この人に聞きたい

戦後70年目の今、この国の形が大きく変わろうとしています。
なぜこのようなことになったのか? いつからこの事態が進んでいたのか? 塾長こと伊藤真弁護士に、くわしく解説いただきました。3回連続でお届けします。

伊藤真(いとう・まこと) 弁護士・伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。また「一人一票裁判」訴訟の原告団弁護士としても活躍中。『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生 のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)、『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)など著書多数。近著に『けんぽうのえほん/あなたこそたからもの』(大月書店)。
「平和支援法」は「戦争支援法」。
「ごまかし」に惑わされない

編集部
 前回、「平和と自由とは一体だ」というお話がありました。9条が変わって「戦争のできる国」になることで、私たちが当たり前に享受してきたさまざまな自由までが失われかねない。それを押しとどめるためには、何が必要なのでしょうか。

伊藤
 それはもう、国民が声をあげ続けるしかありません。「反対の声がこれだけあるぞ」という意思表示をし続けて、例えば今回の安保法制を継続審議に持ち込んで、成立させないようにするしかない。
 そのために重要なのが「騙されないこと」です。

編集部
 騙されない?

伊藤
 いろいろな言葉に惑わされない賢さを持つこと、と言ってもいいかもしれません。例えば、安倍首相は「積極的平和主義」というけれど、これは実際の内容を見れば「積極的軍事介入主義」ですよね。「秘密保護法」だって、本来は「情報統制法」に過ぎないし、武器輸出を解禁するときには「防衛装備品を移転する」と言い換えられました。
 今回の安保法制でも、「国際平和支援法」なんて完全に「戦争支援法」です。それに、武力攻撃事態、存立危機事態、重要影響事態、国際平和共同対処事態…と「事態」という言葉を連発するでしょう。昔、日本が戦争を「事変」といってごまかしたのと同じ。「事態」という言葉で「戦争」をごまかそうとしているんです。
 そもそも、安倍首相は一方で「断じて戦争をしません」と言い、その一方で「抑止力を高めて国民を守ります」と言う。この二つは、両立しない概念ですよ。抑止力というのは「いざとなったら叩く、戦争をする」という意思と能力を示すことで成り立つのですから。

編集部
 そうした「ごまかし」に乗らず、きちんと「おかしい」と言っていかなくてはならない…。

伊藤
 政府や権力は、市民にとって信頼の対象ではなく、常に監視の対象であるべきだというのが立憲主義の根本です。先にお話ししたように、今後政府は多分、急激に危険なことはやらず、「法律や憲法解釈が変わっても何も変わらないでしょう、安全でしょう」と宣伝しはじめるでしょう。そういうものに騙されない、乗せられないことがすごく大切だと思うのです。
 そして、私たちは政府の使う言葉をしっかりと具体的なイメージをもって受け止めないといけません。
 たとえば、集団的自衛権はあくまでも限定的に行使できるようになるだけだと言われますが、いくら行使できる条件を限定したとしても、ときの政府がその条件を満たしていると判断してしまったら、海外で武力行使ができてしまうわけです。
 この武力行使という言葉も曲者です。日本の自衛隊が海外で武力を行使するということは、日本人が海外で、他国の国民を殺傷し、その生活を破壊することを意味します。また今回、他国軍隊の武器等防護ための武器の使用を現場の判断で認めようとしていますが、それは米国の軍艦を守るために自衛官がミサイルを発射することを認めるということです。相手の国からはどう見えるでしょうか。

平和を「人権の問題」として位置付けるのが
平和的生存権

編集部
 現政権の一つの「ゴール」ともいえる自民党改憲草案では、現憲法下で認められているさまざまな権利や自由が厳しく制限されています。その最たるものが、憲法前文などから導き出されるとされる「平和的生存権」ではないでしょうか。

伊藤
 そうですね。「全世界の国民が、 ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という、憲法前文にある一文は、さまざまな点で非常に大きな意味を持っています。自国民だけでなく「全世界の国民」を視野に入れていることもそうですし、平和を「単なる戦争のない状態」ではなく「恐怖と欠乏から免れている」状態だと位置付けたこともそうです。
 そして何より、「恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存する」ことを、あらゆる人権の基底的な権利として認めているということが重要です。「基底的権利」とは、自衛隊のイラク派遣を違憲とした名古屋高裁判決の判決文で使われている言葉ですが、恐怖と欠乏から免れて平和でいることができて——平和的生存権が守られて初めて、表現の自由や信教の自由といった、さまざまな人権を守ることが可能になるんだ、ということですね。

編集部
 すべての人権の基礎になる権利なんですね。

伊藤
 同時にこの一文は、平和を国の安全保障政策の問題ではなくて、人権の問題として位置づけている、とも取れる。これは、本当に画期的なことなんです。

編集部
 どういうことですか?

