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7月20日、大阪・御堂筋で行われた「OSAKA AGAINST RACISM 仲よくしようぜパレード2014(通称仲パレ)」は、主催者発表で1500人以上を集めて大成功を収めた。連帯・共生の「仲よくしよう! 一緒に生きよう!」のシュプレヒコールに、沿道からは温かい声援が送られた。

一方、この週末に東京・新宿で「差別反対 女組」によって、差別を煽動するヘイトデモの現場写真と抗議のプラカードを展示する反差別パネル展「ヘイトスピーチ­­-闘う市民たち-」が開かれる。2012年あたりから激化してきたヘイトデモに対抗する、その翌年からのカウンター活動の経緯を紹介するものだ。

これに先立ち、6月28日と29日に国際基督教大学(ICU)で行われた「カルチュラル・タイフーン」でも同趣旨のパネル展が行われた(以下の写真は、その際に撮影したものです)。

小さな教室に、たくさんの写真パネル。差別に対峙する人々の表情はさまざまだ。怒りを露わにした目、毅然とした後ろ姿、ヘイトの酷さに思わず俯いた泣き顔…。その心を慮るに、胸が締め付けられる。

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と、聞くに堪えないヘイトスピーチが流れてきた。実態を伝えるためスクリーンに映されている、ヘイト側の街宣の動画だ。「表現の自由」を悪用して街中でヘイトを垂れ流す彼らに暗然とする。しかし、そこから逃げずにカウンターに立ち上がる人々に、敬意を表さずにはいられない。

警察などはヘイトとカウンターを「どっちもどっち」にしたいがゆえだろうが、ヘイト側を摘発しながらも、最前線で体を張ってヘイト側に対峙していた「男組」のメンバー8人を16日逮捕した。しかし、準抗告によって連休のさなかに3人を釈放する異例の展開となっている。引き続き、残り5人の早期釈放を求めたい。

今回の新宿展は、ICUよりも展示パネルを倍増する予定だそうだ。また、ストレートなものからウイットに富んだプラカードのほか、いろいろな抗議グッズも展示される。

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反差別の輪は確かに広がっているが、まだまだ足りない。国連人権規約委員会が対日審査の中で、ヘイトスピーチやヘイトデモへの対策を日本政府に求めている現実。ぜひ、この展覧会に足を運んで「いま、街で何が起こっているのか」理解を深めてほしい。(中津十三)

※ 反差別パネル展「ヘイトスピーチ­­-闘う市民たち-」は、7月26日(土)、27日(日)、新宿区立区民ギャラリー(新宿中央公園内)で。入場無料。

追記
在特会の呼びかけによって、新宿区民ギャラリーに抗議の電話が相当数かかっているようです。そこでパネル展を支持する方は、お問い合わせフォームから新宿区民ギャラリーに賛同・励ましのメールを送るよう、女組から呼びかけがありました。

 

  

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その43)ヘイトスピーチに
立ち向かう人々のパネル展
」 に1件のコメント

  1. ピースメーカー より:

