柴田鉄治のメディア時評


その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

shibata

 先月のメディア時評で、突然出てきた8月5日の朝日新聞の従軍慰安婦問題をめぐる検証記事に対して、真っ先に載せるべきお詫びの言葉がなかったことや今後の取り組みへの決意表明まで一緒にしてしまったため、開き直ったような印象を与え、朝日新聞の誠意が読者に伝わらなかったことを指摘した。
 ところが、9月に入って、それどころではないアッと驚く新たな展開があった。まず8月末に載るはずだった池上彰氏の「新聞ななめ読み」が掲載されず、9月3日の他紙に「朝日が掲載を断ったのだ」と報じられ、翌4日の朝日新聞にお詫びとともにその原稿が掲載されたのである。
 その記事を読んで私は愕然とした。その内容に驚いたのではなく、内容は他紙の朝日叩きとは全く違う穏やかな口調で「謝罪すべきだった」などと至極もっともな批判を述べており、こんな原稿まで掲載を拒否したのかと愕然としたのである。
 私の見るところ今回の朝日新聞の一連の不祥事の中で、池上原稿の掲載拒否は最も「信じられない」判断ミスだったと思う。
 次いで9月11日、さらに驚くべき事態が起こった。社長の記者会見があるというから、慰安婦検証記事と池上原稿の掲載拒否の謝罪をするのかと思ったら、それはつけたりで、なんと5月20日に報じた福島原発「吉田調書」のスクープ記事を「誤報と認め、記事を取り消す」と発表したのである。
 「吉田調書」というのは、政府の事故調査委員会が福島第一原発の吉田昌郎所長から聞き取り調査をした記録で、政府が隠していたものを朝日新聞が入手したとして、所員の9割が「所長命令に違反、(第一)原発撤退」と報じたものだ。
 朝日新聞社の木村社長が記者会見して発表したところによると、原発所員への取材を徹底しなかったため、所員に指示がうまく伝わらなかった事実を把握できなかったこと、吉田所長の「よく考えれば2F(福島第二原発)へ行ったほうがはるかに正しいと思った」という発言を記事に入れなかったことなど、取材不足と所長発言の評価の誤りから、所員が逃げたという誤った印象を与えた、というのである。
 つまり、誤報といっても事実関係の誤りではなく、与えた印象や評価の誤りだというもので、事実、同日政府が公表した吉田調書に新事実があったわけではなく、報じた通り「近くに退避して次の指示を待てと言ったのに、みんな2Fに行ってしまったので、何人かには戻ってもらった」という趣旨の吉田所長の発言は間違いなくあったのだ。
 それなのに記事取り消しとは大げさすぎないか。報道という仕事は「きのう報じたことをきょう検証し、修正すべきところがあればあす修正する」という作業の繰り返しだという言葉がある。その言葉通り、続報を書いて若干の修正をしていればよかった記事なのではあるまいか。
 たとえば、命令を聞いたはずの所員の取材が足りなかったという「取材不足」については、「この記事は吉田所長が何と語っていたかが焦点で、所員の取材はしていなかったが、その後、補足取材をしたら所長の意向ははっきり伝わっておらず、命令違反という見出しはちょっと強すぎたかもしれない」と修正すればいいし、退避という言葉の代わりに撤退と記したのは、その日未明、東電の社長から官邸に「全員撤退」の通告があり、菅首相が東電本社に乗り込んで「全員撤退はあり得ない」と大演説をぶったあとだったから、と説明すれば読者も分かってくれたに違いない。
 また、「よく考えてみたら2Fへ行ったのは正しかった」という吉田所長の言葉は、世にいう後知恵であり、記事にはなかったがデジタル版には報じていたのだから、意図的に省いたわけではないことも明らかだ。
 もし、どうしても訂正と謝罪が必要だというのなら、「所長命令に違反、原発撤退」という見出しを「所長の意に反して原発撤退」と訂正し、「所員が逃げたという印象を与えたとすればお詫びします」としたらどうだろうか。

誤報でなく「虚報」扱いはおかしくないか?

