伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2016年9月10日(土)@渋谷本校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なお、この講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
浅野 善治 氏
(大東文化大学法科大学院教授)

●講師の主なプロフィール:
1976年、慶應義塾大学法学部卒業後、衆議院法制局入局。2002年、衆議院法制局法制主幹、衆議院調査局決算行政監査調査室首席調査員を歴任。2004年、大東文化大学大学院法務研究科教授、2008年、同大学院法務研究科長を歴任。2009年、全国都道府県議会議長会法制執務アドバイザー。2010年、杉並区情報公開・個人情報保護審査会委員。2012年、自治医科大学ヒトゲノム・遺伝子解析研究倫理審査委員会委員。2014年、杉並区狭あい道路拡幅整備に関する審議会委員、等も歴任。著書に『貸金業法の解説」(ぎょうせい)、『憲法答弁集』(共著、信山社)等。

はじめに

 「政策と法」という観点から法律を捉えたときには、全く何もないキャンバスに法制度を描き、政策を表現するというようなイメージになります。そこでは、法律は、政策を実現するために作りだすものなのです。

 今回の講演では、安全保障法制を題材にしながら、浅野先生がこれまで立法に携わって感じたこと、苦労したことなどについてお話しいただきました。

何もないところから法律を作るという仕事

 私は大学卒業後、国会の衆議院法制局で二十数年勤めさせて頂きました。その後、法曹を育成していく上で「法律を作る」という視点が重要ではないかということで、現在は法科大学院で憲法を中心に講義をさせて頂いています。
 昨年、安全保障法制の合憲性が大きな問題となりました。憲法の判例百選に執筆している学者へのアンケートに、今までの経験を踏まえて「合憲」と答えたところ、蓋を開けてみれば合憲と答えた学者は3人しかいないということで、私はその貴重な3人の1人となってしまいました。それ以来、いろんなところに呼ばれ話をするようになり、今回伊藤先生にお招き頂いたという次第です。
 さて、国会が国の唯一の立法機関であるわけですが、国会議員の先生方が法律の案文を書けるかというと、そうではありません。法律の立案は、およそ政府の官僚もしくは国会の法制局の職員に独占されています。そのノウハウが外に出てくることはなく、内部で法律を作る高度な技術が語り継がれています。
 法制局と聞いてみなさんが一番に思いつくのは内閣法制局でしょう。内閣法制局は、法案を審査したり法的視点から政策を検討したりするところです。他方、国会の法制局は、誰かが作った法案を審査するのではなく、影も形もないところから法律を作っていく作業を行っています。議員の先生方の発想を汲み取りながら、骨子をつくり要項を条文化し附則や関連法を整備する。つまり、国会議員の先生方の「やりたいこと」を法律の形に整えてあげるのが国会の法制局の仕事なのです。全ての政党から法案作成の依頼を受けるため、同一の問題についても多角的な見方をすることが求められます。
 国会の法制局の最大の特色は、国政全般にわたり幅広く担当が変わっていくことです。私自身も、住宅対策、情報公開法、貸金業規制法、税法関係、さらに選挙関係、電電公社改革などあらゆる分野に携わりました。その中で、安全保障分野にも関わってきました。
 政策を実現する為に、何もないところから法を築き上げていくという視点は、これまで大学の教育ではほとんど教えません。大学では、裁判で闘う為にいかに適切に法律を解釈し訴訟で適用するかという解釈学を中心とした学習をしています。
 しかし今後は、地方創生・地方分権など、地域の活性化のために色々な政策を独自に考えていく時代がきます。住民の声を地方自治へ、国民の声を国政へと、多様な政策を提言したいときに、その提言をきちんと法整備する手助けをできる法律家が求められ、大学教育においても「政策と立法」について教えるべきではないかと思います。

