鈴木邦男の愛国問答

 三重県名張市で「毒ぶどう酒事件」が起こり、5人が死亡した。集落の会合で出たぶどう酒に毒が入っていたのだ。1961年に起きた事件だ。55年も前の事件だ。奥西勝氏(当時35歳)が逮捕され自白した。だが、裁判では一転して無罪を主張し、一審では無罪判決が下る。強制的捜査・取り調べで自白を強要されたが、動機はないし、物証もない。無罪は当然だった。ところが、これを不服とし検察側は控訴。二審は何と「逆転死刑」の判決だった。奥西氏は天国から地獄に突き落とされた。72年6月に死刑確定。その後の度重なる再審請求でも、これは覆らない。奥西氏は40年以上、死刑の恐怖に怯え続ける毎日だった。そして今年、獄中で亡くなった。この事件については、映画が何本もつくられ、テレビでも放送された。又、「奥西さんは無罪だ」と訴える本も何冊も出ている。法務大臣も執行のサインは出せない。奥西氏が獄死するのを待っていた。そうとしか思えない。残酷な話だ。

 事件が起きたのは、三重県名張市の葛尾集落の公民館だ。ここは三重県と奈良県にまたがる集落だ。それで両県の頭文字をとって「三奈の会」と名づけた生活改善クラブが組織され、住民は皆、助け合って生活を営んでいた。61年3月28日、公民館で開かれた「三奈の会」の年次総会で事件は起きた。役員の改選や会計報告があり、続いて親睦会になった。集まったのは男性12人、女性20人の計32人。日本酒2升とぶどう酒1升が出された。ぶどう酒は女性のために用意されたのだ。参加した女性20人のうち、3人は飲まなかった。飲んだ女性17人が中毒症状を訴え、うち5人が死亡した。捜査の結果、ぶどう酒に農薬が混入していることが判明。集落はパニックになった。

 当時のニュースや記録を見ると、「犯人はうちの女房に違いない」と口走る者もいた。家庭や対人関係で問題を抱えた人が多かったのだろう。いろんな仮説が出された。一番疑われたのは奥西氏だ。死亡者の中に妻と愛人がいた。「三角関係のもつれの解消」が犯行の動機だとされた。強要された自供によると、総会の10日ほど前に、自宅にあった農薬で妻と愛人を毒殺する計画を立てたという。だが、その年はぶどう酒が出る予定がなく、出ると決まったのは当日の午前だという。10日前から計画していたという供述に合わない。又、「犯行前夜」には、農薬を入れる竹筒まで作っていたと供述している。これもおかしい。しかも事件前夜、奥西氏の家には来客があり、その目を盗んで竹筒を作れるのか。その竹筒は公民館の囲炉裏で燃やしたという。警察の「作文」だろう。

 この事件についての疑問はいろんな本に書かれているが、去年出た『未解決事件現場を歩く 激動の昭和篇』(双葉社スーパームック)が分かりやすい。元刑事の北芝健氏が監修をやり、現地に足を運んでいる。この本にはこう書かれている。

 〈事件で母親を失った2人の子どもがいたこともあり、当初、集落の人は奥西の家族に同情的だったと言います。でも、奥西が否認したことで風向きが一気に変わりました。家には石が投げられ、怒鳴られ、家族は土地を追われることになったのです〉
 
 現地に足を運んだ北芝氏はこう言う。
 
〈奥西が無罪を訴えたときに、集落の人たちが彼やその家族を責めたのは、「自白したのにいまさら何を言っている!」というような、そんな単純な怒りからだったのかもしれないと感じた。亡くなられた人やその家族、また、冤罪だった場合の奥西とその家族だけではない。後々まで事件を引きずることになってしまった集落全体が、事件の被害者だったのだ〉

 又、こうも言っている。
 
〈確かに、この事件について書かれた記事の中には、関係が親密な地方であるがゆえに、地域の“和”を保つことが重要で、そのために奥西をスケープゴートにする傾向があったのではないかと論ずるものもある。この集落には、本当にそんな陰鬱とした空気が渦巻いているのだろうか―〉
 
