小石勝朗「法浪記」

 検察とは「社会正義の実現」を目的とする組織だと考えている人は、今でも多いのではないだろうか。しかし、この事件における検察の姿勢は、真実を究明することなんて二の次で、一度獲得した有罪判決(しかも死刑)を何としても維持せんがために、ありとあらゆる手段を使ってあがいているようにしか見えない。誠に残念なことに違いない。

 当コラムで重ねて取り上げてきた「袴田事件」である。静岡県で一家4人が殺害・放火されたのは1966年のこと。直後に逮捕された元プロボクサー・袴田巖さん(78歳)は公判で一貫して無実を訴えたにもかかわらず、80年に死刑が確定した。今年3月になってようやく、静岡地裁が再審(裁判のやり直し)の開始決定を出し、袴田さんが即日釈放されたことは、記憶に新しいことと思う。

 ところで、検察が再審開始決定を不服として東京高裁に即時抗告したために、袴田さんは無罪になるどころか未だ再審すら始まっておらず、身分は「確定死刑囚」のままだ。東京高裁での審理は8月以降、裁判所と検察、袴田さんの弁護団による三者協議が2回開かれ、本格化してきたばかりで、いつ決着するかの見通しすら立っていない。

 この中で、事件の最重要証拠である「5点の衣類」を発見直後に撮影した写真のネガについて、「なくした」と弁護団に回答していた検察が、ここへ来て突然、「地裁の再審開始決定が出た後に見つかった」と説明を翻していることは、当コラムでも取り上げた(〈袴田事件で新たに発覚した検察の「証拠隠し」疑惑〉参照)。その疑惑が解明されないまま、またしても検察のおかしな振る舞いが明らかになった。

 検察が袴田事件で徹底的に批判し続けているDNA鑑定の手法を、別の事件では絶賛していたという「二枚舌」の対応である。

 弁護団によると、こんな内容だ。

 袴田事件の再審請求審では、死刑判決が袴田さんの犯行着衣とした「5点の衣類」が本当に袴田さんの犯行着衣なのか、が最大の争点になった。静岡地裁の再審開始決定は「5点の衣類が袴田さんのものでも犯行着衣でもなく、後日捏造されたものであったとの疑いを生じさせる」と断じたが、その際に新証拠の一つと認定したのが5点の衣類のDNA鑑定の結果だった。

 鑑定の最大のポイントは、半袖シャツの右肩に付いた血痕だ。被害者ともみ合った際にけがをした袴田さんの血液とされていたが、袴田さんと一致するDNA型は検出されなかった。弁護団推薦、検察推薦の2人の鑑定人の共通の結論だった。さらに弁護団推薦の鑑定人(以下、H氏)は、被害者の返り血とされてきた血痕についても「被害者の血液は確認できなかった」と判断した。地裁はこの鑑定結果を大きな拠り所として、再審開始を決定した。

 即時抗告した検察は当然、H氏のDNA鑑定が正しくないことを立証しようと躍起になっている。

 関係者によると、検察が東京高裁に提出した書面では、5点の衣類が味噌に漬かった状態で見つかったことから、事件時点で付いたDNAは味噌によって分解されてしまったとか、検出されたDNA型は捜査や公判の過程で付着した第三者の唾液や皮脂などによるものだとか、さらにはH氏自身のDNA型が鑑定の際に混入した可能性にまで言及しているらしい。検察は独自にH氏の鑑定手法による「再現実験」を実施し、血液のDNA型を取り分けて抽出することはできなかった、とも主張しているそうだ。

 H氏の鑑定手法に対する検察の攻撃は地裁段階から始まっており、「H氏独自の方法であり、非科学的で信用できない」と強調してきた。それが高裁段階でさらにエスカレートし、H氏のDNAの混入疑惑にまで及び、西嶋勝彦・弁護団長が「誹謗中傷まで交えて批判しており品がない」と怒るほど過熱している。

 検察は高裁に対して、5点の衣類のDNA再鑑定とともに、数人のDNA鑑定専門家の証人尋問を申請しているという。いずれもH氏の鑑定手法に批判的な人たちとみられ、H氏の鑑定結果の正当性を潰すのが狙いだ。ここまで来ると権力の側の「執念」が感じられて、空恐ろしくなってくる。

 ところが、である。当の検察がかつて、H氏の手法を「科学的で信用性が高い」と公判で高く評価していたことが判明したのだ。

 その事件とは、神戸地検が2006年に起訴した兵庫県の殺人事件だ。被告の男性は犯行を否認していたが、H氏がDNA鑑定で、被害者の身体に付着していた体毛のDNA型が被告の型と「一致する」との結論を出し、裁判では鑑定の信用性が大きな争点になった。

