映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第20回

素朴な「感謝」がファシズムを支えるとき

 来年、テレビ東京開局50周年企画として、百田尚樹氏の小説『永遠の0』(太田出版)がドラマ化されるそうである。周知の通り、本作はすでに映画や漫画になっている。原作は累計で530万部を売り上げ、映画は700万人を動員したという。今度のドラマ化は「2匹目だか3匹目のどじょう」を狙ったものなのだろう。

 ドラマのウェッブ・サイトには、次のような百田氏のコメントが寄せられている。

 「このたび、テレビ東京から『永遠の0』をドラマ化したいという申し出を受けました。三日間通しての放送と聞いて、心が震えました。映画版は原作者である私自身が大いに満足した出来栄えでしたが、もとが600ページ近い長編だけに、原作の世界観が十全に再現されたものではありませんでした。しかし、今回のテレビ東京の企画は、限りなく原作に近づいたものです。脚本も見せていただきましたが、主人公である宮部久蔵だけでなく、彼を取り巻く様々な男たちの姿が生き生きと描き出されていることに感動しました。どんな風に映像化されるのか、本当に楽しみです」

 『永遠の0』の物語の構造は、原作も映画も同じである。

 思い切って単純化するならば、それは「だらけきった戦後民主主義の日本人(健太郎と慶子)」が「誤解され、忘れ去られた戦前・戦中の日本人(宮部久蔵)」の「本当の姿」を発見し、その愛の強さや自己犠牲の精神に驚嘆すると同時に、自らの認識と生き方を改めていくという物語である。「私は死にたくありません」と言い続ける厭戦的な宮部を主人公に据えたことで、本作は一見「反戦作品」にも見えるが、その本質を冷静に分析するならば、安倍首相や百田氏らが好む「靖国史観」に沿ったプロパガンダだといえる(詳しくは拙著『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)をご参照のこと)。

 百田氏のコメントによれば、ドラマも「限りなく原作に近づいたもの」だそうだから、きっと同じような作品になるのであろう。ドラマの「協力」に、防衛省、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が名を連ねていることを考えれば、すでに国を挙げたプロパガンダが始まっているとみるべきではないだろうか。

 ドラマの主役には、向井理氏が起用された。彼は「靖国史観」に共感を寄せているようで、2010年の8月15日に「幸せ」というタイトルで次のような文章をブログに投稿している。

 今日は日本がポツダム宣言を受諾して65年の日です。(略)
 昨日放送したドラマ『帰国』の撮影前に靖国神社に参拝に行きました。
 劇中の自分のセリフにもありましたが、『国の責任者が参拝するのは当然の義務なんじゃないのか』(略)
 八月十五日が来ると改めて今の自分は幸せだと思います。
 ちゃんと生きて、生活できているから。
 それこそ戦争中はいつ死ぬか、家族の安否もわからぬ生活を送る人が多かった訳だから、それに比べたら幸せ過ぎて申し訳ないくらいです。(略)
 そして、必死になって日本の行く末を案じながら散っていった人達のことを考えると感謝の気持ちで一杯です。
 さらにあの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います。(略)

 衝撃的なのは、「あの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います」という記述である。向井氏は「ポツダム宣言」や「無条件降伏」の意味を理解していないのだろうか。理解していれば、「無条件降伏まで持っていった」などという記述になるはずがない。

 このブログ記事には約4400件ものコメントが寄せられている。その全部を読んだわけではないが、ざっと見た限り、そのことについて指摘したり批判したりしたコメントは見当たらなかった(見落としてたらごめんなさい)。コメントの大半は向井氏に共感し、向井氏や戦死者に感謝する内容である。その典型的なものをいくつか紹介する。

「向井さんの考えを読んで、あらためて今の何気ない幸せを当たり前にある幸せではないのだと感じました。自分達の行く末を案じて逝かれた方々に同じ日本人として感謝したいです」
「亡くなった方々の御冥福を、お祈り致します…素直な心で…そんな気持ちを、思い出しました…ありがとう」
「生半可な覚悟じゃ、特攻玉砕なんて出来ない。命と引き換えに日本の未来を護って下さったのです。英霊の方々には感謝の気持ちで一杯です。今度の日曜に、靖国に行こうと思います」
「広島で生まれ、育ちました。読んで、なんだか泣けてきました。ありがとう。」
「あなたのように、人気、実力共に兼ね備えた素晴らしい俳優さんが、このようなブログを書かれることで、多くの方に靖国神社の大切さや、そこに眠っておられる英霊の皆様の事を知っていただけると思います。本当にありがとうございます!これからのご活躍を応援させていただきます。お身体に気をつけて頑張って下さい!」