 これは、確かに言えると思った。「もう終わったことだ。これ以上触れないでくれ!」とこの町全体が言っているような感じがした。今年の11月6日(日)、実際に名張に行ってきて、そう感じた。前からこの事件には関心を持っていたし、本や映画はすべて見ていた。なぜ奥西氏が「犯人」にされたのか、50年以上も獄中にぶち込まれ、獄死しなければならなかったのか。残酷な話だと思っていた。どんなところなのか、名張を実際に見てみたいと思っていた。冤罪事件の支援をやっている人に声をかけ、6日に行ってきたのだ。それに地元の人が事件現場を案内し、話をしてくれるという。

 当日、7人ほどで行った。残念ながら、地元の人は親類に不幸があったとのことで、来られなかった。仕方なく、我々だけでレンタカーを借り、地図を見ながら、事件現場を中心に名張の町を見て回る。道はきれいで立派だが、不思議なことに歩いている人はいない。事件現場になった公民館は取り壊され、今はない。跡地はさら地になっている。亡くなった人を慰霊するように、近くに観音様が建っている。町は美しい。事件のことを知らなければ、ただ美しい町だ。名張川の絶景の清流がある。いい水と米がとれる。酒も造られている。昔はぶどうもとれ、ぶどう酒も造られていたが、今はないようだ。ぶどうや「毒ぶどう酒事件」はタブーのようだ。

 名張駅に降りて驚いたが、大きな看板がある。まさか事件のことではない。「江戸川乱歩 生誕の地」の看板だ。そして大きな銅像が建っている。「生誕の地」にも行ってみた。生家跡の碑があった。乱歩の年譜を調べたら、「毒ぶどう酒事件」の時は、乱歩はまだ生きていた。とっくに名張を離れ、そのあと鳥羽に住み、この時は東京の豊島区に住んでいた。自分の生まれ故郷で起きた大事件だ。さぞや驚き、心を痛めたことだろう。しかし、エッセーや評論などには書いていない。すべての作品に目を通したわけではないが、小説にすることもなかった。「触れられたくない」という地元の空気を感じたからなのか。今回、僕らが行った時に会えなかった地元の人に、今度あらためて会いたい。そして再び訪ねてみたい。又、本の監修をした北芝健さんにも会って詳しく聞きたいと思う。

 実は、三重県にはこの後も2度行った。つまり、11月に3度も三重県に行ったことになる。11月6日は名張市。そして、14日(月)から16日(水)まで伊勢志摩に行った。三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台になった神島に行ってきた。又、松阪の「本居宣長記念館」と、宣長の旧宅「鈴屋(すずのや)」に行ってきた。又、「松浦武四郎記念館」に行った。北海道を探検し、北海道と名付けた人だ。

 又、11月19日(土)には、四日市に行って、森田必勝氏のお墓参りをした。1970年11月25日、三島由紀夫と共に、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決した青年だ。当時25歳だった。早大に入学した森田氏を僕らはオルグし、運動に誘い込んだ。1970年には、もう左右の運動も下火になり、森田氏を「誘った」我々は運動をやめ、企業に就職したり、故郷に帰ったりしていた。ところが、「誘われた」森田氏は、ずっと運動を続け、「楯の会」に入り、三島と共に自決した。たまらなかった。やりきれなかった。それで昔の仲間たちが集まり、勉強会をやったりしていた。1972年、一水会をつくる。他にもいくつもの運動体ができた。三島というよりは森田必勝に対する気持ちから起こったことだ。1年に1回は、四日市に来て、お墓参りをしている。11月はいろんなことがあって、3回も来ることになったのだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第211回「毒ぶどう酒事件」の現場を訪れた」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    奥西さんは獄中から無罪を訴え続け、9回にもわたる再審請求を繰り返すなかで亡くなりました。先週の小石勝朗さんによるコラム「放浪記」で取り上げた、静岡県清水市で一家4人が殺害された、いわゆる「袴田事件」もやはり50年前の事件です。死刑判決が確定していたものの、再審開始決定によって釈放された元プロボクサー・袴田巖さんは、すでに80歳。しかし、いまだ再審は始まっていません。いったん起訴されれば高い有罪率となる日本。「疑わしきは被告人の利益に」の原則を守り、裁判所の責任を真摯に果たしてほしいと願います。

  2. 樋口 隆史 より:

    国家権力が市井の一個人に対して理不尽な暴力を振るうとここまで残酷なことになるのか。わたしも中日新聞の一連の報道でで今回の悲劇の推移のかけらだけしか知りません。ですから意見を述べる権利なんて無いと思います。それでもやはり、やはり深い憤りを覚えずにはいられません。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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