マガ9備忘録

こうしたマガ9などのサイトを見る人に言っても、意味のないことは分かっている。それでも、やはり言わずにはおれない。選挙があれば投票に行こう。

こんなことをいきなり書いたのは、6月8日に投開票された東京都中野区長選挙の結果を見たからだ。最終投票率はなんと29.49%で、前回を0.79ポイント下回った。

投票率の低下は今に始まったことではない。2月に行なわれた東京都知事選挙では46.14%、大阪市長選挙では23.59%。前者は猪瀬直樹知事の突然の辞職を受けて、後者は大阪都構想のシングルイシュー化を狙った橋下徹市長の恣意的なものだったとしても、低いことに変わりはない。

今回の中野区長選挙は任期満了に伴うもので、突然ではない。争点も、区長が自ら言い出した多選自粛を撤回して立候補したことや、区役所や中野サンプラザの取り壊しなどを含んだ中野駅前の再開発、ゴミ回収の有料化、コミュニティバスの存続など多々あったはずだ。

それでも7割以上が投票していないということを、どう捉えればよいのだろう。「どうせ誰かがやってくれる」と、意思表示することすら億劫なのか。人々の自発的投票行動が期待できないのなら、対策はあるのだろうか。

一案として、オーストラリアで導入されている義務(強制)投票(Compulsory voting)を紹介しよう。この国では棄権した場合、50オーストラリアドル(約4800円)の罰金が科せられる。

義務投票についてはオーストラリアの学界では賛否両論ある。以下に理由を記すと、
【賛成論】
①政党が投票勧誘に時間・費用をかけずに済み、いかにして支持者とするかに専念できる
②国民すべてが参加するため、一部の者に権利を独り占めさせない条件を作れる
③国民が政治問題に真剣に考えざるを得なくなる
【反対論】
①投票しない権利が認められないため、投票の自由を奪う
②関心のない者にも投票を強制させる
③無知、無関心な者に政治をゆだねる可能性が強い
などである。

ただこの賛否両論は学界でのことであり、各政党は義務投票に反対することはなく、国民も満足しているといわれている。当然実施に当たっては投票行動の自由、期日前や郵便なども含めた投票方法の十分な保障は不可欠である。

オーストラリアは、無記名投票、普通選挙、婦人参政権など近代民主主義国家の選挙制度の基盤となる改革を、早くも19世紀に実施したことでも知られる。その地で導入されている義務投票制について、正面から研究されるべきではないだろうか。

このまま低投票率が続けば、選挙を通じた民主主義は崩壊する。安倍政権が云々、などと言わずとも自ら墓穴を掘っているようなものだ。棄権した人の声は、誰にも分からない。(中津十三)

参考文献:在日オーストラリア大使館ホームページ、吉田善明「オーストラリアの選挙法制について」『法律論叢』第60巻2・3合併号(明治大学法律研究所)

 

  

※コメントは承認制です。
その37)もはや「義務投票」を
考える時期ではないのか
」 に4件のコメント

  1. ええ〜!この間、寄ってたかって大阪市長選挙に投票するなって騒いでなかったっけ?
    「大義がない」とかなんとか。
    まあここの人は騒いでなかったのかもしれないけれど、まだ皆憶えてるはずだよ〜!

  2. 家畜124号 より:

    申し訳ないのですが、何を伝えようとされているのかよくわかりませんでした。
    投票率を固定することが何かの役にたつのでしょうか。もしこれが法案成立の承認を得るための国民投票の話であるならわかるのですが、代表者を選出する選挙の投票率が例え1%でも99%でも「主権者たる私」と「選ばれた代表者」との関係には何の影響もありません。

    例えばこういう話ならわかります。
    「国民の代表者を選ぶはずの大事な選挙。選ばれた者は政治を通じて国民の暮らしを保障するという仕事上の義務があります。昨今ではその代表者にとって都合が悪い事態の言い訳として、選挙に別の意味を都合良く与えているようにも思えます。『民意を問うこと』が当たり前になってしまえば政治における責任の所在は有権者に丸投げできてしまいます。代表者は重い責任を感じることも、ひとりひとりの暮らしを思い浮かべながら法案を検討する事もなくなってしまうでしょう。後悔する猶予も与えられず私達の暮らしは為政者の思うがままに変えられてしまうのでしょうか。いいえ、主権者はあくまでも私達です。明日の暮らしを思い描くことを投げ出してはいけません。少しでも多くの人が後悔をしないよう、投票権は放棄しないと胸を張りましょう」