 こうした続報がなかったことはよくなかったが、それにしても、この記事が5月20日に出てから3か月半経つのである。その間にも疑問や批判の声が寄せられ、週刊誌などにも報じられたのに、朝日新聞社は「疑問に応える」こともせず、記事は正しいと突っぱねていただけでなく、新聞協会賞のスクープ部門に申請までしていたのである。それが9月11日に突然態度を豹変させたのはなぜなのか。
 しかも、記事を取り消しただけでなく、その責任を取って「編集担当は解任、社長も減俸のうえ近く退任」というのだから驚く。記事の取り消しといえば、1950年の伊藤律事件(記者が架空の会見記を捏造した)や89年のサンゴ事件(カメラマンが自らサンゴに傷をつけ「誰がやった」と告発した)を思い出すが、どちらも責任を取って編集局長や社長が退任している。
 こうした虚報ともいうべき記事とはまったく違うのに、しかも、公表しないと言っていた政府に公表させたという点だけでもスクープとしての価値を減じてはいない記事なのに、「記事取り消し、社長も近く退任」とまるで「虚報扱い」なのはおかしくないか。
 こんな不可解なことがどうして起こったか、その理由を考えれば、いうまでもなく従軍慰安婦問題と無関係ではあるまい。従軍慰安婦問題の「吉田清治証言」を取り消したのになぜ謝罪がなかったのか、池上原稿をなぜ掲載しなかったのか、こうした判断ミスを謝罪するのと同時に、政府が「吉田調書」を公表した機会をとらえ、一緒に謝罪してしまおうと考えたのではなかろうか。
 そのために、従軍慰安婦問題の「吉田清治証言」と同じ記事取り消しという「重罪」と判断したのだろうと考えれば、分かったような気にもなるが、それにしては、社長らの処罰が従軍慰安婦問題ではなく、原発「吉田調書」記事だけに対するものだという点はいっそう不可解だ。
 米国の9・11は「同時多発テロ」、朝日新聞の9・11は「同時多発謝罪」だと揶揄されるゆえんだが、こう見てくると、朝日新聞社の原発「吉田調書」記事の取り消しと謝罪は、従軍慰安婦問題につづく重大な判断ミスだと私は思うのだが、違うだろうか。

朝日新聞・再生のカギは「社内言論の活性化」だ

 こうした一連の失態から朝日新聞が立ち直るには、どうしたらよいのか。そのカギは、今回の一連の事件のなかにあると私は思った。それは、池上彰氏の原稿を掲載しないとした上層部の決定に対し、それを知った社内の記者たちが猛反発して決定を引っくり返したという事実である。これは、今回の騒ぎのなかで唯一の「救い」だと言ってもいい出来事だった。
 「ジャーナリズムは個が支える」という言葉がある。ジャーナリズム精神は、新聞社という組織が支えるものではなく、記者ひとり一人の反骨精神によって支えられるものだという教えである。今回の騒ぎで言えば、言論機関としての役割について、上層部の判断は間違っても記者たちの判断力は健在だったのだ。
 この例でも分かるように、新聞社のジャーナリズム精神を保つ道は、記者一人ひとりの反骨精神を生かすこと、すなわち記者たちが自由に意見を言い合える空気、「社内言論を活性化すること」しかないのである。
 もっと具体的にいうと、「新聞はデスクがつくる」という原点に戻るべきなのだ。デスクというのは、会社の組織としては部の次長という末端の管理職にすぎないのだが、新聞社では記者たちが書いた原稿の「最初の読者」であり、取材の足りないところを指摘したり、文章を手直ししたり、新聞づくりの実質的な責任者なのである。
 会社の組織でいえばデスクの上に部長、局次長、局長といて、さらに編集担当、社長といるわけだが、かつてはデスクに任されていた新聞づくりの権限が、近年しだいに上へ上へと上がって行って、普通の会社と同じような上意下達型の組織になってしまっていたようなのである。
 今回の大失態を契機に、記者たちが自由にものが言える社内言論の活発な組織に生まれ変われば、政・官・財・学界などから「煙たがられながらも信頼される」メディアとして存在しつづけられるのではないかと、OBの一人として期待している。