伊藤
 つまり、通常は「平和」というのは、政治の場での安全保障政策を通じて実現されるものだと考えられているわけです。ところが、この憲法前文は、一人ひとりの個人の人権を通じて平和を実現しようとしている。政策は最終的には多数決によって決められますが、人権は多数者の意思によっても奪えないものですから、最後の1人になってもそれを主張することができる。つまり、何かとんでもない安保政策が実行されようとしたときに、たった1人でも裁判所に「これは平和的生存権の侵害だ」と訴えることができるわけです。

編集部
 平和の実現に向けた、もう一つの「ルート」が用意されているわけですね。

伊藤
 そういうことです。政治のルートとは違う、人権というルートで平和を実現する。そうした、いわば「道具」を、憲法が国民一人ひとりに与えているというのはすごいことだと思いますね。

福井地裁の原発差し止め決定が
意味するものは何か

編集部
 実際に「平和的生存権」を根拠とした裁判所の判決はそれほど多くありませんが、それに近いものとして、福井地裁による、大飯原発、高浜原発の運転差し止めの裁判があるかと思います。判決文の中では「人格権」という言葉が使われていました。

伊藤
 人格権というのは、一般的に出版の差し止めなどの裁判でよく使われる言葉です。名誉やプライバシーといった人格的利益を守るために、出版を差し止めるといった形ですね。
 しかし、そうした名誉やプライバシーなどの利益も、まずは生命と生活が維持されていることが前提になるものです。だから、この差し止め決定の判決では、「生命を守り生活を維持する」ことを人格権の根幹部分だと位置付け、その他の、例えば経済的自由などはそれより劣位に置かれるんだと言っている。そして、その根幹部分の権利について「具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できる」と述べているんです。

編集部
 その「具体的侵害のおそれがある」のが原発だということですね。

伊藤
 「大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い」として、原発事故と戦争、自然災害の三つを並べて論じています。ここでいう「根源的な権利」こそが、平和的生存権なんですね。例えば東日本大震災で、津波や地震の被害を受けた人たちも、まさに平和的生存権を侵害された状態にあったわけです。

編集部
 しかし自民党の改憲草案では、この平和的生存権も認められなくなりそうです。

伊藤
 憲法前文が大きく変えられていることに加え、平和主義の根幹である9条2項が削除されていることが大きいです。全体として「平和的生存権なんていう余計なものはいらない」という感じ。法律を制定する際にも当然、そんな権利には配慮しないということになるでしょうね。

平和の実現は
政治家だけが担うものではない

編集部
 そうなれば、こうした原発差し止め訴訟などを起こすこと自体が難しくなる。また、伊藤先生がずっと力を入れてこられた、選挙における一票の不平等を是正する「一人一票」の訴訟も、自民党の改憲案がもし通れば起こせなくなる可能性が高いそうですね。

伊藤
 自民党の改憲案では、選挙区について定めた47条も変更されています。そこに「各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」とあるんです。わざわざこの一文を入れているわけです。そうすると、人口を基本とはしていても、「行政区画を勘案したから」というので、批判されている一人別枠方式も問題がないということになってしまう。

編集部
 ひどいですね。一人一票は、民主主義の基本中の基本のはずなのですが…。

伊藤
 でも、憲法にそう書けば制限できてしまうわけです。どれだけ一票の価値に差ができても、「この選挙区割は、国が総合的に勘案して定めたものだから合憲です」で終わりです。

編集部
 そうなる前に、一人ひとりがちゃんと行動していかなくてはならないなと、改めて思います。

伊藤
 そのとおりです。今回の戦争関連法の整備によって、自衛隊の任務や行動が、グローバルに拡大していくとなると、部隊の人的・物的規模も拡大せざるを得ません。しかも、自国を守るために東アジアにおける軍事的脅威に備えながら、他国の戦争に加担する体制を維持する以上、軍事予算の規模はさらに大きくならざるを得ないでしょう。
 限られた歳入からこれを賄おうとすれば、その財源は増税と福祉予算の削減によるほかありませんから、高い税負担と薄い福祉を前提にした生活を国民は強いられることになります。
 私たち一人ひとりの生活に密接に関係してくる問題なのだということです。ですから、デモや署名をする、メディアに意見を言い続ける…さまざまな形で「国民は黙っていない」という意思表示をし続けなくてはなりません。
 憲法で平和的生存権が認められているということは、裏を返せば一人ひとりが、そういう人権を自分たちは持っているんだと自覚し、かつ主張して行使しなければ意味がないということでもあります。一人ひとりの国民がその権利を「使って」いく責任ある立場に置かれているんです。

編集部
 声をあげていかなくては、何の意味もないですね。

伊藤
 平和の実現は、何も政治家だけが担うものではない。一人ひとりが自分の問題として考えて、いざとなったら立ち上がる覚悟を持たなくてはならないと思います。武器を持たずとも、表現の自由の元で、平和的生存権という人権を主張するという平和的な方法で立ち上がる。そういう手段を、今ある私たちの憲法はしっかりと保障してくれているのですから。

(聞き手 塚田壽子/構成・写真 仲藤里美)

 

  

※コメントは承認制です。
伊藤真さんに聞いた(その3)
「平和的生存権」を持つ私たち一人ひとりが平和の実現に向けて、声をあげよう
」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    安保法制をめぐる国会中継を見ていると、「国の安全を考えるのは、政治家の仕事。国民は(専門家さえも)黙っていろ」と言わんばかりの昨今の与党政治家の振るまいです。
    しかし、塾長の解説によると、日本国憲法前文と第9条2項から導き出される「平和的生存権」を使って、国民がたった一人でも、裁判所に「これは平和的生存権の侵害だ」と訴えることができることがわかりました。憲法は、人権というルートで平和を実現するための「道具」を、私たち主権者に与えているわけです。一方で、自民党の改憲草案では、そこの部分もばっさりと削除されてしまうこともまたわかっています。私たちが、今やるべきことは何なのか? 「平和」とは何なのか? まさに今、「現憲法」から突きつけられているような思いにもなります。

  2. 中川瑞代 より:

    8月15日安保関連法違憲訴訟を女性の権利の侵害との位置づけで提起しました。
     法的構成として、抽象的な法令無効主張の訴訟との差別化をはかる具体的権利性の主張をどう展開するか、裁判所を説得するか悩んでいます。
     

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