地として、候補地に上がっている名護市辺野古(へのこ)の海岸では、ボーリング調査を阻止するために、1年以上も座り込み運動が続けられています。

 基地の島であることは、その付近住民が、軍隊=戦争と隣り合わされているということです。ですから、そこで起きる抗議行動には右・左とか、与党・野党は関係がない。参加者の中心にいるのは、いつも地元のおじい、おばあ、おじさん、おばさんたち。基地の存在に不安や不便、不快を感じているふつうの人たちなのです。  


2004年8月に普天間飛行場のヘリが墜落した、
沖縄国際大学のビルの事故直後の写真。
現在は撤去されています。


 さまざまな抗議運動は、今日も続けられています。それはつまり、日本政府による解決策がなんら実行されていないということ。沖縄から見ると、政府の考えは「安保条約が日本にとってどれだけ重要か」だけが尊重され、その存在によって日々危険や不安にさらされている住民には「もう少し我慢してください」と言い続けているだけ。じゃあ、いつまでよ……? 沖縄の人たちは、みんな心の底でそう思っているはずです。だれもが基地はないほうがいいと願っています。

 ならば、日本に軍隊が(米軍も含めて)なくていいのかと、詰め寄る方もいそうですが、個人的にはなくていいだろうと思っています。少なくとも、沖縄にはあってほしくない。戦争放棄をうたった日本国憲法9条を、ぼくは尊いものだと考えます。だから、自衛隊の拡大、救助活動など以外の国外派遣にも反対です。戦う軍隊は、第二次世界大戦でも沖縄県民を守ってはくれなかった。そして、基地はただそこに存在しているというだけで、今も沖縄県民に多大な不安と被害を与えているから。

 ずいぶん前に、ある著名な作家さんが、沖縄の米軍基地を琉球弧内(編集部注:沖縄本島をはじめ、かつての琉球王朝に属していた諸島の総称)にある無人島に、移設してはどうかという提言をしてくれました。日本に(米軍も自衛隊も含めて)軍隊が必要というならば、それもぜひ検討してほしいものです。今の沖縄のように、住民と密接した場所になぜ基地があるのか、それがおかしいと思わないのか、ちょっとでも心に引っ掛けていてもらいたい。


主力は予科練の少年兵
 本土にはなかなか届かない、あるいは実感としてとらえてもらえないようですが、沖縄のひとは絶えず訴え続けています。
 1995年の少女暴行事件に対する県民大会では8万人が集まり、昨年の普天間ヘリ墜落事件への抗議集会には3万人、7月に行われた都市型戦闘訓練施設への抗議集会には1万人が集まりました。
 さらに、定期的に普天間や嘉手納基地を手を取り合って囲む「米軍基地包囲行動」にも、毎回約2万人が家族連れで参加します。

 数万人規模の平和希求運動がこれほど何度も行われる県は、沖縄くらいなのではないでしょうか。それはつまり沖縄が、日本で平和に一番遠い、逆にいえば戦争に一番近い場所だからだと言えはしないでしょうか。その運動や行動に、実質的な改善がすぐには伴わなくとも、沖縄の人は小さな声を上げ続けています。

 ユニークな活動では、1997年から、「泡盛の100年古酒」を復活させようという民間運動も起こっています。
 第二次世界大戦で地上戦に巻き込まれ、それこそ灰燼(かいじん)に帰した沖縄では、多くの人命とともにさまざまな文化資産も失いました。
 そのなかのひとつが、100年を超える泡盛古酒です。

泡盛古酒が100年守られる
平和な沖縄でありつづけてほしい
 戦前まで、琉球王朝の酒蔵や資産のある民家には、100年以上貯蔵された泡盛の名酒があったのです。
 それが、先の大戦でほとんど失われると同時に、100年古酒を育ててきた技術も、具体的には何も継承されず途切れてしまいました。

毎年旧暦の元旦に行っている「100年古酒元年」の甕(かめ)入れ式。
この甕に一升瓶300本入ります。


 それを復活させようと、1997年に有志が集まり、お酒を貯蔵し始めました。その参加人数は05年現在、のべ5千人を超えています。100年間も酒を貯蔵できるためには、この島が平和であり続けなければなりません。さらに、これは会の結成時に冗談のように交わされた会話ですが、世界中に「沖縄の民家の屋根の下には、100年古酒が眠っている」「沖縄は島ごと名酒の貯蔵庫だ」ということが知られれば、かつての大戦で京都が空爆を逃れたように、有事になってもその価値がわかる人たちによって被害が抑えられるかも……というのです。ぼくはすぐさま、その活動を始めた「百年古酒元年」の会に入れてもらいました。
 100年古酒という素晴らしい沖縄の文化を復活、継承し、沖縄の平和のシンボルにしようという活動は、これからももちろん継続し、毎年3石(一升瓶300本)以上を貯蔵していく予定です。

 こういう平和活動が具体的な問題解決に結びつくのかと笑う人もいると思いますが、その答えを求めるのは100年待っていただきたい(笑)。ただ、個人的には沖縄にこれだけ米軍基地があるよりは、その土地すべてを泡盛古酒の貯蔵庫にしたほうが有益だと信じています。

 日本がアメリカだけに守ってもらえばいいと考える時代は、もう終わっている。今のアメリカとともに世界各地に出かけていって、軍事行動までご一緒するリスクを、日本は本当に負っていいのか、だれもが疑問視しているはずです。

 攻撃から国を守ることを考えるよりも、どこにも攻撃されない国づくり、万が一変な国に狙われても、世界の国々がそれを牽制するくらいの国際貢献ができる国づくり。憲法9条を持つ日本は、それを目指すべきではないのかと考えます。

 理想論だと言われるかもしれませんが、基地の弊害に日々苦しんでいる島の住民としてはやはり、戦争を近付ける米軍基地はもういらないと繰り返し言い続けたい。武器ではなくて泡盛と三線を持って、銃を持つ米兵たちを前に抗議運動を続けられる、うちなーんちゅ(沖縄県民)はたくさんいるし、ぼくもそのひとりであり続けたいです。

長嶺哲成(ながみね てつなり)
1962年、那覇市生まれ。
沖縄の週刊新聞『レキオ』、泡盛を核にした
沖縄情報誌『カラカラ』の編集長を務め、その後フリーに。
2004年、泡盛好きが高じて“くーすBAR「カラカラ」”
http://www.karacara.com/bar/をオープン。
泡盛を媒介に、地元の人と観光客が集い交流する場所になっている。
現在、執筆活動と居酒屋のおやじと、二束のわらじで奮闘中。
著書に『カミングヮ』(ボーダーインク)。
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