この人に聞きたい

小泉政権下で行われた自衛隊のイラク派兵をきっかけに始まった改憲への動きは、2度の政権交代を経て、再び政権の座についた安倍内閣により、具体的な政治日程にのぼろうとしています。しかしこの間、私たちの間で憲法をめぐる議論が盛んになったかといえば、そうともいえません。例えば日本国憲法が制定された過程をどれだけの人が知っているでしょうか? 改憲の是非を言う前に、一人でも多くの人に観てもらいたい映画が、『映画 日本国憲法』(2005/ジャン・ユンカーマン監督)です。今回の緊急上映(4/27~5/24)に際して、この映画のプロデューサーであり企画も手がけた、製作会社シグロ代表の山上徹二郞さんにお話を伺いました。聞き手は、宇都宮大学国際学部准教授の、田口卓臣さんに務めていただきました。

山上徹二郎(やまがみ・てつじろう)
1954年熊本県生まれ。映画プロデューサー・株式会社シグロ代表。『老人と海』『エドワード・サイード OUT OF PLACE』『毎日がアルツハイマー』など60作品以上のドキュメンタリー映画を製作し世界中で数々の映画賞を受賞。また『絵の中のぼくの村』『ぐるりのこと。』『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』などの劇映画を20作品以上製作。アジアを中心とした海外映画の日本での配給も手がける。 →シグロ公式 ホームページ
田口卓臣(たぐち・たくみ)
1973年、横浜生まれ。フランス文学・思想研究。現在、宇都宮大学国際学部准教授。著書に『ディドロ 限界の思考』(単著、風間書房、第27回渋沢・クローデル賞特別賞)、『フランス文化事典』(共著、丸善ライブラリー)。訳書にディドロ『運命論者ジャックとその主人』(王寺賢太との共訳、白水社)、ビリー・クルーヴァー『ビリーのグッド・アドヴァイス』(アセテート)。2013年1月より『思想』で論文連載中。
水俣病支援運動の高校生として出会った
土本典昭監督

編集部
 前回、田口さんの方から山上さんがプロデュースされた土本典昭監督の作品『原発切抜帖』や『水俣病その30年』から受けた印象についての話がありましたが、山上さんにも大きな影響を与えたと思われる土本さんとの最初の出会いは、どのようなものだったのでしょうか?

山上
 土本さんが『水俣−患者さんとその世界』の撮影で熊本に来ていたとき、僕は熊本の高校生で、水俣病の患者さん支援のカンパ活動などをしていました。ですから、当時は撮影される側にいたんですね。17歳でした。それが映画との関わりのスタートラインです。

田口
 高校生の頃から水俣の運動に関わってらしたんですね! そのきっかけは何だったのでしょうか?

山上
 高校の新聞部の先輩に水俣出身の人がいて、水俣で今こういうことが起こっていると聞いて、それで水俣に行って実際に患者さんたちと出会ったことが大きかったですね。胎児性水俣病(*)という、お母さんのお腹の中にいる時に有機水銀の影響を受けた人たちが、多く生まれた時期は、昭和20年代後半から昭和30年代に集中していたんです。僕は昭和29年生まれですから、僕とちょうど同じ年代の人たちが胎児性になっていたということもあって、やっぱり何か自分にできることがないか、と考えていました。

 それと、周りにすばらしい大人たちがいたことも大きかったと思います。つい先日お葬式に行ってきたばかりですけれど、熊本在住で水俣病の運動を支えてきた故・松浦豊敏さん。今も文章を書き続けておられる評論家の渡辺京二さんや作家の石牟礼道子さんなど、そういう人たちが熊本にはいましたから。そうした大人の人たちの生き方とか思想に触れたということも大きかったと思います。

(*)妊娠中に有機水銀を含む魚介類を食べた母親の胎内で、胎盤を通じて水銀中毒に侵された胎児は、出生後に機能障害が起きるなどがあった。重症の場合は寝たきりの重度心身障害児となる。母親ではなく胎児に重い障害を与えた。

田口
 そうそうたる方々ですね。それにしても、石牟礼道子さんともお知り合いだったとは…

山上
 そのころは、よくお会いする機会がありました。

編集部
 そういった環境の中で、土本さんともお会いになるわけですね。その後、映画製作に誘われるわけですか?