社会的問題に対応するために法をつくる

 法というのは、自分の意思を離れて社会から強制的に求められるものです。政策を実現するためには、必ず法という強制力が必要です。法は、その限りにおいて公権力の行使を正当化し、人々の自由を拘束していきます。
 他方、法は社会に受け入れられなければ意味がありません。社会的正義に適合するものでなければならないのです。安全保障法制について、「おかしい、おかしい」と言われるのにはきっと何らかの問題がある。それが何なのかを分析し整理する必要があるのだと思います。
 社会のルールをどう構成すれば社会の問題に対処できるのか、そういう切り口で取り組んでいこうとするのが立法学です。まず、社会的に何が問題となっているのかを分析し、事実を把握します。法という強制力を使って問題に対応する場合、既存の法律で対応できるのか、新しく法律を作る必要が有るのか。新しく法律を作るならば、立法の目的は何か、誰にどのような強制的措置を求めるのか、そこで求める負担は適切か、他に代替措置は無いかなど、非常に綿密に検討しながら法を作っていきます。
 すべての法律は憲法に適合しなければいけません。法律自体が違憲でないか、法律の運用上に問題はないだろうかと、基準の明確性や裁量の範囲などを検討する必要があります。続いて、既存の関連法との整合性についても検討します。
 全体的な法体系が組み上がってきたところで、政策の合理性や費用対効果、政策効果の分析などを行います。このように様々な要素が組み合って出来上がった結果が「法律」として現れてきます。 
 今回の安全保障法制も当然同じように検討を進め出来上がっています。

立法のジレンマ

 さて、安全保障法制について「合憲だ」「違憲だ」と様々な意見がありますが、この法制の立案に携わったチームはそれらほとんどの意見について検討済みだったはずです。あらゆる方向から検討した上で批判に耐えられないものは、法律として成り立ちません。逆に、いくら検討しても法律にならない政策は達成不能であり、そこで想定している社会問題は解決できないということになります。
 例えば、臓器移植法をつくるという話になったときに「脳死を死と認めないが心臓移植を認める」すなわち「生きている人間から動いている心臓を取り出すことを認める」という法をつくれと言われ、私の前任者は「出来ない」と断っていました。しかし、「無理だ」と言った瞬間、心臓移植を望んでいる人たちから「法律ができないことで、本来助かる人を救えない」と言われてしまいます。なんとかして解決策を見出していかなくてはなりません。法律をつくるのがいかに難しいか、ここに大きな葛藤が有るのです。ある問題で困っている人がいて、それに対し何らかの措置が必要な場合に「法律をつくれません」というのは「その問題は解決できません」と言っていることと同じです。立法に携わっている者として、これは非常に言いにくいことです。

憲法違反の判断は誰がするのか

 安全保障法制に関する議論の中で、違憲の判断をするのは最高裁判所(最高裁)だけだと語られていましたが、最高裁が憲法判断をするのは非常に限られたときだけです。最高裁は司法権の一環として違憲審査権を持っているので、司法権の土俵に上がってこなければ裁判所は判断できません。つまり、国民の権利が訴訟というかたちで具体的な問題となって初めて、司法審査に伴う付随審査として裁判所が違憲判断をするのです。さらに違憲判断の効力はその事件のみにしか及びません。
 さらに、最高裁の判断というのはあくまで憲法に違反しているかどうかの審査であって、必ずしも法的正義に基づいているわけではありません。最高裁の判断が法的正義に適わないのであれば、国民審査で裁判官を罷免するか、最終的には、国民が憲法を変えることで最高裁の判断にNOをつきつければよいのです。
 国会においても、法律を作るときには当然憲法に違反していないかチェックします。立法時には、憲法上の疑義がある法律案については議院法制局が問題点を指摘しますし、行政権の執行時には内閣法制局が憲法上の問題点を指摘します。その際、想定し得る憲法訴訟や最高裁の判断も当然考慮します。
 最高裁の違憲判断も、行政の憲法解釈も、法制局の判断も、自らが憲法に違反していないと思っている範囲であれば当然解釈変更はあり得ます。最高裁の判例変更が良い例ですね。政府の解釈変更も同じです。政府が憲法の範囲内で独自の憲法解釈を変更することは法律上出来ないことではありません。当然、その変更が適当かどうかは別問題です。法的安定性の観点から、よほどのことが無い限り解釈の変更はしてはならないし、変更した場合には重い責任はあります。しかしこれは立憲主義に反することではありません。