 検察はこの事件の論告で、H氏について次のように持ち上げている。

 「過去、多数のDNA型鑑定等を経験し、豊富な実績を挙げている者であり、DNA型鑑定につき、高度の専門的な知識、技術、経験を有する者である」

 そして、H氏の鑑定手法や鑑定結果について「誰が行っても可能な普遍性を有する」「科学的根拠は十分」「高度の信用性を有する」と絶賛した。袴田事件でのH氏への評価と180度異なることに驚かされる。

 事件の現場に被告の指紋などの直接的な物証はなく、目撃者もいなかったが、神戸地裁は08年、DNA鑑定の結果を拠り所として検察の主張を全面的に受け入れ、求刑通り懲役15年の有罪判決を言い渡した。被告は控訴、上告したが、最高裁は11年に棄却し、刑が確定している。

 しかも弁護団によると、当時、H氏の手法は論文発表などがなされていない段階だったが、その後、論文で発表され国際学会でも認知されており、袴田事件のDNA鑑定が実施された11~12年時点では「一層、科学的に信頼性の高いものになっている」という。

 弁護団は、検察の二枚舌の主張が「著しく不当な訴訟活動」にあたるとして、9月末に東京高検に抗議するとともに、東京高裁に対しても、検察に主張の撤回を促すなどの訴訟指揮をするよう申し入れた。

 その中で弁護団は検察の姿勢を「これまでの主張に矛盾し、裁判所や弁護人、さらには国民をも欺かんとする行為であり、強い非難に値する」「司法に求められる『正義』などおよそ存在していない」「組織の威厳を保つために、科学に反し、自らの従前の主張にも反する主張をしてまで、無辜を死刑に処さんとする国家権力の行為には戦慄すら覚える」と強く批判している。もっともだと思う。

 この問題、独立した記事で扱った全国紙は読売新聞(9月30日付朝刊)くらいで一般にはあまり知られていないが、各方面で波紋を広げつつある。

 日本プロボクシング協会など袴田さんの支援団体は10月8日、東京高検へ抗議に赴いた。現役世界チャンピオンの内山高志さんと井上尚弥さん、元世界王者の輪島功一さんも参加した。もっとも高検は「支援団体の前回の抗議(別件)から日にちが経っていない」という理由できちんと応対せず、庁舎玄関前で事務官が抗議文を受け取るだけだった。

 10月24日の衆議院法務委員会、28日の参議院法務委員会でも取り上げられた。しかし、就任したばかりの上川陽子・法務大臣らは「係属中の刑事事件に関わる事柄で、所感を述べることは差し控えたい」と答弁するばかりで事実関係にさえ触れなかった。「具体的事件に関する検察の活動に重大な影響を与えたり、影響を与えるのではないかとの国民の疑念を生じさせたりしかねない」(上川法相)からだそうだ。きちんと説明しないからこそ、疑念を深めるのだけれど……。

 少なくとも検察には、2つの事件でH氏の鑑定手法への評価が正反対になっている理由をきちんと説明する義務がある。いくらなんでも「有罪にするためなら何でもあり」という態度では国民の理解は得られず、検察への不信感が増すばかりだろう。「社会正義の実現」という原点に立ち返り、袴田事件における今後の取り組みを再考されるよう切望する。

検察の「二枚舌」主張に抗議するため東京高検に向かう(右から)内山、井上、輪島のボクシング現・元世界王者(10月8日)

 

  

※コメントは承認制です。
第37回
今度は検察の「二枚舌」主張が発覚した袴田事件~有罪にするためなら「何でもあり」なのか
」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    証拠隠しに証拠捏造と、次々に発覚する疑惑に、何度も「信じられない」思いにさせられてきた袴田事件ですが、またしても…。〈きちんと説明しないからこそ、疑念を深める〉との指摘、そのとおりだと思います。
    袴田さんが48年ぶりに釈放されたことで、なんとなくめでたしめでたし、の雰囲気も漂った袴田事件ですが、実際にはまだ「再審開始」というスタートラインにさえ立っていないのが現状。「一件落着」で終わらせてはなりません。

  2. ピースメーカー より:

    とっくに「一件落着」して、あとは検察側の責任追及だけだと思い込んでいたのですが…。
    一言でいって「往生際が悪すぎ」です。
    袴田さんを犯人だとする証拠も杜撰、袴田さんが犯人では無いという証拠に対する反論も杜撰で、よくもまあ即時抗告できるもんだと、その図太さに感心してしまいます。
    これでは、袴田事件に関わった人間の誰かの権威を守ろうとするために足掻いているようにしか、私には見えません。
    袴田さんが晴れて無罪になった後でも、この事件に関わった取調官や検察官については、今後はジャーナリズムが責任追及すべきですし、しっかりとした本にして後世に残すべきでしょう。
    言うまでもなく、そのような本は「ヘイト」本ではありません。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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