 僕はこのブログを読みながら、なんともやるせない気持ちになった。

 おそらく向井氏はポツダム宣言の意味を誤解しているわけだが、それほどまでに基本中の基本である事実を正確に理解することなく、靖国や戦死者に対する感傷だけをナイーヴ(naive)に表明し、読者と共有してしまう。読者も歴史的事実など考慮せず、素直に感動してしまう。この図は、なんだか現代日本の極めて典型的な光景のように思えたのだ。

 向井氏はこう書く。
「必死になって日本の行く末を案じながら散っていった人達のことを考えると感謝の気持ちで一杯です」

 そしてコメント欄の読者も、しきりに「英霊」に対する「感謝」の気持ちを表明する。というより、靖国史観に共感する人々からは、決まってこの「感謝」という言葉を聞く。

 それは一見、単に人畜無害な言葉にもみえる。彼らはきっと善意で無邪気に感謝を表明しているのであろう。しかしだからこそ、その言葉の強い政治性は自覚されにくく、余計にタチが悪いように僕は思う。ナイーヴであることは、罪なのである。

 そもそも向井氏らは「英霊」に感謝するとき、いったい何に対して感謝しているのか、つきつめて考えたことが一度でもあるのであろうか?いや、歴史を正確に知ることなく、自分が「何に対して感謝すべきか」を見極めることなど、そもそも可能なのだろうか?

 僕自身はもちろん、戦死者に対して素直に単純に「感謝」することなど、断じてできない。

 日中戦争から太平洋戦争で亡くなった日本軍兵士の数は230万人といわれるが、歴史学者の故・藤原彰氏の研究によれば、そのうちの6割は戦って死んだのではなく、餓死したのだという。

 物資の補給をないがしろにし、彼らを見殺しにした戦争指導者には憤りを覚えるし、無益な殺生をさせられた上に餓死させられた人たちは本当に気の毒だと思う。おまけに彼らが自らの死について「国や家族のためになる」などと本気で信じ込まされていたのだとしたら、洗脳とは全く恐ろしいものだと戦慄を覚える。

 だがそれは、「感謝」という気持ちとはほど遠い。というより、彼らの境遇や行為の本質を「日本の行く末を案じながら散っていった」などというセンチメンタルな言葉で曖昧にし、さらに「感謝」という言葉で無前提に美化することは、倫理的に許されないと思うのだ。

 ブログのコメント欄には、「生半可な覚悟じゃ、特攻玉砕なんて出来ない。命と引き換えに日本の未来を護って下さったのです」という文章があった。それは『永遠の0』を読んだり観たりした人の多くも抱いた感想であろう。

 だが、周知の通り、彼らが特攻を命ぜられた時期には、日本の敗戦はすでに決定的であった(というか、戦争を始めたときから負けることは分かっていた)。彼らがいくら敵艦に突っ込んで自爆をしても、それは敗戦の時期を多少先延ばしにすることはあっても、「日本の未来を守る」ことには決してならなかった。それはまことに無念かつ遺憾ながら、徹頭徹尾、「無駄死に」であった。彼らはむしろぜひとも生き残って、戦後の日本を作り上げていく存在になるべきだったし、私たちは彼らを無駄に死なせた人たちの責任を問うべきなのだ。

 にもかかかわらず、「特攻隊員が日本を守ってくれた」などと「感謝」するのであれば、それは彼らに自爆を強いた当時の戦争指導者の方針をも正当化することになる。ましてや感謝の表明を、天皇のために死んだ兵士だけを神として祀る靖国神社に絡めて行うことは、戦争ファシズムに協力した当時の日本の「素朴な庶民」と、何も変わらないのではないだろうか。

 今のうちに不吉な予言をしておく。

 もし万が一、安倍首相かその後継者が将来「戦争指導者」になったとき、向井氏らはやはり素朴に、善意で自衛隊員への「感謝」の念を表明するであろう。しかしそのとき彼らの頭の中には、「そもそも日本が戦争すべきかどうか」という疑問が湧くことはたぶんない。過去に起きた戦争の本質を問わない人間が、これから起きる戦争の本質を問うとは、考えにくいからである。

 彼らはそのとき、胸を張って、心に一点の曇りもなく、こう言うのではないだろうか。

 「戦争になった以上、今は戦争の是非を議論するときではない。日本人なら一丸となって自衛隊を応援し、英霊には感謝しようよ」

 かくして戦争そのものを批判し、戦死者に感謝しない人間は、「非国民」となるのである。

 

  

※コメントは承認制です。
第20回 素朴な「感謝」がファシズムを支えるとき」 に18件のコメント

  1. magazine9 より:

    〈彼らはむしろぜひとも生き残って、戦後の日本を作り上げていく存在になるべきだった〉--以前、初めて遊就館(靖国神社併設の資料館)を訪れたとき、まったく同じことを考えました。おそらくはたくさんの未練も無念もありながら、死に追いやられた人たち。そこに無批判に「感謝」を捧げることは、彼らの死を強要した「戦争」を正当化することにしかならないのではないか。私たちがすべきことは、彼らの死を美化するのではなく惜しみ、同じことを繰り返さないと誓うことではないのか…。
    そこから十数年経って、当時よりもさらに「無批判な感謝」が広がっていることに愕然とします。「戦争そのものを批判し、戦死者に感謝しない」ことが「非国民」になったとき、自分はどこまで「非国民」であり続けられるだろう? そんなことも考えてしまいます。

  2. 向井氏の誤解は、靖国神社という装置の認識についてもありますね。
    こうした誤解が、なんらの注釈も受ける事なく、垂れ流され、それが共感として、定説化することの恐ろしさを感じます。
    戦争=特攻 兵隊=国の礎→感謝
    と考えさせられる者と
    美輪さんのように
    戦争=大量殺人 兵隊=殺し屋→戦争を放棄する。
    この二つの間には、対話が成り立つのだろうかと心底不安になります。
    「共感」を伴う物語vs「恐怖」を伴う物語の伝播力の戦いだと思います。
    しかし、未だかつて、美しかった戦争など存在しなかったこと、兵隊は決して庶民を守らない。
    彼らは自分と権力を守る為に、進んで庶民を銃弾の盾とする。
    「戦争」を「恐怖」「嫌悪」としてもう一度認識してもらはなくてはいけないのだが。

  3. 私自身が、素朴な「感謝」をしていた人間だったので、本記事の示唆に、確かにおっしゃる通りかもしれないと感じました。 単純に「感謝」することは、無自覚ながら過去の戦争への賛美につながると思います。
    しかし、だからといって、やれファシズムだとか、戦争をしたがっているというのは、論理に飛躍がありすぎると感じました。素朴な「感謝」の一面だけを見て、違う面を見ないようにしているとしか思えません。 素朴な「感謝」をする人達は、戦死者を英雄視しているわけではありません。戦死者が、現在の繁栄に対して直接、間接的にしてくれた貢献に対しての素朴な「感謝」です。自分の祖先を敬う気持ちや、戦時下という時代を生きざるおえなかった先人達の無念さを思う気持ちです。

    私も予言しておきます。
    素朴な「感謝」をしている人達の大部分は、戦争に強く反対しています。
    もし万が一、安倍首相かその後継者が将来「戦争指導者」になったとき、最も強い反対派になるのが、現在 素朴な「感謝」をしている人達でしょう。

  4. ピースメーカー より:

     池上彰氏の批評よりはるかにキツめのコメントゆえ、掲載拒否もありうるかもしれませんが、想田さんの個人攻撃的な寄稿への批判とともに、今のマガジン9のスタンスを推し量る意味合いを含め、あえて投稿します。
     :
     今回の想田和弘さんの寄稿は、向井理氏という一人の俳優の人格を「ナイーヴであることは、罪なのである。」とまで酷評し、併せて「向井的」な「過去に起きた戦争の本質を問わない」で「素朴に、善意で戦争ファシズムに協力する」人間を批判するという趣旨のものなのだが、想田さんは向井氏に今回の寄稿を読まれ、向井氏からどのような評価をされるのかということを、まるで考えていない(要するに、「冷静」ではない)のだろう、と私はまず考えた。
     ぶっちゃげ、向井氏から「この人、アホですか?」と批評されたら、まずは一人の表現者としての自尊心がズタズタにされ、目も当てられない事態になるということをあまりにも考えなさすぎているという、今の朝日新聞問題と同様の過ちを犯しているように思える。
     そして、今回のような寄稿をされたのは、奇しくも鈴木邦男氏が今週のマガジン9に寄稿された『朝日新聞は、なぜ素直に謝罪できなかったのか』にて指摘しているように、想田さんが「どんな誇張をしても日本の戦争犯罪を告発するという『使命感』を持った『運動家』」だからではないだろうか?
     想田さんは向井氏の「人格」を、彼のブログをつまみ食いして推定しているのだが、本来の彼の「人格」が本当に「純粋まっすぐバカ的なナイーブ」でなければ、今回の想田さんの寄稿は全てがオジャンなのである。