国家の危機に対応する為に予め法をつくる

 さて、これまでの議論を踏まえ集団的自衛権について考えてみましょう。
 まず、現政権における政策的な問題意識として、現在の国際情勢下において「我が国の存立、国民の生命、自由及び幸福追求の権利」を確保するには改正前の措置では国家として不十分であるという認識があります。
 我が国が直接攻撃をされていなくてもこれらの権利が具体的に侵害される危険が生じる恐れがあるという分析に基づき、「こうした事態を未然に防ぐ為の措置(法律)を検討しろ」と言われ、「できません」ということは「その政策は達成できません」ということです。法律を検討する人間は、あくまで政策を実現できる法律がつくれるかどうかを検討するのが仕事です。その政策が良いかどうかということは検討範囲外のことです。
 法律案の検討にあたり、これまでの政府の憲法解釈との整合性を保つため、「集団的自衛権は全面的には認めない」「武力行使ができるのは、我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合に限られる」という点を踏まえなければなりません。その上で憲法9条に反せず、日米安全保障条約、新ガイドライン等の関係法令との整合性を保持しながら、今回新しく行おうとする措置を綿密に検討していきます。
 「昭和47年見解に反するので違憲だ」という意見がさかんに言われましたが、昭和47年、つまり1972年から40年以上経過し、国際情勢の変化や科学技術の進展に伴い日本の国際情勢の危機は非常に変わってきています。すると、他国に対する武力攻撃がなされた場合であっても「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が生ずる事態」が想定できるのではないか。そのときに、政府が全く行動しないのか。政府として具体的にそういう事態が起こりうると判断しているにもかかわらず、何ら対策を講じなくてよいというのはあまりに無責任ではないか、とするならば、適切な対処について法定しておく必要があります。
 今回の安全保障法制は違憲だと主張する立場から様々な意見が出ましたが、果たして法律そのものが違憲なのか、法律は合憲だとしても運用上に問題が有るのか、それとも政策の当否の問題なのか。明確に認識する必要性があります。今回は、安倍政権批判や政策の全否定に終始し、議論が甚だ不十分であったように思います。
 政策を実現する為にどうすればよいのかを考えたときに、政策と立法という視点から見てみると、また別の角度から考えられるのではないでしょうか。

 

  

※コメントは承認制です。
政策と立法~集団的自衛権の行使と憲法を題材として~
浅野 善治 氏
」 に2件のコメント

  1. L より:

     戦争法は合憲であるという希少な法律家の強引な「理路」を見られてありがたいです。
     前提の一つの”内閣法制局は合憲性確保のためにキッチリと検討し法律化した”という見立ては、報道されている公開情報と実質的に対立します。”法制局は戦争法は合憲性や整合性、立法事実等において筋が悪すぎるので、まともな検討とロジックを作ることが出来ず、検討や作成過程にかかわる記録を残さなかった”といった受け止めの方が遥かに自然です。報道がある以上、一般論の「はず」に逃げ込むのではなく「実はね」という内部情報などを基に報道内容を批判し証拠を基に実態を示さないのは法学者として不誠実。
     前提が誤っていたり、グラグラしていては、ロジックは無意味であり、結論はナンセンスになってしまいますね。
     ”法制局は、政治家に違憲だから出来ないとは言わず憲法を巧みに躱して法作文をするのが仕事だ”という趣旨のことを法制局元長官が言っていました。この方の場合は”憲法の制限を躱せなければ、「平和とは戦争のことである」式に、解釈の方を変えてしまえば、合憲に出来る。政治家の「必要は法を待たない」のだ。”とさらにグレードが上がっていて驚きました。

  2. yamada より:

    「法律を検討する人間は、あくまで政策を実現できる法律がつくれるかどうかを検討するのが仕事です。その政策が良いかどうかということは検討範囲外のことです。」
    という感覚が官僚の方々の事なかれ主義の感覚なのではないかなと思いました。

    今回の問題が議論不十分というなら、立法化を急ぐのではなく、きちんとした議論の場を設けて時間をかけて議論すべきだったと思います。

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