この人に聞きたい

物心ついたときから、
ずっと基地と向かい合ってきた

編集部
 山城さんご自身のことも少しお聞きしたいのですが、お生まれはどちらですか?

山城
 沖縄県中部、今はうるま市の一部になっている旧具志川市です。私が生まれた地域はキビ畑が広がる農村地帯でしたが、隣は「基地の町」コザ市(現沖縄市)。物心ついたときからずっと基地と向かい合ってきたという感じです。

編集部
 基地問題には、ずっと関心があったのですか。

山城
 高校に入学した年、1968年に、嘉手納基地でのB52 戦略爆撃機の墜落炎上事故(※)があって、もしかしたら、沖縄は核爆発で消えていたかもしれないという恐怖をまざまざと味わったんですね。同時に、当時は日本がいよいよアメリカと沖縄返還に関しての交渉を進めようとしていたころ。ところが、「核抜き本土並み」と言いながら、どうも返還後も米軍基地はそのまま維持されるんじゃないか、「核付き自由使用」なんじゃないかということが明らかになってきて、沖縄中が怒っていた時期だったんです。学校の周りは基地を囲む金網だらけで、身近に米兵による暴行事件なども起こっていましたし、僕たち高校生も声をあげようというので、校内で「返還協定反対」のハンストをしたりしました。

※B52 戦略爆撃機の墜落炎上事故…1968年11月、米軍のB52戦略爆撃機が、嘉手納基地を離陸直後に墜落・爆発炎上した事故。墜落地点のすぐ近くには弾薬庫があり、核兵器も貯蔵されていたとされる。

編集部
 学校を出た後は、そのまま沖縄にいらしたんですか。

山城
 東京で大学に行ったり、また沖縄に戻って働いたり、いろいろあったんですが、最終的には29歳で沖縄に戻って、県庁に勤めるようになりました。そこで配属されたのが駐留軍従業員の離職対策事業。米軍施設で働く人たちの合理化が激しかったときで、クビを切られた人たちの再雇用が大きな課題になっていたんです。

 その関係で、初めて嘉手納や普天間といった米軍基地の中に入ったのもそのころです。子どものころからずっと、あの金網の向こう、ゲートの向こうには何があるんだろうと思っていたので、「これが米軍基地なのか」と。特に、嘉手納飛行場の中に入ったときはショックでした。とにかく広大で、中に住宅街があり、学校や商店街、野球場、プール、バー街…基地そのものが一つの町なんですよね。ここは沖縄であって沖縄でない、よく言われるように「リトルアメリカ」なんだと痛感させられました。

編集部
 そこから、現在事務局長を務める「沖縄平和運動センター」に参加されるようになったのは? 

山城
 このセンターは、沖縄の労働運動団体がつくる平和運動の組織なんですね。ただ、私自身は、県庁に入ってしばらくは、それほど熱心な活動家ではありませんでした。せっかく県庁に入ったんだし、ちょっとおとなしくしていたほうがいいかな、という思いも正直なところありました。

 転機になったのは1987年の海邦国体(※)です。その運営を担う国体事務局に2年間派遣されて仕事をする中で、「やっぱりおかしいよな」と思い始めた。たしかに多額の公共工事費が投入されて、野球場だプールだと施設が次々につくられたけれど、景気がよくなるのも国体開催中だけで、終わったらすぐにダメになってしまう。さらにはこの国体を機に、文部省(当時)の指導で学校の卒業式などでの日の丸掲揚・君が代斉唱の強制も始まるなど、沖縄中が振り回された。何より、沖縄がこんなに基地でがんじがらめにされている現状がありながら、「国体ですべてが変わる」みたいなものの言い方はおかしいだろう、と思わずにいられなかったんです。

 県民としてのそういう思いがある一方で、自分も国の方針を受け入れている県の一職員であるわけで、本当に苦しかった。

※海邦国体…1987年、沖縄県内の34市町村で開かれた第42回国民体育大会。沖縄の復帰15周年記念大会という位置づけでもあった。

編集部
 国の政策と、個人としての思いがぶつかって葛藤する、その大きなきっかけが国体だったんですね。

山城
 県庁みたいなところは特にそうですが、民間の職場であっても、個人の信条を通そうとすればどうしても組織とぶつかってしまうというところがあります。例えば、港湾労働者として働いている人は、港湾の軍事利用に反対だと思っていても、仕事としては米軍の物資を積み下ろししたりしなくてはならないわけでしょう。基地で働いている人ならなおさらです。我々は権力の側にいるわけじゃないから、選択できない部分もあるし、その中で自分を失わないで立ち向かっていくのは、個人のレベルではなかなか難しいと思います。

 私自身も、耐えきれずに一度は辞表を提出したこともあります。ある上司のおかげでクビはつながりましたけど、やっぱり自分の本音を隠してはやっていけない、ちゃんとこうした問題と向かい合っていかなくては、という思いに駆られたのはそこからですね。組合運動に積極的に参加するようになった流れで平和運動センターにもかかわり、2004年からはその事務局長として活動しています。

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山城博治さんに聞いた 国策の「アメとムチ」に翻弄されてきた沖縄」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    3月末にお話を伺った直後、記事中にも出てくる「辺野古の埋め立て申請書」は、
    またしても「だまし討ち」のような形で提出されました。
    高江では今も座り込みが続き、オスプレイは我が物顔に空を飛び回る。
    7月には、オスプレイの普天間への追加配備に加え、嘉手納への配備も計画されています。
    人々の声を顧みることなく、繰り返される「国策の押しつけ」。
    安倍首相が、自民党が「取り戻す」と叫ぶ「日本」に、
    沖縄は(そして福島も)含まれているのか。
    それは、私たち一人ひとりに突きつけられている問いでもあります。

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