 

  

※コメントは承認制です。
第70回 朝日新聞の原発「吉田調書」記事取り消しへの疑問」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    加熱を続ける朝日新聞へのバッシングですが、こういうときこそムードに流されるのではなく、問題を見極める冷静な思考が必要ではないでしょうか。一連の出来事を通して、メディアの役割だけでなく、私たちがメディアを見る目を養う大切さについても考えさせられました。

  2. countcrayon より:

    関連しまして。
    Webronza(朝日の論考サイト)の『「社員の発明は会社のもの」に?それはないでしょう』、青色LED発明者の一人N氏は会社と裁判で争いやっと発明者としての貢献分を認められたが、安倍政権による企業寄りの法改正で現在以上に発明者の権利が狭まる、という、朝日の高橋記者によるもっともな指摘でした。

    そのN氏のノーベル賞受賞のニュースでのasahi.comの見出し三連発が面白い。

    『首相「人材こそが日本の誇る資源」 ノーベル賞で談話」(7日22:10)』
    『首相、赤崎氏に電話「日本人みなが誇りに」(7日22:15)』
    『首相「日本のレベルの高さ示された」 ノーベル物理学賞(8日10:39)』

    人の手柄をすぐ「日本人」の手柄にし「誇り」にするナルシシズムは気持ち悪いですが、それはいいとしても、当のN氏は
    『「ジャパニーズドリームは存在しない」と言い……2000年から研究の場を米国に移し、米国籍を取った』(毎日、8日01:31)
    とか。N氏に限らずよく聞く話で、肝心の「誇る資源」をこの国はずいぶん粗末に扱ってきたらしい。
    その資源からさらに搾り取る政策を進めながら成功すりゃ手のひら返したような賛辞を垂れる政治屋を持ち上げ、笑顔の写真まで載せてイメージアップに協力するセンスは一体何なのか。

    朝毎東三紙のサイトではこの傾向は朝日に特有と思われ(愛国紙は知らん(笑))、バランス取ってるつもりなのか何なのか、安倍さんだけでなく橋下さんに対しても同じ傾向、一方で批判して一方ですり寄る傾向を感じていたのですが、柴田さんの言われる「不可解」に通じるものを感じます。ご指摘のような社内改革?でこの傾向に良い作用があることを私も期待します。

  3. countcrayon より:

    またやってる。「橋下氏、維新代表を辞任 都構想や統一地方選に当面専念」 (2014年12月24日00時17分)
    年柄年中「閉店セール」と張り紙を出して決して閉店しないチェーン店が問題になったが似てるわ。
    「当面の間」「統一選後、すみやかに元の職に戻ってもらいたい」って、勝手にしなさい。だからどうでもいいんですよ、もうこの人の話は……。小賢しい細工ばっかりして……。
    で、10月に載せていただいた上のコメントの「橋下さんに対しても」すり寄る匂いを大朝日webにまた感じてしまったのでここに書いているのですが、記事を取り上げるのはどこも一緒として、毎日は党内の声・取材への反応・党外の批判、しっかり載せているのに比べ朝日のは広報記事に近い。それもいいとして、トップページ「政治」パートの写真として橋下氏のアップの顔写真を掲げる(投稿時現在)必要がどこにあるのか、さっぱりわかりません。そうまでかいがいしく露出に協力したいか。この人、露出さえさせとけばいくらでも生き延びる人なんだから。アップの写真、結構印象強烈で目を引きますよ。で、何をしたかと思えば、閉店しない閉店セール……。その広報を一手に引き受ける大朝日web。大丈夫ですか、本当に。

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柴田鉄治

しばた てつじ: 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

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