柴田鉄治のメディア時評


その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

shibata

 8月はヒロシマ・ナガサキ、そして終戦の日と、戦争を語る月だ。だが、その前に、8月1日の新聞に大きく報じられた福島原発事故をめぐる刑事責任の問題から論じたい。
 工場で小さな火事があっても刑事責任は追及されるのに、あれだけの被害を出し、いまだに10万人を超える人たちが故郷に帰れず、避難生活を続けているというのに、福島原発事故の刑事責任は、いまだに誰ひとり問われていないのだ。検察庁はいったい何をしているのか。
 検察庁は2013年9月、「津波は想定外だった」として捜査を打ち切り、全員不起訴にした。それに対して、市民代表の東京第五検察審査会が2014年7月、東電の幹部3人を「起訴相当」、1人に「不起訴不当」と議決した。
 それを受けて検察庁は、再捜査をした結果、2015年1月再度「全員不起訴」という決定をした。それに対して、東京第五検察審査会が再度審議した結果、当時の東電会長や原子力担当役員ら3人はやはり「起訴相当」だという議決を2015年7月31日に出したのである。
 検察審査会が2度、「起訴相当」と議決すれば、強制的に起訴される決まりになっているので、これで裁判が始まることになったわけだが、そもそも検察庁の全員不起訴という決定がおかしかったのではないか。裁判の結果がどう出るかはともかく、検察庁より検察審査会の市民感覚のほうが正常であることは、誰の目にも明らかだろう。
 その間、メディアはなぜ、検察庁を追及してこなかったのか。メディアまで市民感覚を失ったら、メディアではあるまい。
 検察庁というところは、起訴するかどうかという権限を独占している官庁で、検察庁が起訴した事件は99.9%有罪判決が出ると誇っているところである。もし起訴して、無罪判決でも出たら大変だと考えたのかもしれないが、その判断は裁判所に任せればいいのである。検察庁が起訴しなければ、裁判所が判断する機会さえないのだから。
 第五検察審査会が、「津波は想定外ではなかった」という論拠に挙げたのは、2002年に政府の地震調査研究推進本部が公表した津波地震の評価に基づき、東電は2008年に最大15.7メートルという試算をしていたにもかかわらず、何ら対策を講じようとしなかったことだ。そのことを2回の議決にいずれも挙げている。
 津波については、ほかにもさまざまな警鐘が鳴らされていたのに、それを東電や原子力安全保安院が無視したことは、国会事故調の調査員だった添田孝史氏の著書『原発と大津波――警告を葬った人々』(岩波新書)に詳しいので、読んでほしい。
 津波だけではない。2001年の9・11米同時多発テロのあと、米政府から各国の政府に「全電源喪失の対策を講じるように」という忠告があったというのに、原子力安全保安院はそれを東電に伝えることさえ怠っていたと報じられている。
 それが事実なら、東電だけでなく、監督官庁の原子力安全保安院も刑事責任を追及されるべきだろう。なにしろ、福島原発では非常用電源が海面近くに置かれたままであり、電源車の備えもなければ、電池の備えもなく、事故が起こってから所員が慌てて買い出しに行ったほどなのだ。
 こういう事実が分かってくると、検察庁が全員不起訴としたのは、津波が想定外で刑事責任を問いにくいからではなく、原子力開発という「国策」を推進してきた電力会社に罪を着せたくないという政治的な配慮が働いていたのではないか、という疑問が浮かんでくる。監督官庁は政府そのものだから、なおさらだ。
 というのは、かつて原発に反対する姿勢を見せた福島県知事を、いささか強引な形で贈収賄事件として起訴し、辞任に追い込んだケースがあったからだ。その時の強引さと今回の事故に対する対応とは、あまりにも差がありすぎるというものだろう。
 メディアが検察庁の批判に及び腰なのは、ニュース・ソースとして大事だというだけでなく、検察庁は気に入らない報道がなされると、その記者を「出入り禁止」にするという慣行があり、それを恐れて記者が委縮しているところがあるからだ。
 今回の検察審査会による強制起訴に対する報道でさえ、その市民感覚は評価しながらも、最終的には無罪判決が出るのではないかという、検察寄りの解説が多かったことも、その影響ではあるまいか。
 いや、検察寄りといえば、「強制起訴」という言葉そのものも、「検察が嫌だというのに無理やり起訴する」という検察側に立った言葉だといえよう。

