風塵だより

 だいぶ前のことだけれど、このコラム「風塵だより17」で、ぼくは「『安倍話法』という詐術」を書いた。読者少数のこのコラムには珍しく、ずいぶん多くの人たちが読んでくれたようだった。それだけ、安倍首相の話しぶりに違和感を持っている人が多かったということだろう。
 最近では、新聞記事にも、チラホラと「安倍話法」という言葉が散見されるようになった。提唱者としては嬉しいけれど、こんな言葉が流行るような人物が我らの国の“最高責任者”であることは、いかにも辛い。

 その安倍首相だが、最近は「安倍話法」に、ますます磨きをかけているようで(苦笑)、しゃべることが支離滅裂になってきた。
 しかも、親分がそんな具合だから、子分たちだって支離滅裂ぶりを競い合うようなあんばい。だから、国会での質疑がきちんと成立するはずもない。それこそ“ハンパない”惨状に陥っている(無理して若者言葉を使いたくなるほど、ハチャメチャだ)。
 つまり「安倍話法」が「安倍内閣話法」へと拡大(?)しつつあるのだ。むろん、安倍のシリメツレツぶりが突出しているのは、さすがに親分の貫録(?)というところか。

1. きちんと説明できないことは、ペラペラと関係ないことまで持ち出して長々としゃべりまくり、相手のやる気を殺ぐ。

 これが、国会審議の場で、もっとも目につく「安倍話法」の真髄だろう。
 何しろ、うるさい。あの舌足らずな話し方で、訊かれてもいないことを延々としゃべり続ける。1分ほどの質問に5分以上も使って、中身のないペラペラ答弁をまくし立てる。持ち時間が決められている質問者にとっては、たまったもんじゃない。
 説明のつかない「安全保障関連法案(戦争法案)」に関しては、この傾向がことのほか強い。
 しかも、質問に対応できずに右往左往する中谷防衛相を抑えて、自分が指名されてもいないのに答弁に立つ。質問者に「ソウリ、あなたに質問しているんじゃない」と言われても「答弁者の指名権は委員長にある。あんたに指名権はないんだ」と開き直る。
 もはや、制御不能のメルトダウン原発みたいなものである。危なくってしょうがない。

2. ほとんど意味不明の下品なヤジを飛ばすが、謝れば済むと思っている。

 まあ、これほどヒドイ首相ってのも、日本政治史上初めてだろう。なにしろ国家の最高責任者である首相自らがヤジを飛ばし、しかもそのヤジに品がないときている。よく「世界に対して恥ずかしい」なんてことを言う人がいる。それこそ誰かさんたちがよく言う“自虐”っぽいので、ぼくは使わないけれど、今回ばかりは、本気で「世界に対して恥ずかしい」と赤面しちゃう。実際、下品なヤジを飛ばしてニヤニヤ笑う“国の最高責任者”の姿を目にしたら、世界の人はどう思うだろう?
 2月19日の衆院予算委員会では、民主党玉木議員の質問中に「日教組、日教組、日教組どうすんの!」とヤジ。これは日教組が補助金をもらっているというほとんど“ネット右翼情報”並みの怪情報を信じ込んでいたというお粗末。むろん、数日後に陳謝せざるをえなくなった。
 5月28日には、民主党の辻元清美議員の質問中、「早く質問しろよ」と恫喝まがいのヤジ。①で指摘したように、自分では延々と質問者の持ち時間を浪費するような、無意味で冗長な答弁でごまかすばかりだが、相手に対しては威丈高に吠え立てる。ある意味、幼児性むき出し。もっと言えば、言葉は悪いけれど“ガキ”だ。
 これも、陳謝に追い込まれたが「言葉が少し強かったとすれば、お詫びする」と、わけの分からない言い逃れでごまかした。言葉の「強い・弱い」の問題ではあるまい。まさに、首相としての資質が問われる問題なのだ。
 だが、もっと深刻で下品なヤジもあったのだ。実は、同じ辻元議員への別のヤジだ。

辻元「人の生死とか、戦争に関わる話なんですよ。なにも大げさな話を申し上げているわけではないんです」
安倍「大げさなんだよっ」

 安倍の無知蒙昧、というより冷酷さがはっきりと表れたたヤジだ。辻元議員が「人の生死や戦争に関わる話」と言っているのに、それが「大げさ」だとまぜっ返す。人間としての最低限の品性さえ感じられない。
 安倍の頭の中では、人の生死も戦争も、何の現実感もないらしい。自分の妄想(ノブスケじいちゃんの渇望の実現)だけが膨らんでいるのだろう。
 こんな首相が振り回す「戦争法案」で海外派遣される自衛隊員は、ほんとうにたまったもんじゃない。なぜか、このヤジはあまり伝えられず、これについての安倍の陳謝もないままだが、本質的にはこのヤジのほうが最悪だと、ぼくは強く思う。
 これだけでも、安倍退陣の理由になるほどだろう。