     さて、その向井氏なのだが、私も正直、想田氏と同様に、彼について精通するどころか、(後述の『魅惑のイタリア大紀行』は見たが)彼の出演したドラマなどすらひとつとして見たことはない。
     とはいえwikipediaによると、彼は大学時代を通じて6年間も東京都内でバーテンダーとして務めていたそうである。
     バーテンダーという、レパートリーの習得(向井氏は500を超えるそうである)だけでなく、職業柄、極めて高いコミュニケーション能力を要求される職業に就き、最後は店長として1年間務めた経歴の持ち主が、果たして「純粋まっすぐバカ的なナイーブ」でいられるのだろうか?
     さらに、少年時代はわがままで生意気で、サッカーなどのスポーツばかりしていたそうである。
     このような経歴は、「純粋まっすぐバカ的なナイーブ」が誕生させてしまう、「必要な経験をしてこないで、不必要な経験ばかりをしてきた」という、人格形成を歪ませるファクターとは真逆のものばかりである。

     加えて最近、作家の塩野七生さんと『魅惑のイタリア大紀行』という番組で共演したというのも凄いことである。
     塩野さんの愛読者ならば承知のことであるが、彼女は人間世界への観察力が鋭すぎる人であり、その批評は「ワル」とも呼ばれるのもさしつかえがないほど辛辣なものであったりする。

     「(抜粋)だが私は、考え込んでしまった。元慰安婦たちの聞き取り調査を行ったということだが、当事者本人の証言といえども頭から信ずることはできないという人間性の現実を、調査しそれを基にして記事を書いた人は考えてなかったのであろうか、と。
     人間には、恥ずかしいことをしたとか悪いことをしたとか感じた場合には、しばしば、強制されたのでやむをえずやった、と言い張る性向がある。しかも、それをくり返して口にしているうちに、自分でもそうと信じてしまうようになるのだ。だからこそ厳たる証拠が必要なのだが、この種の性向は、教育の有無に関係なく社会的地位の上下にも関係なく起る。人間とは、かわいそうなほどに弱い存在なのである。だから、彼女たちにくり返し質問をぶつけても、それ以上の事実は出てこなかっただろう。泣き叫ばれるか、馬鹿にするなと怒り狂われるかして、終わっていた可能性のほうが大きい。
     しかし、だからと言ってそれを基にした記事を書く側は、「『元慰安婦に寄り添い、気持ちを深く理解する』とし、裏付け調査などを行わなかった」では済まされないのである。対象に寄り添う暖かい感情を持つと同時に、一方では、離れた視点に立つクールさも合わせ持っていないと、言論で生きていく資格はない。なぜなら、対象に同情しすぎることは、問題のすり替え、つまり、読む人の関心を別の道に誘導してしまうことになりかねないからである。(抜粋終了)」

     以上は、慰安婦問題に熱心に取り組む人々の何人かを卒倒させるか激発させかねない、『文藝春秋』に塩野さんが寄稿された「朝日新聞の”告白”を越えて」から抜粋した一文である。
     しかし面白いことに、この一文で書かれている「元慰安婦」という言葉を「元特攻隊員」に置き換えると、印象はガラッと変わるのが、このコメントを読まれた方々はお分かり頂けただろうか。
     そして、この塩野さんの指摘が日本の言論界の常識となれば、想田さんの「不吉な予言」など、的中することはありえないだろう。
     塩野さんはたしかに人が悪いどころか、「ワル」とも言われかねない発言をされる。
     とはいえ、塩野さんは「全体主義下で判断の自由を維持できるには、なによりワルであることが、条件なのではないだろうか。(塩野七生著・『サイレント・マイノリティ』より)」とも書いているのだ。

     そんなコワモテの塩野さんと楽しげに共演し、「素敵な出逢いと発見の多い番組でした。」と平然とブログに書くあたり、向井氏という方は「ワル」ではないかもしれないが、「たいしたタマ」だと私は思う。 
     もし、向井氏が顔だけが良いだけのナイーブな人間だったら、手厳しい塩野さんは彼との共演を断っていただろう。
     この推察は、塩野さんの著作を読みこんだ人ならば同意すると私は思う。
     少なくとも、「安倍首相かその後継者が将来『戦争指導者』になったとき、向井氏らはやはり素朴に、善意で自衛隊員への『感謝』の念を表明するであろう。しかしそのとき彼らの頭の中には、『そもそも日本が戦争すべきかどうか』という疑問が湧くことはたぶんない。」ということはあり得ないと私は断言できる。
     そして想田さんの今回の寄稿を、もし向井氏が目を通したとしたら、それに返答するか否かは置いといて、向井氏はかなり厳しい批評を下すだろうと推察する。