国民の反対を押し切って川内原発の再稼働へ

 ところで、こうした状況のなか、刑事責任の問題だけでなく、福島事故の後始末さえ満足になされていない状況のなかで、政府は川内原発の再稼働を許可し、九州電力が運転を再開した。国民の圧倒的な多数が反対しているなかでの、強行である。
 それに対するメディアの反応は、例によって二極分化し、新聞でいえば、読売、産経、日経新聞が再稼働を歓迎し、朝日、毎日、東京新聞が「無謀な再稼働だ」とかなり激しく批判した。
 折から鹿児島の桜島が不気味な動きを見せ、気象庁が警戒レベル4(住民に避難勧告)に引き上げたこととも重なって、いっそう不安をかきたてた面もあった。
 それはともかく、万一の場合に備えての避難計画がないまま再稼働に踏み切ってしまったのである。福島原発の場合、病院や老人施設などの社会的弱者の避難がうまくいかず、大勢の死者を出してしまったのに、その教訓が生かされていないのだ。
 それだけではない。万一、事故が起こった場合の責任について、政府は九州電力にあると言い、九州電力は「原子力規制委員会の厳しい基準をクリアしたのだ」と言い、原子力規制委員会は「新しい基準には合格しているが、安全だとは言っていない」と、それぞれ予防線を張っているのだ。こんな状況で再稼働させていいのだろうか。もし再度、福島事故のようなシビア・アクシデントが起こったら、日本は壊滅状態になるに違いない。
 再稼働した途端、トラブルに見舞われ、出力上昇をストップするという騒ぎも起こしている。
 安倍首相が口癖のように言っている「国民の平和と安全を守る」のであれば、安保法案より原発の再稼働を止めることの方が先なのではなかろうか。

原爆忌、長崎が広島よりずっと良かった!

 8月の戦争を語る報道に移ろう。広島、長崎での平和式典の様子を、NHKの生中継で今年はとくにしっかりと見た。その結果をひと言でいえば、長崎のほうが断然よかった。
 その理由の一つは、広島市長の平和宣言より長崎市長の平和宣言のほうが訴えるものがあったし、被爆者代表の言葉もずっと生々しく、また安保法案に対する厳しい批判もあって、すばらしい内容だった。そのうえ、安倍首相がスピーチの中で、広島ではわざわざ「非核三原則」を削り、批判されて長崎で慌てて入れるという醜態まであったのだ。
 ただ、こうした登場人物の言葉の差だけでなく、全体のテレビ中継の番組として見たときにも、演出を含めて長崎のほうが優れていたように思う。それは、単に番組を取り仕切ったプロデューサーの力量の差なのか、それとも、広島は中央放送局で、長崎より格上のため会長の意向が届きやすいところに原因があるのか、よく分からない。
 それはともかく、広島には100ヵ国以上の代表が参列し、長崎の75ヵ国より多く、また、広島のほうが先だから世界への発信も多いだろうから、それを考えると、この差はちょっと残念な気もする。

70年談話は心に響かない空虚な内容、「間違い」が2つも!

