鈴木邦男の愛国問答

 週に一遍、予備校で教えている。1月は22日(木)から始まった。その前に、1月14日(水)に、全体会議があったので行った。早目に着いたので、自習室で勉強していた。授業はまだ始まっていないのに、学校に来て勉強している生徒が沢山いた。受験生と一緒に勉強していると自分も受験生のような気分になって、緊張し、仕事もはかどる。皆、熱心に勉強している。テキストや勉強道具の他に、小さな赤い花束を机の上に置いている生徒がいた。アレッと思って、聞いた。「フェロー(*)の武田さんが、今日誕生日なんです」と言う。それで、これから持っていくという。優しい子だな、と感動した。(*フェロー:学習や進路の相談などにのる担当のこと)

 1時間ほど勉強して、会議に出た。学校のスタッフ、講師たちが集まっている。フェローの武田さんもいたので、「お誕生日、おめでとうございます」と言った。「あっ、ありがとうございます」と言いながら、驚いている。「でも、どうして知ってるんですか」と言う。「生徒に聞いたんです」と白状しそうになった。「あっ、鈴木さんにとっては、今日は大事な日ですものね」と言う。「でも、あんな大作家と同じ誕生日なのに、私は別に劇的なこともないし。文学的才能もないし」と言う。意外な展開だ。誰と一緒の誕生なんだろう。しばらく話をしていて、分かった。三島由紀夫なのだ。だから僕にとって「大事な日だ」と彼女は言ったのだ。
 しかし、三島信奉者、三島ファンの人でも、この誕生日はあまり知らない。亡くなった日のことは皆、知っているし、今でも全国で追悼・顕彰の集まりが行われている。11月25日だ。だが、生まれた日はあまり知られてない。生きているうちは誕生日のお祝いもするが、亡くなってからはしない。もっとも最近は、「生誕100年」「生誕200年」という言い方をすることもあるが。「今、生きていたら何才だ」と思い出すのだろう。外国ではよく言われるのかもしれないが、日本では、つい最近だ。それに「生誕200年」と言うと、勿論、亡くなった人だと分かるが、「生誕80年」「生誕90年」となると、果たして生きている人の誕生日なのか、亡くなった人の「生きていれば…」という誕生日なのか、分からない。そんな紛らわしさがある。
 自分たちと同年代の人たちに対しては、亡くなってから何年…という方が分かりやすいし、「あっ、あの時は…」と思い出す。それが「生誕…」といわれると、自分たちも急かされているようで、不安な気持ちになる。
 三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で自決したのは1970年(昭和45年)11月25日だ。
 この時、三島は45才。共に自決した森田必勝は25才だ。この「三島事件」から45年が経った。そうすると、今年は「三島由紀夫生誕90年」だ。森田必勝は70才だ。二人とも、あの事件がなかったら、今も元気で活躍していたんだろう。森田の70才は当然だが、「90才の三島」だって、小説を書きまくり、講演し、行動していただろう。でも、二人のことだ。70年の自決はなくても、その後、45年も安穏には生きなかっただろう。そんなことを、取り留めもなく考えた。
 今なら、90才以上でも元気で活躍している人がいる。年末に会ったが、93才の反骨写真家の福島菊次郎さんがいる。学生運動、三里塚、自衛隊、原発…を撮り続け、今の右傾日本に「NO」を言い続けている。「相手に問題があるのならば、それを撮るのに法律を犯しても構わない」と言う。凄い覚悟だ。又、それを実行している。問題を起こし、暴漢に襲撃され重症を負ったこともある。自宅に放火され全焼したこともある。それでも闘いをやめない。不屈の93才だ。
 そして、103才の日野原重明さんがいる。聖路加国際メディカルセンターの理事長だ。今でも本を書き、全国で講演している。100才になる直前に月刊「創」で僕は対談した。元気一杯だった。6年先までスケジュールは一杯だという。元々は体が弱く「60才までは生きられないだろう」と医者に言われていた。ところが、60才の時、乗った飛行機がハイジャックされた。1970年3月の「よど号」ハイジャック事件だ。死ぬかもしれないと思った。幸い日本に帰ってこられた。あとの人生は「おまけだ」と思った。そう思ったら、気が楽になって、100才まで生きた、と言う。1970年3月に日野原さんは「再生」し、今、103才だ。よど号ハイジャックから半年後、1970年11月に三島は自決した。今年は「生誕90年」だ。103才の日野原さんは、この日本をどう見るのだろうか。又、会って話してみたい。又、「90才の三島」はどう見るのだろう。
 三島の死の2年後、連合赤軍事件が起きる。そこに参加して、27年も獄中にいた植垣康博さんは言っていた。「あの時、三島が生きていたら、あれだけで左翼が終わることはなかった。三島の不在は大きかった」と。連合赤軍事件は、さんざんに言われた。「革命などを考えるから仲間殺しになるんだ」「世の中を変えるなんておこがましい。自分のことだけ考えていればいいんだ」と。確かに酷い結末だったが、初めは夢があり、愛があり、変革の希望もあった。だが、結果だけを見て、それらも全て否定され、潰された。それ以降、若者たちからは「革命」も「変革」も「運動」も奪われた。若者だけではなく、日本人全体が内向きになり、排外的になっている。三島がいたら、もっと別のことを言ってくれただろうと植垣さんは言う。今回の事件への反応もそうだ。日本人二人が「イスラム国」に捕まえられた。ネットでは、冷たい反応が満ち満ちている。「テロに屈するな」「要求をのむな」「二人は死を覚悟して行ったのではないか」と。さらに、捕らわれた二人、ナイフを突きつけたテロリストを真似て、「イスラム国」ごっこをする写真も投稿されている。「殺害予告時間」のカウントダウンをするテレビ局まであった。暴挙だ。これではもう「国家」ではない。三島由紀夫が生きていたら、何を思い、何を言うのだろうか。政治家や評論家、一般国民の声に激怒して、「お前ら、それでも日本人か!」と言うだろう。「俺が一人で救出に行く!」と言うだろう。「三島の不在」はあまりに大きい。