     ところで、想田さんは見ず知らずの向井氏という一人の俳優に、なぜあれだけ執着され、「運動家」マインドを爆破させたのだろうか?
     想田さんの想像する「向井氏」に、自身の影を映しこんでしまったのではないだろうか?
     もし、私が指摘したように、想田さんの想像する「向井氏」と実際の向井氏との乖離が著しいのならば、想田さんの想像する「向井氏」は、自身が憎みつづけている自分の心のうちにひそむ影ではないかと私は忖度する。

  5. 福地義広 より:

    この「感謝」こそが平和ボケした日本人特有の自らを癒す感情だ。沖縄の戦争の傷跡。戦後米国支配。今なお残る米軍基地とその被害。沖縄の苦悩にさえ平和ボケした日本人は「感謝」することによって自らを癒し、正当化する。狂っているとしか言いようがない

  6. うまれつきおうな より:

    矮小化との批判を承知であえて書かせていただく。もし家族や社員を路頭に迷わせないため、お父さんや社長が保険金めあてに自殺してそれを「すばらしい自己犠牲と責任感だ。保険金自殺は世界に誇る侍スピリッツだ」とか「破産や夜逃げ、生活保護受給するだらしない奴は彼らを見習え」とか言われたら、果たして家族や社員はどう思うだろうか?特に家族はそんな称賛より父親が生きているほうがいいに決まっているだろう。(浅田次郎の小説に「家のため切腹しろ」と家族に迫られる話もあったが)そして、家を売っても借金が残る住宅ローンや個人資産を担保に取りやたらと連帯保証を求める日本のえげつない制度(アメリカでさえこんなことはしない)に怒りや嘆きを持ちこそすれ「家族と保証人と日本経済のため命をささげた父をドラマに!」などと決して思わないと思うのだが。

  7. ピースメーカー より:

    > さらにあの戦況下で無条件降伏まで持っていったのは凄いことだと思います。(略)

     もうひとつだけ批判します。
     想田さんが向井理氏を批判したブログの一文の後、想田さんは(略)としてますが、その(略)には以下の文が書かれています。
    ”日々戦争のことを考えるのは難しいですが、一年に一回でも深く考えてみても良いんじゃないでしょうかね。
    世界のどこかで、いまでも戦い、争いが起こっています。
    戦争についていろんなことを考えると、ただただ自分は幸せです ”
     これ以外にも、(略)(略)(略)と、計4回(略)されていますけど、これは読者に読みやすいように配慮して長文を(略)された訳ではないですよね?
     「『幸せ』というタイトルで次のような文章」じたい、(略)×4しなくても全文でたった633字の文章です。
     これならば、読者に全文を読ませたうえで批評すべきなのに、想田さんはそれをしなかったのです。
     ハッキリ言って、フェアじゃありません。
     それは、想田さんに批判された向井氏が一番思っている事ではないでしょうか?
     とはいえ、今月3日に書かれた向井氏のブログでは、以下のとおりに書かれていました。
    ”なんだかね、最近身に覚えのないことが多くて。
    ちょっと怖いですよ。さも本当にあったことのようになってるのって。
    たまに怖い通り越して凄いってのありますけど。
    まぁネットですからね。
    いちいち反応するのもね。”

  8. みやもち より:

    「戦争はそもそも駄目なんじゃないの、特攻なんて戦争犯罪に参加したってことなんじゃないの、それだけでしょ」
    「いや、彼らも戦争はしたくなかったんだよ。でも、そうするしかなかったんだ。そうするしかないって状況で何かのためにそれを成すことができるのは勇気のあることだよ」
    そういう会話が少し前にあった。僕はため息をついたものだ。『そうせざるを得ない状況』という免罪符の恐ろしさと言ったら。最近よく思うことなのだけれど、殺人や武器の保持(戦争)、原子力発電所、貧乏人いじめのアベノミクスまで、『そうせざるを得ない状況なのだ』という言葉でいったいこの国はどれほどのことを正当化しようとしているのだろうか?
    『そうせざるを得ない』という言葉は、『本当はそうはしたくないのだけど』という言外の響きを持っている。つまり、『そうしない選択肢も考えたのだけど、それは無理だった』ということが言いたいわけだろうけれども――
    しかしずいぶんと遠い世界の話みたいに語るな、と僕は思う。戦争を止めるのは敵がいたり命令されたりしてるから無理。電力は足りないから必要。景気がよくないとダメ。
    ほー。
    痛みを感じるのだろうか。彼らは。日本の?痛みを?それで何かを言っているのだろうか?
    ……きっとそうではないだろう。彼らは痛みから逃げているのだ。自分自身の痛みから。
    本当は痛みはそこらじゅうに溢れている。友人、家族、お金、恋人、仕事、災害……その延長線上に日本人であるということもある。それらはそう遠くにはないのだ。でも、それらは本当に痛い。常に考え続けるしかないもの。答えのそう簡単にはでないこと。答えを出すことにも痛みをともなうこと。たとえば戦争の痛み、たとえば原発事故の痛み、たとえば貧乏人の痛み――どのぐらいの人がリアルにそれを感じているのだろうか?それを知った上で答えをだすことなんてそう簡単にできることじゃない。『何かを犠牲にして何かをなして良いのか』――本当は答えなんかでないのだ。たとえ決断したとしても、痛みとは付き合っていかなくてはならない。
    でも、多くの人がそうできない。
    だから痛みから逃げて都合の良い答えを出す。テレビ、ゲーム、本、映画、音楽、インターネット、『政治』や『経済』……そこらじゅうにあるインスタントに痛みを与え、答えをだしてくれるものにすがる。永遠の0の主人公は、痛みを一人で引き受けてくれる。観客は常に安全圏にいる。そして、主人公と共に何かを決断したつもりになる――。すがることで、安心感を得ようとする。
    でもきっと、それは本物の痛みを持たない。偽物だとは言わない。方法によっては現実とつながることも可能だろう。しかし、本物には届かない。そのインスタントな痛みは、人に程よいストレスを与えるだけだ。越えられる壁として。倒すべき敵として。

