鈴木邦男の愛国問答

 10月10日、「福島泰樹 短歌絶叫コンサート」を初めて聞いた。毎月10日に吉祥寺のライブハウス曼荼羅でやっている。福島さんとは実は何度も会っている。講演を聞いているし、その中で短歌の絶叫も聞いている。酒の席でも会っている。しかし、毎月10日にやっている「短歌絶叫コンサート」を聞くのは初めてだ。これが福島さんのメインの仕事であり、〈主戦場〉だ。「福島泰樹の世界」を堪能した。又、なぜ「絶叫」にこだわるのかが、少しずつ分かってきた。

 福島さんは僕とほとんど同年齢だ。それに早大だ。1969年、早大学費学館闘争を起点とした歌集『バリケード・一九六六年二月』で鮮烈なデビューをした。肉声の回復を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出したと、チラシには出ていた。そうか「肉声の回復」なのか。歌は元々、多くの人の前で朗々と歌われたものだった。『万葉集』でもそうだ。今のように活字になったものを本で読むのでは、歌の生命が伝わらないのだろう。「絶叫コンサート」のチラシには、さらにこう書かれている。〈渋谷ジァン・ジァン、アピア、吉祥寺曼荼羅(毎月10日)を拠点に、海外、全国1500ステージをこなす。歌集、評論集、CD、DVD等著作多数〉

 そして、大きくこう書かれている。〈死者との共闘! 死者は死んではいない!〉。自分の詠んだ歌を絶叫する、と同時に多くの先輩たちの歌や詩を詠み、絶叫する。昔の歌人や革命家たちの歌や詩を「紹介」するだけではない。それらの人々と「共闘」しているのだ。死者たちを甦らせているのだ。これは活字では出来ない。「肉声の回復」を通した共闘でしか出来ない。「死んではいない死者」とは誰か。共闘し、甦らせようとしている人々とは誰か。こうした人々だ。

 石川啄木、管野スガ、大杉栄、伊藤野枝、北原白秋、中原中也、宮沢賢治、樺美智子、岸上大作、山崎博昭、高橋和巳、村上一郎、寺山修司、磯田光一、中上健次、美空ひばり…。

 大歌手もいる。詩人・歌人もいる。アナキストもいる。文学者もいる。革命家もいる。でも、皆、心の中に歌を持ち、詩を持った人だ。それに命をかけた人々だ。歌人とアナキスト、文学者の違いはない。左右の違いもない。戦前の右翼テロリスト、朝日平吾についても歌っている。朝日の「死の叫び声」も絶叫している。又、自民党の国会議員であり、自殺した新井将敬も取り上げている。取り上げ、絶叫し、甦らせている。福島さんはこう言っている。

 〈頓挫した歌への意志を受け継ぐ者。それは私だ。願わくば寺山修司よ、われらが魂の絶叫に涙してくれ〉

 僕が行ったのは、10月10日(月)の月例「短歌絶叫コンサート」だった。自分の歌、亡くなった人々の歌、でも亡くなってはいない。と、ここで共闘する。ただ、朗読するだけではない。時にシンミリと、時に激しく、そして絶叫する。それにピアノ(永畑雅人)の伴奏がある。大体の打ち合わせはあるのだろうが、福島さんの歌、絶叫がどう変化し、展開するか分からない。それに臨機応変に曲をつけていく。これが実にピッタリだ。福島さんの朗読・絶叫も、音楽だ。本の中に書かれた活字ではない。本から取り出して、活字から解放して、歌に生命を与えている。それを感情たっぷりにやる。音楽であり、劇である。不思議な舞台だった。

 9月17日に新発田でやった「大杉栄メモリアル」の話もしていた。大杉栄が子ども時代を過ごした新潟県新発田市では、毎年9月に「大杉栄メモリアル」をやっている。今年は福島さんが講師だった。大杉栄、伊藤野枝、さらに同時代のアナキストたちの歌や詩、評論などについて講演し、歌をよみ、絶叫する。その「大杉栄メモリアル」の話を紹介していた。今、「大杉栄全集」を読んでいると言うし、「これからは大杉栄を中心にやります」と爆弾宣言をする。これは驚きだった。

 福島さんは、学生時代はある組織に入って激しい学生運動をやっていた。強固な組織、強固な団結によって、敵・権力と闘うのだ。そこでは「個人の自由」は制限される。多分、その頃は大杉栄になど興味はなかったと思う。大杉はアナキストだ。個人の自由を抑えて「強固な組織」を考えたりはしない。思想に、運動に、すべてに〈自由〉を考えた人だ。学生時代に大杉の本を読んだとしても、「大杉には組織論がない」と言って、批判していただろう。ところが今、福島さんはそうした「強固な組織」を離れ、「団結」を離れた。たった一人で闘っている。一人で闘うことで、死者たちを甦らせ、死者たちとの共闘を目論んでいる。

 大杉栄を信奉し、大杉の後を継ぐ竹中労は言っている。「人は弱いから群れるのではない。群れるから弱いのだ!」と。これは「団結」「組織」こそが運動だと思っている人たちには分からない。大杉のような、竹中のような、一匹狼になって、初めて分かることだ。これは僕も、少しずつ分かってきたことだ。同志が100人から1000人になる。1万人になる。それで運動は大きくなったと思う。でも、自分は1万分の1だ。数が多くなると、そのことを忘れる。そして、皆と同じことを言い。同じことを叫ぶ。その危険性は十分に考える必要がある。

 今は「愛国心」「絆」…という感傷的な言葉でまとめられていて、日本人として「当然のことだ」「常識だ」と言われることが強調される。「日本の歴史・伝統を守るのは当然だ」「それに疑問を持つ人間は非国民だ、テロリストだ」と言って排除される。ロクに考えないで「常識」に同調し、同化してはダメだ。福島さんのように一匹狼になって、絶叫すべきだ。異端と思われそうだが、福島さんのやっていることこそが、日本の歌、肉声による復活、死者の甦りだ。これこそが古代から日本人がやってきたことであり、「伝統」だ。そうか、万葉集の頃は、こうやって人々の前で歌い、音楽のように楽しんでいたんだろう。死者とも共闘していたんだ、と思った。

 

  

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第208回一匹狼の「短歌絶叫コンサート」」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    一匹狼であることの大切さ(そして難しさ)は、運動だけでなくあてはまるように思います。どうして福島さんは「たった一人の闘い」を始めようと思われたのでしょうか。生命を吹き返した歌がどんな風に詠まれるのか、コンサートで聞いてみたくなりました。

  2. 鳴井 勝敏 より:

    便利さが人間から考える力を奪い去ってしまったか。便利でなかった時代は人は考えた。今、人は自信を失い、「排除」しなければ自分の立ち位置を維持できない。そこまで追い詰められているだ。その繁殖が想像を絶する。      これも無知、偏見、不安の構造が生み出す産物であろう。そして、この構造にはもの凄いマグマが潜んでいるのだ。ファシズムの萌芽が力強く育つ環境である。 慎重に、冷静に注意しなければならない。                単純なことだが、日本人の前に人間が来ることを忘れないようにしたい。だから「孤独」の時間がとても大事なのだ。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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