 戦後70年の安倍首相談話は、出る前からかつてないほどに注目された。その原因は、河野談話、村山談話、小泉談話とかつて近隣諸国との融和に大きな役割を果たした談話の内容を、安倍首相は全面否定するような発言をあちこちで繰り返してきたからだ。
 そのため、米国から早々と厳しい牽制球が飛んで来たり、中国、韓国から「注目しているぞ」というサインが出たり、と騒ぎは広がり、国内でも有識者懇談会を組織して事前に文面を検討するようなことまでやったのだ。
 その有識者懇の報告書が8月6日に出たが、その内容は、侵略については明確に反省すべきだが、謝罪については触れないという中途半端なものだった。
 この報告書を受けて、読売新聞は社説で「謝罪すべきだ」と主張し、産経新聞は「謝罪するな」と主張した。安倍政権の「与党新聞」ともいうべき両紙が、真っ二つに割れたのには驚いた。
 こうした騒ぎのなか、8月14日、安倍首相の戦後70年談話が発表されたが、その内容を読んでの私の印象をひと言でいえば、長いだけで心に響かない、なんとも空虚な談話だな、というものだ。
 この種の談話は短いほどいいのに、村山談話の3倍もある。そのうえ、侵略、植民地支配という言葉だけはあってもその主語が明確ではなく、謝罪に至っては、歴代内閣の談話を引き継ぐというだけで、自らの言葉はまったくなかった。
 そのうえ、談話の中で明らかに間違いだと思ったところが2つあった。一つは冒頭の「日露戦争がアジアの人たちを勇気づけた」という部分で、日露戦争のあと、日本は朝鮮を植民地にしたのだから、このくだりを韓国の人たちが読んだら怒りさえ抱いたのではないか。
 もう一つは「次世代の子どもや孫たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分である。この言葉が正しいのなら、戦後生まれの安倍氏自身も謝る必要はないのだ、ということになってしまう。実はそれが目的なのかもしれないが…。
 そもそも「いつまで謝れというのか」というのが安倍氏たちのかねてからの主張なのだが、そういう状況をつくりだしているのが実は安倍氏たちなのだという認識がないのだろうか。せっかくの河野談話や村山談話を全否定するような発言を繰り返すため、「あの謝罪は本当なのか」という疑問を産み出してしまうのである。
 これは、「謝罪を続ける宿命を負わせる」のではなく、歴史認識の問題なのだ。子や孫の世代には歴史認識まで変わってしまうのでは、日本という国は未来まで「信頼できる国」とはならないだろう。
 ところで、この談話を受けてメディアの反応はどうだったか。自社の主張通りだと全面的に評価したのが読売新聞、産経新聞は謝罪するなという主張は容れられなかったが、次世代にまで謝罪の宿命を負わせるな、という部分に「わが意を得たり」とそこに焦点を合わせ、やはり合格点を与えている。朝日、毎日、東京新聞は多少のニュアンスの違いはあっても、批判的な論調だ。
 一方、テレビはどうか。安倍首相の会見は、全局が生中継したが、記者団からの質問が中途半端でがっかりした。聞くところによると、記者会見は政府側が取り仕切っていて、厳しい質問は最初から避けているのだという。そんなことを続けていたら、メディアに対する信頼もなくなってしまうだろう。
 NHKは、夜9時からのニュース・ウォッチで、安倍首相の言い分をたっぷり聞いたが、ちょっと驚いたのは、「侵略」「植民地支配」「反省」「謝罪」の4つのキーワードが、全部入っていたというテロップを流していたことだ。
 4つのキーワードが入るかどうかは、事前の論議では確かに焦点になっていたが、ただ入っていたというだけで、NHKが評価することではあるまい。その他の民放局の論評は見ていないので触れないが、一つだけ、フジテレビの解説委員が「中国、韓国、そして朝日新聞の反応が意外に穏やかだった」と解説していたのには違和感があった。
 中国や韓国の反応は、今後の外交関係もあるので、確かに穏やかなものだったし、それは意外だといえばそうかもしれない。しかし、朝日新聞の反応が穏やかというのは、よく読んでいなかったのではないか。
 一面トップの「『侵略』『おわび』に言及、引用・間接表現目立つ」という見出しは、一見、穏やかに見えるが、一面に載せた論説主幹の「政治は歴史を変えられない」という『座標軸』も、「何のために出したのか」という一本社説も、読んでみるとこれほど厳しい論評は他紙にもみられない。
 社説では「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」とはっきり断定しているのだ。ほとんど絶賛だといってもいいような読売新聞の社説と、どちらが読者の受け止め方に近いのか、読み比べてもらいたいものである。
 各紙ともそれぞれに受け止め方を報じているが、たとえば、安倍首相に近い百田尚樹氏が「沖縄の新聞はつぶさねばいかん」と叫んだ沖縄紙の一つ、琉球新報の一面トップの見出しは「歴代内閣のおわび引用、首相直接謝罪避ける、大陸侵略明示せず」というものだった。朝日新聞も社説の厳しさから言えば、一面トップにこのくらいの見出しが欲しかったといえようか。
 翌15日、戦没者慰霊式典での天皇陛下のお言葉は、例年とは違う「さきの大戦に対する深い反省」といった表現が加わるなど、短いながら戦後70周年にふさわしい心のこもったものだっただけに、安倍談話との違いにあらためて感じ入った。
 一方の安倍首相の式辞は、歴代首相が踏襲してきたアジア諸国に対する加害責任には、昨年に続き今年も触れなかった。