3. まったく根拠のないことでも、さも裏付けのある事実のように粉飾して相手を煙に巻く。

 たとえばこの「戦争法案」で海外派遣される「自衛隊員のリスク」に関する質疑だ。自衛隊員の任務はこの法案によって、膨大に拡大する(はずだ)。危険極まりないのが「後方支援」「治安維持」「駆け付け警護」などだろう。
 軍事ジャーナリストの田岡俊次さんも、次のように強調している(週刊金曜日、5月29日号)。と題する論考だ。

軍事がわからない安倍首相の暗愚
(略)同法(注・PKO協力法)改定案には住民などに対する危害の防止や区域の保安のために「監視、駐留、巡回、検問、警護」を行うとしている。イラクの例を見れば、テロリスト、ゲリラの監視のため、もし家宅捜索をすれば反撃を受けることがあり、街路を装甲車で巡回すれば道路脇爆弾や対戦車ロケットの犠牲となることも多い。(略)
 「国際平和支援法案」では、自衛隊が提供する役務の中に「補給、輸送」が入っているが、ゲリラは戦闘部隊と正面衝突するよりは、後方に潜入して補給を妨害しようとし、輸送車列は攻撃を受けやすい。安倍首相は「戦闘が起きれば、ただちに部隊の責任者の判断で一時中止、あるいは退避する」というが、車列が停止し、Uターンして退避しようとすればかえって狙われやすく、応戦して突破する方が合理的な場合もある。(略)
 こうした任務を自衛隊に課しながら「戦闘に参加することは決してない」と言うのは、もし戦闘になって、死傷者が出れば、この発言が非難の的となるだけに政治的方便としてもおかしいが、メディアがこの矛盾を十分指摘したとは言い難い。(略)

 どうだろうか。この他にも田岡さんは「駆け付け警護」のデタラメさも、「デモクラTV」などで指摘している。
 すなわち「駆け付け警護」とは、現に武装勢力からの攻撃に遭っている他国軍や国連機関、NPOなどの救出に向かうものであり、戦闘そのものに参加することだ。ここで「戦闘が起きたから、はい、中止、撤退」などということをしたら、それこそ世界中の物笑いの種になるし、批判の的になるのは当たり前だろう。
 安倍は、そんなことも知らずにこんな法案を推進するのか、と田岡さんが慨嘆するのだ。誰が聞いても当然な指摘だと思う。

4. 「“絶対に”大丈夫」とか「“決して”起きない」などと、根拠のない強い表現を好むが、そこを突かれると逆切れする。

 田岡さんも③で触れているけれど、安倍は「自衛隊員のリスクが増えるではないか」と指摘されると「戦闘に参加することは決してない」と胸を張った。どうしてそういうことになるのか、説明はまったくない。ただ、自信たっぷりに「決してない」を繰り返すだけ。もはや壊れた録音機である。その“根拠なき自信”がどこから来ているのか、さっぱり分からない。
 審議後の記者会見でも、安倍は「アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか、という声もあるわけですが、はっきり申し上げます。絶対にありません!」と、根拠のない“絶対”を繰り返した。どこにこの“絶対”の根拠があるのかについては、まったく答えない。
 田岡さんの指摘にどう反論できるのか。国会審議の質問者も、その点をもっと突けばいいのに…と、国会中継を見ながら、ぼくも思った。