    例えば絆、という言葉一つで、何から逃れたつもりでいるのだろうか。
    例えば自己犠牲、という言葉一つで、何から逃れたつもりでいるのだろうか。
    戦争の痛みを日本人はもはや忘れつつある。
    というか、忘れたいのだろう。
    誰もが呪縛から逃れたがっている。
    でも、そこから先に広がる暗闇には目を向けない。
    向井理に聞きたい。あなたは戦争に賛成なのか?
    きっと、向井理は『いえ、僕は戦争反対です。当たり前でしょう』と答えるだろう。
    戦争反対という言葉一つで、一体何から逃れるつもりなのか――。

    我に返るその瞬間が、目の前に銃を突きつけられたその時でないことを祈るしかない。

  9. 안정호 より:

    [それほどまでに基本中の基本である事実を正確に理解することなく、靖国や戦死者に対する感傷だけをナイーヴ(naive)に表明し、読者と共有してしまう。読者も歴史的事実など考慮せず、素直に感動してしまう。この図は、なんだか現代日本の極めて典型的な光景のように思えたのだ。]
    上記に日本の全ての問題が明記されているんでしょう!
    現代のほとんどの日本の若者が日本の実態を知ろうとせず、まやかしの豊かさに無知にされている事に気が付いていない。だから憲法の解釈の変更と言う詭弁で国の根幹を自分勝手に解釈し、容認し実施できる枠組みを作られても怒らない。怒らない国民にはますます重税を課し、秘密保護法という法律で自由を奪おうとする。
    こんな明白な迫害を受けていても何も感じない国民に仕上げられている日本。
    今、朝日新聞が槍玉に上がり、上記のごとく、基本中の基本である事実を正確に理解することなく、一部分だけ切り取ってそれを感情的に非難している。これを仲間意識で(仲間はずれにされたくない)マスコミが報道し続ける、活字となって無知になったプライドの高い日本人の脳裏を駆け巡る。結果事実としてあったことがまるで嘘で作られた捏造された物だと思い込む。    だってテレビで言ってたもの、本当でしょ!
    この「永遠のゼロ」という映画を作らせた時期と意図、テレビでは目につくように「太平洋戦争当時の新聞」の特集誌のコマーシャルが垂れ流されている、これも権力者の作為的な洗脳ではないかと思ってしまう。
    もし、日本がどうしてもその道を進んでしまうなら、人類の進歩と調和が全てぶち壊され破滅の道を選択したんだという事を若者たちと向井くんに教えてあげなきゃダメですね!

  10. こたろう より:

    永遠のゼロを見ていないですし、向井さん個人を知らないので、何とも言えないですが。相田さんが指摘されていることには、同感です。というより、危惧を感じます。一方で、このような事は、”日本人”と言う括りで語るべき問題では無いと思います。
    世界中どこの国でもプロパガンダをしていますし、軍人が英雄視されていることが多々あります。軍隊は、まちがいなく殺人集団であり、戦地において、犯罪者集団であることは、疑いようがありません。百歩譲って、必要悪であるとしても、英雄視すべき対象ではないはずなのに。
    これは、”ナショナリズム”と言う悪魔に取り憑かれた人々がいかに多いかを表していると思います。この悪魔により、人々は、同じ人間である他国の人を”悪”と思い込み、”悪人”を命懸けで退治する”正義の味方”の軍人さんと無邪気に考えてしまい、称賛につながっていると感じます。
    “~人”というステレオタイプな視点、つまり、ナショナリズム的視点では、太平洋戦争の”英霊”に感謝するにせよ、否定するにせよ、大きな違いは無いように感じます。