安保法案先取りの「日米の軍事一体化」の内部資料が…

 ところで、安保法案は参議院の審議に移って野党の厳しい追及が続いているが、安保法案が通った場合を先取りして、自衛隊が「日米の軍事一体化」を進める内部文書を早々と作成していたことが暴露され、日本のシビリアン・コントロール(文民統制)は大丈夫なのか、と問題になっている。
 折も折、沖縄の沖合で着艦に失敗した米軍のヘリに、特殊任務の自衛隊員2人が乗っており、けがまでしているのに、米軍が事故の詳細を発表しようとしなかったので、現実は内部文書よりさらに先に進んでいるのか、という疑惑まで生まれた。
 かつて沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落したとき、日本の警察に現場検証さえさせなかったことがあり、沖縄はいまだに米国の占領下なのか、と怒りが渦巻いたことがあった。安保法案が通ったら、何が起こるか予想さえできない。
 その沖縄の辺野古基地の新設について、政府は「1ヵ月間、工事を中止して話し合いたい」と沖縄県に申し入れた。知事が上京しても誰一人会おうともしなかった政府が「いまごろなんだ」という怒りも抑えて、沖縄県側も話し合いに応じたが、これまでのところ、政府に沖縄県民の民意を尊重する気持ちはまったくないようだ。
 それでは、1ヵ月間の「休戦」の申し入れも、安保法案を通すまでの単なる時間稼ぎに過ぎなくなろう。政府側の譲歩がないまま1ヵ月が過ぎたときこそ、「これ以上沖縄差別をつづけるな、民意を尊重せよ」と、本土のメディアも政府批判の砲列を敷いてもらいたいものだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第81回 原発事故の刑事責任を追及しない検察庁とは?」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    戦後70年目の夏を、メディアはどう伝えたのか。柴田さんも指摘しているように、70年談話についてなどは疑問符のつく報道も多かったNHKですが、一方でじっくり見せる、中身の濃いドキュメンタリー番組も多数放送されていました。いいと思ったことも悪いと思ったことも、どんどんメディアの現場に伝えていくことが重要なのだろうな、と改めて思います。
    そして、冒頭で触れていただいている、福島原発事故の法的責任追及の訴訟も、引き続きしっかりと追っていきたい問題です。告訴を訴えてこられた「福島原発告訴団」の団長・武藤類子さんのインタビューがこちらから読めます。

  2. とろ より:

    刑事責任は難しいでしょう,原発事故と死亡との間の因果関係証明しないといけないでしょうから。

    日露戦争がアジアの人たちを勇気づけた」という部分・・・実際アジアやトルコの人々は勇気づけたわけですから間違ってはないでしょう。韓国だけがアジアじゃないし。それにしても韓国好きですよね。

    「次世代の子どもや孫たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という部分・・・何処が間違っているのか書かないとだめでしょう。この部分は国民から支持されているわけで,柴田さんとしてはイライラされているんでしょうね。柴田さんはいつまで謝罪すればいいと思われているんだろう。永久にかな。

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柴田鉄治

しばた てつじ: 1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

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