山上
 最初は水俣病の患者さんを支援する運動の一環として、土本さん達が製作した水俣の映画の、九州地区での上映運動をやっていました。その後、土本さん達に誘ってもらったのですが、26歳の時に上京して、当時、土本さんの作品を製作していた映画製作プロダクションの「青林舎」に入りました。

初めて手がけた作品が、『原発切抜帖』

編集部
 『原発切抜帖』の公開は1982年ですから、その頃作られたんですよね?

山上
 僕の初めてのプロデュース作品です。それで、その4年後の86年に、現在のシグロを立ち上げました。

編集部
 なぜこの作品を作ろうと思われたんですか? これも、企画は山上さんですか?

山上
 いいえ、これは土本さんの提案です。当時、青林舎は水俣病の記録映画をずっと連作してきていましたが、資金がなくなっていて、とても映画が作れるような状態ではなかったんです。それでも土本さんが、原発問題をちゃんとやらないとだめだということを言い出して、監督自らお金のかからない方法での「原発切抜帖」の企画を提案したんです。土本さんはずっと新聞の切り抜きを自分でやっていましたから、その切抜帖をもとにして何か映画ができないかと。それを企画会議のときに聞いて、「すごくおもしろいからやりましょうよ」って僕が言って、それで僕がプロデューサーに指名されたように思います(笑)。

田口
 『原発切抜帖』は、新聞の切り抜きの映像を並べながら、そこに俳優の小沢昭一さんのナレーションを重ねていくという斬新な方法で撮られた作品ですが、内容的に見てもいまだにまったく古びていません。これほど鮮やかに福島原発事故を先取りした映画は、どこにもないのではないでしょうか? この作品を見るたびにデジャ・ヴュ感を感じるのは、そのせいだと思うんです。こんなに不合理な原発という存在がなぜ延命してきたのか、それを支えてきた構造はどのようなものか、なぜ原発事故が起きるとお粗末な対策しか取れなくなるのか、原発において最大の犠牲を強いられる作業員の労働環境はどうなっているのか…問題のエッセンスが、この作品には見事に凝縮されています。

山上
 土本さんが日頃切り抜いていた新聞は、朝日新聞中心だったんです。しかも切り抜いているので、記事の周辺は何もないわけですよ。で、僕と同じ年の若い人たち10人ぐらいをボランティアで募って、みんなで朝日、毎日、読売の全国紙の3紙に関しては総当たりをしようということで、全部記事を調べ直したんです。土本さんは切り抜いた部分しか見ていなかったんだけど、実はその切り抜いた部分の周りの新聞紙面がすごくおもしろかったりしたんです。それをページごとコピーをとって、素材として土本さんに提供していったんですね。

田口
 それは途方もない作業ですね。

山上
 そこからもう1回、再構成していったんです。だから、時間もかかったけれど、とてもおもしろい作業でした。

 この作業を通して、どうしても自分がこの映画をプロデュースしたいと思った理由が二つありました。一つは南太平洋で核実験が繰り返され島が汚染されてしまって、自分の故郷の島に帰れない人たちがいる、という記事を読んだ時、ものすごくショックでした。これがこの映画を作ろうと思った僕自身の原点でした。

 それからもう一つは、やっぱり原発労働者の存在ですね。原発で働いている人たちが、放射線の被害を受け続けているという現実。この2つの問題は、土本監督にどうしても入れてほしかった。

田口
 その二つのポイントは、あの作品の骨格を為すものですよね。山上さんがプロデューサーになられたことで、その骨格ができあがったわけですね。

山上
 もちろん、土本さんもそこは考えていたかもしれないけど、僕は、最初からその2つだけは映画の骨格に、中心的な課題に入れたい、テーマにしたいということを主張していました。

編集部
 水俣の問題をずっとやっていらっしゃった土本さんと山上さんが、原発問題の映画を作られたというのはすごく意味があることだと思いますし、当時から同根のものを感じられていたんですね。