  11. 島 憲治 より:

    昔は自分の意見を述べる機会は、新聞、雑誌、テレビ等限られていた。従って書く人述べる人も限られていた。しかし、現在は違う。自分の意見を自分の空間のみで表明できるのだ。利便さとリスクは表裏一体である。        向井理氏の文章を読んで感じた。狂ってはいない。素朴なのか、ナイブなのか。情緒的なのか。「思考停止」に陥っていることだけは確かな様だ。 人気度に溺れ脇が甘くなっているとしたら哀れみを覚える。
     彼の文章、それに対するコメント、観覧席で見ている野球観戦に似ているのだ。民主主義の構造は主権者は観客ではない。グランドの中でプレーするプレイヤーなのだ。グランドで真剣にプレーをしようとすればいろんな困難にぶつかる。その積み重ねが教訓となり複眼的視点を高めるのだ。               ところが、一般人と違い彼にはとても高い壁が立ちはだかる。それは彼の人気度だ。しかし、 現実は、「素朴な感謝」を政治的に利用しようとしている人達が蠢いている。その人達に利用され本望と思うなら、既述はゴミであろう。

  12. penko0900 より:

    どうしたらいいのでしょうか。戦後教育の敗北ですかね。まやかしの民主主義の結果でしょうか。311はいろんなものを焙りだしてくれましたが、みごとに騙されたままの方たちが戦争の本質も見ずに英霊に感謝している現実。そもそも英霊って…。岡田准一じゃ飽き足らず次は向井理かい。殺すな!殺されるな!

  13. ひらやん より:

    終戦から70年となる来年の夏に向けて
    日本ではおそらくテレビや新聞、雑誌など
    各メディアで大きな特集を組むのでしょう。
    いろいろな映画やドラマなども
    新たに作られ、過去の名作と言われる作品も
    数多くテレビで放送されることと思います。

    僕の考えは極端過ぎるかもしれませんが
    「戦争」を題材にした映画などは
    一切観ないことにしています。
    自分なりに考えあってのことです。
    戦争映画を観ることで
    自分の中にどんなものが育つのか
    を考えてみたのです。
    「戦時中はお国のためにと
    自分が望まぬことを強要される」
    「戦争に加担しないとなれば
    非国民呼ばわりされる」
    「戦争は悲惨なものだから
    なんとしても避けねばならない」
    ということで戦争にならぬよう
    と考えるようになると思います。
    それはとても大事なことで例えば親御さんが
    子どもと一緒に戦争映画を観よう
    と考える理由になったりするのだと思います。

    しかし同時に自分の中に
    「戦時中は言論、行動が制限される」
    「戦時中はわがままなことは言えない、出来ない」
    「戦時中は何よりも戦争のことが優先される」
    というような観念がしっかりと育っていってしまうと
    もし本当に戦争に突入してしまったりすると
    「もう何を言っても、何をやっても
    仕方がない、お手上げだ」という考え方しか
    出来なくなるのではないかと思うのです。
    つまり必要以上に戦争映画を観ることで
    「戦争にならないようにしようという考え」と同時に
    「戦争が始まったらどうしようもないという考え」
    もしっかりと植え付けられてしまうだろうと思うのです。
    「戦争にならないようにしようという考え」は
    もう僕の中にありますから
    これからは戦争映画を観ないほうがいいだろう
    と考えるに至ったわけです。

    自分が望まないものを否定するための映画よりも
    自分が目指したいと思うような
    世界を描いたような映画を観ていきたい。
    という表現もできると思います。
    今回の文章では多用していますが
    「戦争」という言葉を使うことも
    ふだんはなるべくしないよう心がけています。
    「戦争」という概念そのものが忘れ去られていく
    僕はそういうことを目指したいと思っています。
    「そういうことは危険だ、決して忘れてはいけない」
    と考える方も多いと思います。
    確かに今までの世界を見てみれば
    国や地域単位での争いごとが絶えたことはなく
    いつも世界のどこかで人々は争い続けてきました。
    ですから僕もまだ忘れてはいけない段階だと思っています。
    ですがいつまでもそんな悲しむべき世界で
    あり続けて欲しくないと思うのです。
    「昔は戦争というものがあってとても強力な武器を使って
    お互いに殺しあってものごとを治めていた
    そんな野蛮な時代もあったんだ」
    と歴史の授業で習ってもどんな状況なのかを
    想像もできない、それくらい「力」によって
    ものごとを運ぼうとすることが
    おかしなことだという世界に
    「理」によってものごとが治まっていく
    そんな世界にしていきたいと願っています。
    忘れ去ってしまっても良いのは早くても
    数世代くらい後でしょうか。
    でもそんな時代が来ることを描いて
    「語り継ぐ」というようなことは
    あえてしないという道を選んでいきたいと
    僕は考えています。