5. 意味不明の言葉を新語・造語をやたらと持ち出す。その言葉の定義があいまいだから、議論がうまく噛み合わない。むしろ、そこを狙っているのかもしれない。

 とにかく、今回の「戦争法案」は、妙な言葉の大安売りだ。その中でも特に訳が分からないのが「事態」だ。
 「重要影響事態」「存立危機事態」「武力攻撃予測事態」「武力攻撃切迫事態」「武力攻撃事態」「国際平和共同対処事態」…。これらをきちんと説明できる人がいたら、ぜひお目にかかりたい。
 しかも、それらの「事態」が互いに入り組んでいて、どこからが「重要影響事態」で、どこから「存立危機事態」に変化するのか、訊いている質問者も答弁する大臣らも、よく分かっていないらしい。だから答えがバラついて、よけい訳が分からなくなる。
 麻生財務相が「議員の奥さんたちを集めて説明会を開いたが、まったく理解できなかった」というほどだから、奥さんたちに限らず議員たちだって理解の外なのだろう。
 これは、安倍個人だけではなく、もう安倍内閣の閣僚や自民党の重鎮たちにまで蔓延している。
 たとえばこんな例。
 「武器使用」と「武力行使」は違うのだという。これは、中谷防衛相も繰り返していることだが、「武器の使用は正当防衛などの警察権の範囲内で行うものであり、武力行使は国家もしくは国家に準ずる組織との戦闘行為であるから、両者はまったく違う概念」だというのだ。
 5月27日の国会審議で、維新の柿沢議員の質問に対し中谷防衛相は、「武器の使用と武力行使の違い、ほんとうに分かりませんか。分からないのなら議論はできませんよ」と開き直った。だが、この質疑における中谷防衛相の説明は、以下のようなものだった。

「武力の行使」とは、我が国の物的人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為を行います。これが武力行使です。一方「武器の使用」とは、直接人を殺傷し、または武力闘争の手段としてものを破壊する機械を、その本来の用法にしたがって用いることを言います。

 この説明で「武器使用」と「武力行使」の違いを、きちんと理解できる人がいるだろうか?
 むろん、官僚が書いた作文を中谷大臣が棒読みしただけのことだろうが、そもそもこんなわけの分からない文章を読み上げて、「これが分からないなら議論できない」などと開き直るところが、なんともスゴイ!
 この内閣、一事が万事こうなのだ。特に、「安全保障関連法案(戦争法案)」の審議に入ってから、こういう理解不能な問答(とても議論とは言えない)が多くなったのだ。
 そんな有り様なのに、安倍以下閣僚たちは「国民に丁寧に説明して理解を求めていく」と繰り返す。

6. 無知を恥じない。恥の上塗りをする。

 もう有名になってしまったが、5月20日の党首討論において、志位和夫共産党委員長の質問に、なんと安倍首相はポツダム宣言について「その部分をつまびらかに読んでいないので、ただちに論評することは差し控えたい」と、まさに驚天動地の答弁をしてしまったのだ。
 「ポツダム宣言」とは、日本に無条件降伏を迫るために、1945年7月26日に、米英中の首脳がドイツのポツダムで合意した歴史的文書だ。これによって、日本の戦後の道筋が決められたといってもいいほどの重要な意味を持つ。
 そんな重要文書を、当事国の首相である安倍が「つまびらかに読んでいない」と口走ってしまったのだ。
 さらに、志位氏によれば、安倍首相は2005年、自民党幹事長代理だった当時、月刊誌「Voice」(05年7月号)で次のように語っていたという(朝日新聞5月22日付)。

(略)(安倍氏は)「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと指摘。だが、宣言は1945年7月26日に米英中の名で発表され、同8月6日と9日の原爆投下後、日本が同14日に受諾した。志位氏は「(宣言は)二つ原爆が落ちた後に『たたきつけられた』ものではない。事実誤認がある」と述べた。(略)

 つまり、安倍首相は、事実関係さえ知らずに、その時の思いつきでペラペラと分かったようなフリをして、話をしてしまうのだろう。この時だって、自民党幹事長代理という要職にあったのだから、こんなに言葉を軽く扱っていいわけはない。
 だが、これは彼の本質のようだ。何度間違いを犯しても、まるで反省の色もなく、それを指摘されると逆切れする。

7. 開き直る。

 とにかく批判されると開き直る。
 これも、5月20日の党首討論、岡田民主党代表に問い詰められると、安倍首相、なんとも奇妙な開き直り。
 「法案の説明についてはまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」…??????……
 いったい何なのでしょうか、この答弁。
 わけが分からなくなったり、答えに窮したりすると、こういうなんとも珍妙な開き直りをするのも「安倍話法」の大きな特徴だということは、憶えておいたほうがいい。

 「安倍話法」のデタラメさは、もっともっとたくさんある。書いても書いても書き切れない。書いているほうも、くたびれてしまう。だから、今回はこの辺でやめとこう…。

 最近も、ぼくはいろいろな集会やデモに参加している。反原発、秘密保護法、戦争法案、沖縄米軍新基地建設反対、マスメディアと表現の自由、改憲…とテーマはさまざまだ。あんまりいろんなことがあるので、参加するだけでけっこう忙しい。
 そんな場では、「もうさまざまなテーマ別にやっていては間に合わない。『安倍退陣!』こそが、いまや最大最重要のテーマだ」という声が、とても大きくなっている。
 ぼくも、心からそう思う。

 

  