    投票率が低いから皆政治に興味がないんだろうと拗ねてみせるのは便利かもしれませんが、少なくとも国民主権を大切に考えるのなら投票しない者には投票しないだけの社会的信念があるのだという大切な視点があります。
    投票を強制したところで良い効果があるとは思えません。もし若き日の私が投票を強制されたならきっと自由民主党に票を入れます。なぜならこの息苦しい世の中から私や私のように窮屈な人生を送る者を自由へと導いてくれそうな「名前」を持っているから。そんな理由で日本の政治を進められては迷惑です。逆に年老いた私が投票を強制されたならきっと早々に自分の世界を終わらせるでしょう。誰に票を入れてもきっと世の中を恨んでしまう、義務の見返りが得られない事を不満に思ってしまう。そんな自分は大嫌いなのに、距離を置くことすら禁じられては逃げ場がありません。私にとって投票の強制は、政治への僅かな期待すらゼロにするのに十分な起爆剤です。

    日本は国民主権を掲げる議会制民主主義国ですから、為政者の選出を投票で決める理由は、従う相手を選ぶ訳でも、法案の内容を選ぶ訳でも、もちろん我々の未来をお任せで丸投げするためでもありません。平均的な理性を持つ者が、社会の合意をまとめて法案に昇華するという役割を担う、それが最も合理的だからではないでしょうか。
    日本における選挙は「平均的な理性を持つ者を選ぶこと」が目的。私にはそれしか思い浮かびません。だから投票率には何の思い入れもないのです。

    この考え方からすれば、投票率が3割程度に過ぎないという事実は「社会の合意形成において自分の理性は必要とされていない」と考える悲観的な者が7割いるということです。
    その理由は何でしょう。自己への過小評価か、社会への絶望か、現実逃避か、本当にそれどころではないのか。ではそうなってしまった理由は?
    そう考えれば本当に変えていかなければならない事の話題はいくらでも膨らむと思うのです。

    正直なところ「AがダメならアンチA。自由がダメならアンチ自由」みたいに乱暴なオス的理論はもうおなかいっぱいなんです。私自身がオスですから。
    私がこれを口にするのはおこがましい限りですが「憲法への攻撃と戦う」その宣言が今でも生きているなら、どうか戦う相手と同じ土俵に立たないでください。「個々が持つべき良心の自由を奪い、法と道徳をひとまとめにしようと目論む為政者」や、「共有されるべき良心の行く末を政治という名の社会現象に丸投げにしても、まだ足りないと文句を言い放つ大衆」と同じ目線にならないでください。私の良心は数字ではありません。
    ささやかですが切実な思いです。

  3. KR より:

    義務化する前に選挙制度を根底から変えてほしい。どうしても自分の選挙区に投票したい候補者がいない場合、マイナス投票できるような仕組み。つまり選挙区を超えて、なんとしても当選させたくない政治家にマイナスの一票を投じることができる制度。そうすれば安倍晋三は間違いなく落選だ。
    投票しない権利はひとつの権利であるのは確かだ。投票率が高いことが、必ずしも民主主義の達成度を示すものではない。投票行動以外の行動はいくらでもある。いずれにしても強制は良くない。民主制そのものに疑問を感じている人もいるのだから。

  4. fuyounor より:

    同感です。
    私もそう思っていて、ネットで『当選させたくない権利』で検索をかけたところ
    ここが引っかかりました。
    現行の制度では投票率が低いので組織票を持っている者が当選することが多くなります。
    投票もマイナス票(非適任)も同じ価値でなければ、なりません。
    マイナス票が、可能のなれば、最悪この人には任せられないとうことで、意思表示が可能になると思われます。

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