    >国連人権規約委員会が対日審査の中で、ヘイトスピーチやヘイトデモへの対策を
    >日本政府に求めている現実。

     今月24日に国連人権委員会より日本に対し出された、「ヘイトスピーチ(憎悪表現)など人種差別を助長する行為の禁止、規制法の制定」「慰安婦問題に対する公的な謝罪表明、国家責任の正式承認」「死刑制度の廃止検討」「特定秘密保護法の厳格な運用」というラディカルな勧告に関し、「満額回答」を得たという心持ちで、「あとは勧告を錦の御旗にして体制側に要求を突き付け、レイシストを根絶すべき」という考えの人は、とりわけ反レイシズム運動にかかわっている人には多いのではなかろうか?
     国連人権委の勧告は日本の国家権力を抑圧する方針を出す一方で、その国家権力に排外主義者を取り締まれと要求しており、革新やリベラルの人々からすればこれほどありがたい存在は日本国憲法以外に無いだろう。
    とはいえ、仮に(拡大解釈によって言論取り締まりの口実に使われるのではなく、あくまで近隣諸国への憎悪発言のみの取り締まりのみに限定された)規制法が制定され実施されたとして、それが根本的な解決、つまり「人種、国籍、思想、性別、障害、職業、外見など、個人や集団が抱える欠点と思われるものを誹謗・中傷、貶す、差別するなどし、さらには他人をそのように煽動する発言が日本に存在しなくなる」ことになるのだろうか?
     例えば、義務教育の現場で起こる「いじめ」の問題は人権に対する罪だから、いじめの加害者を見つけ次第、片っ端から少年院送りにしてしまえば、「いじめ」の問題が解決するという考えがあるとしたら、今回の勧告はそんな考えと本質的に何も変わらないのではないのだろうか?
     もちろんこのように例えれば、いじめ問題が少年院送りで解決するわけがないということが、一般常識をもつ普通の大人ならば理解できるであろう。 つまり、根本的な問題が解決されずに見せかけだけが取り繕われ、実際のところ加害者はより露呈されないように水面下で行われるか脱法化する、もしくは開き直って過激化してしまい、総合的な実害をより大きくする可能性が考えられるだろう。
     「ヘイトスピーチやヘイトデモへの対策を求めている現実」とあるが、厳格に規制法を施行している国には日本以上の問題が発生している現実は見逃せない。 「戦う民主主義」を理念の一つとしたドイツでは民衆扇動罪を持つが、そのドイツにドイツ国家民主党(上記の例からすれば「脱法化」)が存在し、ネオナチによる日本のそれとは比較にならない程のヘイトクライム(上記の例からすれば「過激化」)が起きている。 
     もし、日本で規制法が施行されたら、「ヘイト」の運動家は脱法化してより広範囲に浸透するように動くか、または開き直った一部の人間が、「どうぜ犯罪になるのならば同じことだ」といわんばかりに、戦前の様に言論へのテロ行為を連発し、体制側が委縮させている訳でもないのに、結果的に日本の言論空間が委縮する(後述するような韓国の様になる)かもしれないだろう。
     しかし、ヘイトスピーチ規制法を要求する人々はそのような現実を平然と無視し、あるいは自明の理を自明とは認めないのである。
     いや、むしろ問題が複雑化し過激化することで、より強い「戦うべき敵」を求めているのではないだろうか?
    中津さんが紹介した「ストレートなものからウイットに富んだプラカード」の中に、「差別のダシに拉致問題を使うなよ!」というものがある。 しかしこの言葉は「拉致問題を差別のダシにする者」を非難するのみであり、差別と同様に人権問題である拉致問題に対して主体的に問題を解決しようという意思は無い。 
     そもそも、「排外主義くたばれ」「ネトウヨは日本の癌」などという言葉は、それら存在を日本社会から完全に排除することでしか自らの目的を達成することはないという意思表示であり、もちろんそんなことは現実には永遠に不可能であるから、逆説的に言えば「永遠に戦うことができる」といえよう。
     また、「ヘイト」の対象である韓国でも木村幹 神戸大学教授が「強固な常識」が確立したと指摘するように、従軍慰安婦問題を中心とした日本の植民地支配に関する言論空間はひとつのイデオロギーに制覇されてしまい、「日韓の和解」を第一に考え、慰安婦問題に異論を提示した朴裕河・世宗大教授は、「名誉毀損」容疑で告訴され、出版差し止めの仮処分も申請されたのである。 
    http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-common-sense_b_5510172.html
     このような事態は韓国側も「永遠に戦うことができる」ことを望む人間が一定の権力を握り、人権問題を論じながら他者の人権を奪うことを止めることができなくなりつつあることの証左ではなかろうか? そして、日本側の反ヘイト運動家も、朴教授の人権など歯牙にもかけないであろう。
     無論、「右側」にも「永遠に戦うことができる」ことを望む人間が存在し、そのような韓国や「アンフェアな人権活動家」がいることで自身の「正当性」をより確信し、「ヘイト」表現や活動に勤しんでいるというのが、今の日本で展開している相互不信の実態ではなかろうか? このような状況では国連人権委の勧告も問題を解決させるどころか、ヘイトと反ヘイトの仁義なき戦いをエスカレートさせるだけではなかろうか?

     さて、「いじめ」も「ネオナチ」も「韓国の民族主義者」も「日本の排外主義者」も「日本の反ヘイト運動家」にも、個々の大小の差があれ、共通している性向として「他者(敵)への攻撃欲求」があると私は考える。
    そしてその攻撃欲求は、強烈な「自己憐憫」という感情がもたらしているとみている。
     「自分は愛されていないし、敬意を持たれていない。 逆に、軽蔑されたり攻撃されたりばかりだ。 私は痛みや苦しみしか与えられない世界に生きている……」という自己憐憫の感情が、自分自身が不幸であったり攻撃されたりすることが当たり前だという心理に陥り、それが絶望と怒りへと発展し、他者の心理を察する力を失わせ、他者を傷つけ、また貶めることに遠慮が無くなり、社会に対しても批判的、攻撃的になるのではないだろうか?
     「愛国」だの「人権」だのは、そのような人々が「何を装ったのか」という違いにすぎない。
     そして強烈な自己憐憫の感情は、十中八九、その人間の幼少期から思春期にかけての不幸な経験に起因するもの(所謂、「アダルトチルドレン」)だろう。
     日本も韓国も、人間を強烈な自己憐憫の感情に落とし込む社会環境が出揃っているのではないだろうか?
    これは日本や韓国のニュースから伝わる「いじめ事件」や自殺率の高さや、日韓の若者に共通する自国の将来への絶望感などから、普通の人々でも容易に推察できよう。
     そして、ヘイトスピーチやヘイトデモへの対策というものを本気で考えるのならば、「規制法」「国連人権委の勧告」といった制度に依存するのではなく、自身の自己憐憫の感情を克服し、他者の自己憐憫の感情を克服させる環境、つまり一種のメンタルヘルス的な環境が社会の身近なところに存在することが必要であろう。
     ところで今号の「今週のマガジン9」でイゼルディン・アブエライシュ医師の著書、『それでも、私は憎まない』 を紹介していた。
     私はアブエライシュ医師の著書を読んだことはない(けどもこればかりは近日中に読破しなければならないとおもっている)が、(あまりよく存じ上げずに批評するのは、フェアでないという批判がでるだろうということは先刻承知だが)彼が自己憐憫の感情から最も遠い場所に存在する人間だということを、彼のこの言葉から私は断言する。
    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38238

     「人々に尊敬と尊厳と平等の注射をし、憎しみに対する免疫を与えなくてはならない。」

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