山上
 水俣の問題については、僕の大先輩のプロデューサー高木隆太郎さんが土本さんと組んでやってこられていたので、僕は後輩として、僕自身が土本さんという監督と組んで何か仕事をするというときのテーマは、多分水俣じゃないなと思っていたんです。だから『原発切抜帖』をやることになって、原発問題というのは僕にとって、新しいことを土本さんと一緒に始めていくという意味でも納得できたし、土本さんと一緒に仕事ができる充実感というかな、達成感がありましたよね。すごくうれしかったです。

編集部
 それで、青森県・下北半島を舞台にした映画、『海盗り – 下北半島・浜関根』へとつながっていくんですね。

山上
 そうですね。

どんなに過酷な状況にあっても、僕たちは生き抜いていくしかない

田口
 せっかくの機会ですので、福島原発事故についてもお聞きできればと思います。あの事故に関しては、いまだに「共通見解」というものができあがっていないように思います。たとえば僕の場合、3月15日には家族を連れて沖縄に避難したのですが、それが善かったのか悪かったのかはいまだによく分かりません。ところで、山上さんはシグロのホームページの海外向けメッセージのなかで、「大変な事故だけれども、我々日本人は必ずこの苦難を乗り越えると信じている」と書かれています。まさに「100年のスパン」という観点に立って、あのように発言されたのではないかと思うのですが、2年が経った今、あの原発事故をどのように受けとめていらっしゃいますか?

山上
 どのように受けとめたかというのは、難しい質問ですね。本当に起こるべくして起こった、というふうに思いますね。

田口
 全く驚かなかった、と…

山上
 うん。いつかは起こるだろうと。だって、『原発切抜帖』をやっているときにすでにかなり危機感はありましたし、原発事故は必ずいつか起こるだろうと思っていました。ただもう一方で、広島・長崎の原爆被爆者の映画も撮ってきていました。広島と長崎というのは世界でも例がないわけで、あれだけの被害を受けながら、今の広島、長崎を訪ねたらわかりますけど、実にたくましく生き延びてきたわけですよ。1945年の原爆投下後の写真を見せられたらびっくりしますよね。そこには何もなくて、何万という人たちが一瞬にして消えたわけでしょう。そういうところから、放射能の被害もありつつ、確かに被爆者の人たちは今も苦しんでいます、だけれども、あのような過酷な現実を生き抜いてきていることもまた事実なんですよ。

 現在の原発1基が持っている放射性物質の量というのは圧倒的だし、広島、長崎よりはるかに危険な放射性物質を今も福島原発が垂れ流し続けているという意味では世界規模の汚染だと思います。現在進行形の原発事故の問題と、広島・長崎を比較することがいいかどうかは別にして、しかし、もう起こってしまったわけですね。

 そういう状況の中で、僕たちは生き抜いていくしかないわけです。もしかしたら、僕たちの考え方や思想が試されるだけではなくて、もっと身体的なものさえ試されるのかもしれない。僕たちの寿命が短くなるかもしれない。今まで経験したことのない、いろいろな病気を背負っていくことになるかもしれない。だけど、仮にそうなったとしても、「もうやめた」と言えないじゃないですか。そういう中で、でも僕たちは明日を生きようとしていくしかないし、そうしなければ希望も持てないわけです。

田口
 原発について無関心や無責任を決め込んできた私たち大人の世代が被害を受けるというのなら、僕もまだ分かるんです。ただ、大きな影響を受けるのは、おそらく私たちの子どもや孫の世代ですよね。

山上
 確かに子どもたちの問題は大きいですね。だけど、それだったら例えば水俣病の胎児性の人たちのことを、どのように考えたらいいんでしょうか。僕と同じ世代で、今58、59、60歳くらいになっていて、水俣で暮らしているわけです。自分たちの存在を世間にさらして、水俣病は終わっていないということを訴え続けているわけですよね。彼らや彼女たちに対して、あなたの人生は何だったのか? つらかったろうけど人生を後悔しているか? と聞けば彼らは「後悔している」なんて言わないと思うんです。