※コメントは承認制です。
32 ふたたび「安倍話法」について」 に5件のコメント

  1. 戦略的には間違ってないと思いますよ。あれ確信犯なんじゃないのかな〜。かつてブッシュがボケかまして、逆に支持率上がったように、安倍総理も日本のマジョリティであるヤンキーうけ狙ってる。逆に志位さんみたいなツッコミは、マイノリティの知識人うけはしても、ヤンキーの反発食うから、内輪で盛り上がっても支持率は伸びない。

  2. 島 憲治 より:

     読んでいてとても疲れた。 しかし、当の安倍氏は全く疲れは無いだろう。むしろ国会を持て遊び楽しんでいるかのように映る。つまり国民がナメられているのだ。                                        「戦争」の話をこの不真面目さでやってのける安倍氏のエネルギー源は一体どこからくるのか。勿論本人の特質にあるのだが、それを許す世論にある。そして、世論形成に大きな役割を果たすメディアにある。 
     又、同質の仲間と過ごし語り合う時は楽しいことだろう。これも又重要なエネルギー源だ。そして、異質の人を寄せ付けない為さらに話は弾むことだろう。「安倍話法」の数々。「逆キレ」の数々。まさに精神的未熟さを表すいわゆる”ガキ”の範疇に当てはまる光景ではないか。
    今の日本は「空気的大衆社会」だと指摘する社会学者がいる。その空気で動かす知恵はないものか。「安倍退陣」を実現する為に「空気的大衆社会」を動かす「ワンフレーズ」が欲しい。
      この段になってもなお国民は静かだ。不可思議だ。

  3. ホタル より:

    安倍話法、本当にぞっとします! それに加えて穴だらけの法案、異様すぎる答弁を繰り返し見せつけられて最近ふと思いました。これらを準備した官僚の方々は、実は「ねえ、こんなにあちこちに突っ込みどころ仕掛けといたんだぜ。法案成立できないように、わざとなんだから。野党よ、メディアよ、しっかり突っ込んでよ!ちゃんとね!」という気持ちで作ったのじゃないかなあ、と。もし本当にそうだとしたら、期待に応えられる器のない今の日本の国会状況、ジャーナリズム状況は絶望的です。

  4. 森口竜太郎 より:

    安倍話法の深刻な所は、言葉が無力であり、結局のところ政治とはお金のやり取りのみに終始する営みなのだという認識を国民に植え付け、議会という場での討論という営みを無意味なものとしてしまう所だと思う。安倍氏に限らず、自民党の政治家は他者の問いかけに誠実に答えない。最近では答えるふりをすることすら放棄している。従ってこの様な対話拒否の姿勢には、民主党の小西議員や、共産党の志位委員長のやったように法令の文言についてのクイズ的質問をぶつけるしか手がない。併し、これはむしろ戦略的には殆ど効果のないか、若しくは逆効果な方法だと思う。近頃話題になっている反知性主義というものがどういうものだか詳しくはわからないが、この言葉を聞いて最初に思いついたのは、アメリカ大統領選でアル・ゴア氏がブッシュ氏に敗れたことだ。アル・ゴア氏は、政治家にとって重要な資質である語彙の豊富さに於いて明らかにブッシュ氏に勝っていた。併し、アメリカも学歴社会であり、学歴社会は学歴競争に勝った少数のエリートと大多数の敗者たる大衆で成り立っている。学歴競争に敗れた者たちは、高度な言語能力を持つものが自分たちの上に立つ仕組みを理屈の上では認めつつも、自分たちが敗れた学歴競争の勝者たちへの反感を日々募らせている。そういった土壌の上で、言葉の上で鮮やかにブッシュ氏を翻弄してみせるゴア氏に対して、鼻持ちならないものを感じ、遥かに貧しい言語能力の持ち主を勝たせてしまった。議会制民主主義は、言葉こそが最大の武器であり、お金や暴力という方法を卒業した社会の政治形態のはずであるのに、流暢に言葉を操るものがかえって反感をかい、貧しい言語能力の持ち主に信任を置くというジレンマに陥っている。

  5. 島 憲治 より:

    コメント、なるほどな~と思って読んだ。「政治をやっているのは憲法学者ではない。我々だ。」と強調する谷垣幹事長。だったら参考人に憲法学者を呼ばなければいいのに。、同時に御用学者にも見解を尋ねるな、といいたい。しかし、事はそんなレベルの話ではないことを感じた。谷垣発言がさらに大衆を「戦争法案」支持の構造にすることだ。コメントを読んでそんな思いを強くした。それを打開する戦略はないものか。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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