 

  

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第168回 「三島の不在」は、あまりに大きい」 に4件のコメント

  1. magazine9 より:

    20代、30代の人たちにとって、連合赤軍事件はすでに生まれる前の出来事。しかし、いまの革命や運動をタブー視する傾向には、こうした時代からの影響が少なからずあるのだろうと思います。今回の事件をめぐる、SNSでの「暴挙」。それらには、いまの私たちの社会のどんな問題が表出しているのでしょうか。

  2. 三島由紀夫以前に、木村さんあたりの尻たたくべきなんじゃないのかな〜?

  3. 多賀恭一 より:

    三島由紀夫は死によってしか、自らの美を実現することはできなかったのだろう。
    このような死は、芸術家だけに許される行為なのかもしれない。
    三島の死を残念と思っているうちは、まだ信者とは言えない。
    この死から深いものを学ぶことこそ、三島が望んでいることではないだろうか。

  4. ピースメーカー より:

    >ネットでは、冷たい反応が満ち満ちている。「テロに屈するな」「要求をのむな」「二人は
    >死を覚悟して行ったのではないか」と。さらに、捕らわれた二人、ナイフを突きつけた
    >テロリストを真似て、「イスラム国」ごっこをする写真も投稿されている。「殺害予告時間」
    >のカウントダウンをするテレビ局まであった。暴挙だ。

    作家の城繁幸氏は「人質事件『自己責任論』と生活保護バッシングの共通点」という寄稿にて、今回の事件に対する日本の左右の論調をバッサリ切り捨てているが、城氏の「(左派・右派を問わずして)日本人の多くはいまも村人である」の指摘は、率直に言って図星であると私は思う。
    http://www.j-cast.com/kaisha/2015/01/29226585.html
    右派の「自己責任論」については城氏の記事の通りであるし、左派の論調も「イスラム国が存在するという現実を前に、日本は国家として如何すべきなのか?」という事を真正面に取り組もうとはせずに、「首相責任論」に邁進する有様は、「左右問わずして日本人は村民である」という論説を確証しているであろう。
    この城氏の指摘に三島由紀夫がどう応えるのかは興味深い話であるが、所詮はファンタジーである。
    重要なのは生者が、つまり鈴木邦男さんや私達日本人が如何応え、如何すべきであるかということであろう。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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