 結果として、いろいろな人たちとつながって生きてきたということに対して、誇りもありプライドもあるだろうし、「生きてきて良かった」っていうことが、奥深いところの言葉として僕はあるような気がします。

 言葉が通じる世界、心が通じる世界というのは本当に必要で、そういう人が1人でもいてくれれば、僕たちは生きていけるんですよね。それは、被害の中身とは関係ない。そういうものだと僕は思うんです、人間の希望というのは。

田口
 なるほど…それは、映画づくりを通して当事者と向き合ってこられた山上さんにしか言えない言葉のような気がいたします。

おもしろくなければ映画じゃない。
希望がなければ見たくない

山上
 僕が映画という仕事を選んでいるのは、人間に対して興味があるということなんだと思います。人間のしたたかさを伝えていきたい。映画というのは、ドキュメンタリーだろうと、劇映画だろうと、僕はフィクションだと思っているので、そこではやっぱり希望を語らなければ映画じゃないと思う。

 テレビ番組のように、見る人がお金を払わなくて、コマーシャルつきで流せるものだったらいいですよ。だけど、僕が作ってきたのは入場料をもらって見てもらう映画です。ということは、究極のところ、エンターテインメントだと思うんです。

 お金を払ってもらって、何かを勉強してもらおうとか、何か自分が言いたいことを一方的に伝えるとか、それはあり得ないと思います。映画は娯楽の一つですから、おもしろくなければ映画じゃない。「おもしろい」という言葉の中身は、感動ということもあるかもしれない、それから本当に笑えるようなおもしろさもあるかもしれない。けれども、どんなに原発問題や水俣病の問題など、そういうシリアスなテーマを取り上げたとしても、映画である限りは娯楽なんだと思うんです。僕は、その1点は絶対に外したくない。そこに希望がなければ。絶望的な映画なんて見たくないですよ。

編集部
 『映画 日本国憲法』も、そこは踏襲されているんですね。

山上
 そうですね。映画を始めるときの自分自身のきっかけというのは、いつも言うんですけど、怒りか愛情なんですよね。何かに対してものすごく強い怒りを感じたときに、それを映画にしたいと思うし、何かに対して、あるいは誰かのことをすごく自分が好きになったときに、その人のことを伝えたい、その人のために何かをつくりたいと思うんです。あるいは、その両方の場合もある。そういう非常に個的な感情的なものですね、物事を始めるときのきっかけというのは。だけど、できた映画はエンターテインメントじゃなきゃいけないと思っています。映画館でお金をとって見せるということをやってきたのは、そういうことなのです。

田口
 たしかに、日本国憲法の成立史を語るシークエンスでは、ジョン・ダワーと日高六郎の証言が、まるでひとつのサスペンスを作りあげるかのように、しだいにシンクロしていきました。

山上
 それと、ベアテ・シロタさんですね。

田口
 そうでした。ベアテ・シロタさんを抜きに日本国憲法の誕生を語ることはできませんね。この作品を見て、そのことがよく理解できました。ところで、ベアテさんや日高さんの証言があのようにドラマチックな形に仕上がったのは、編集作業を通してだったのでしょうか?

山上
 そうです。僕は日高六郎さんには、実は17歳のときからずっとお世話になっていて。僕は大学に行っていないんですけど、日高さんの書生みたいなことをやっていたんですね。ですから、日高さんの考え方をものすごくたくさん聞いていました。日高さんのインタビューは、僕がインタビュアーなんですけど、日高さんの話の中に、映画の骨格のようなものを見つけているんですね。

自分の思考が開かれているか閉じているか

編集部
 日高さんとそんな若い頃からお知り合いだったんですね。

山上
 僕は高校3年生の時に九州から上京してきて、1972年の東京チッソ本社前での座り込みに参加したんですが、東京に住んでいたいろんな知識人や文化人と言われる人たちが、僕たちみたいな地方から出てきて路上で座り込みをしている若者たちを、交代で自分たちの家に招いて、お風呂に入れて、お布団で寝かしてくれたんです。僕らは、ずっと路上に寝ていましたから。その時に、僕はたまたま日高さんのところへ行ったんです。そこからのお付き合いです。

田口
 ちょうど昨日、日高六郎さんの『わが思索わが風土』というエッセーを読んだのですが、そのなかにこんな文章がありました。「正しさとやさしさとが結びつくとき、それは人々を感動させる。正義の旗のもとで、しかしやさしさが欠けるとき、人々はせいぜい尊敬しながら、遠ざかろうとする。やさしさだけでは、自他を不幸にみちびく。(略)やさしさとは、おそらく人間が有限の存在でしかないということの認識である」と。シンプルで含蓄の深い文章ですが、日高さんがここで問うていらっしゃることは、山上さんのお仕事のなかでも、ずっと一貫して問われ続けているように感じました。

山上
 そうですね。日高さんには、教えられたことが多いですね。日高さんはベルクソン(*)の話をよくしていましたが、ベルクソンの本を読むと、やっぱり日高さんも非常に大きなものをベルクソンから受け取っているなというのがわかります。ベルクソンの思想で核心的なところは、常に思考を開いていくというところだと思います。左翼か右翼、つまり右とか左とかということじゃない。あるいは上と下、上下関係でもなくて、物事を認識するときに常に思考が開いているか閉じているかということを判断の基準にしていくという考え方ですよね。

(*)アンリ・ベルクソン フランスの哲学者。主著に『創造的進化』など。

田口
 それは他者に向けて開いているのか閉じているのかを、自分自身に問いかけよ、ということでしょうか?

山上
 いろんなことを考えて判断するときに、自分の思考が開かれているか閉じているかということですよね。例えば大事な友達とけんかをする。そのときに、「もういいや」というふうに思って関係を自ら閉じてしまう。でも、すごく頭に来たんだけど、もう1度だけ話しかけてみようか、というふうにして自分から電話をかけるという行為は、自らを開くということですよね。すごく単純化して言うとそういうことですよね。

 常に開いている、閉じない。これは物事を考えるときに、僕にとってとても大事な示唆になるんですよね。今自分が考えていることは、果たして自分を開こうとしているだろうか。あるいは、閉じようとしているんじゃないか、というところで自分の考え方を点検するとね、どうすべきかというのが見えてくるんですよ。

田口
 その思想が、ベルクソンから日高六郎に、日高六郎から山上さんに受け継がれているということですね!

山上
 ベルクソンがそのままの言葉を言っているわけではないけれども、そこから日高六郎さんが受け取って構築して、若い者たちに語ってきた。幾つもありますけど、もっとも大事なものとして、僕は日高さんから学んだつもりなんです。

田口
 山上さんのお話をうかがってきて、「分断」という言葉を思い出しました。これは3・11以降、あちこちで耳にするようになった言葉のひとつです。よく考えてみると、そもそも何の問題もなかったところに、いきなり「分断」が生じるはずはないと思うんです。例えば、放射能のリスクをどうとらえるのかという一点をとってみても、ある日を境に人々がばらばらになったわけではないのではないか? ひとの捉え方を許容できなくなるほどの「対立」や「疎外感」が僕らの間に生まれてしまったのだとすれば、やはりその原因があるのだと思います。僕自身、自戒を込めて言わなければならないのですが、それは僕らが「開いているのか閉じているのか」ということに関わっているのかもしれません。今日は多岐に渡ってさまざまなお話をうかがえて、ほんとうに充実した時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

(構成・写真/塚田壽子)

 

  

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山上徹二郎さんに聞いた(その2) どんなに困難でも、
心が通じる世界が持てたら、
僕たちは生きていける
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    「おもしろくなければ映画じゃない」「映画はエンターテインメントだ」ときっぱりおっしゃる山上さん。その言葉の通り、手がけられた作品は「憲法」や「原発」、「水俣」といった一見、硬派で社会的なテーマを扱いながらも、「おもしろい」「繰り返し見たい」と惹き付けられてしまう何かが詰まっています。
    「お勉強」ではなく「娯楽」として、これらのテーマに触れることで広がる何かがあるのではないでしょうか。

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