  14. 島 憲治 より:

    主権者教育を軽るんじてきたツケが廻ってきた。記事を読んでそんな感を強くした。外国の著名人が「日本人は自己批判を知らない。あるのは自己愛、つまり、ナルシズムだけである」と指摘する。民主主義に欠かせない批判精神が培われていないのだ。
      私たちは過去からしか学べない。過去の歴史を学ぶのは現在を理解するためである。したがって、過去の検証が弱ければ、現在の立ち位置も弱い。ふわ~と立っている感じだ。 加えて、空気を読んで生きている人達が蔓延している。つまり、「思考停止」状態の光景が広がっているのだ。国家権力をもってしてはいとも簡単に飲み込める対象なのだ。「素朴な『感謝』がファシズムを支えるとき」。想田さんの想像力をもってしては当たり前の視点だろう。
      私は向井理氏を全く知らない。そういう年代でもある。 しかし、彼の発言力の大きさは分かった。彼もそれを知っての発言であろう。政治を動かしているのは政治家でもなく、経済界でもない。実は素朴な発言に素朴に共感する多くの人達かも知れない。だとすれば、この構造はとても危険だ。「思考停止」状態だからだ。そして、そこには「排除の論理」というマグマが潜んでいる。つまり、民主主義の前提を崩してしまうのだ。               戦争は音を立てないでやってくるという。ところが、昨今では大きな音を立ててやってくる気配を感じる。                                 

  15. かまどがま より:

    『永遠の0』で感動したのなら『戦艦大和の最期』吉田満著をお勧めします。敗戦色の濃くなった時、中途で学業を放棄させられ大和の乗組員となった学生士官たちの議論の中で、自分たちの死をもって日本が過ちに気付き生まれ変われるとしたらそこに価値を見出そうではないか、という意味の発言があります。彼らの死を犬死でなくするのは、靖国に祭る事ではなく、同じ過ちを犯さないという徹底的な歴史の教訓にする事なのです。

  16. 島 憲治 より:

    コメントの中に「想田さんの今回の寄稿を、もし向井氏が目を通したとしたら、それに返答するか否かは置いといて、向井氏はかなり厳しい批評を下すだろうと推察する。」という件を見た。                        私は向井理個人には関心がない。ただ、4400のコメント、ほとんどが肯定的なコメントが多いというその影響力に関心はある。その意味で誤解を避けるため是非厳しい反論をして欲しい。そして、その内容が仮にマガジン9の趣旨に相反するものであっても掲載して欲しい。
     私には、想田さんの論調は個人攻撃には映らなかった。歴史の教訓を淡々と語っているに過ぎないと映った。しかも鋭い視点で。 個人攻撃はマガジン9のスタンスではない筈だ。名が表すとおり「平和的生存権」の実現にあると理解している。だから、「個人攻撃」だと読者から見られないよう気を配り投稿している。

  17. 橋本忠雄 より:

    ナイーヴであることは、罪なのである。まさしくその通りです そういう無邪気さが 戦争遂行勢力には とても好都合なのです

  18. Masao Takai より:

    戦後世代の物語の作り方
    私の父は予科練の最後の17期生。15歳で入隊して16歳で敗戦。1年で二階級上がり除隊。この後、劇的にサヨクになるとか、「特攻」の美談でも語り生きれば、まだ物語りになるのですが、何しろ練習機も無いので飛行時間は「永遠のゼロ」。戦後は、地方公務員でそこそこ出世して、逝きました。その間、本当に何も語らなかった。バアちゃんも含めて、末っ子で優秀だった父が帰ってきたので、家族は大喜び。ただ、戦死した方も多かったので、誰も予科練について語らずでした。当人が寡黙なのだから、家族は、父が田舎の秀才であったこと以外のことは話題にならない。ナイーブであることは罪とは、私も理解します。しかし、旧制中学で数学ができてスポーツが得意で小柄だった少年が、予科練を受験するのは、当然の成り行きだったとも考えます。私は、あの時代を生きた多くの家族は、実はこんなものだったと思っています。「特攻」美談(感傷)の根拠とは、多くの場合、戦争によって物語を喪失した家族、あるいは、戦後を生きるための家族の作り上げた世間向きの物語です。美談の虚構は理屈で批判できますが、個々の物語に理屈で対抗しても限界があります。生きて帰ってきて良かった。死なれて家族がどれ程に辛かったかという本音の物語が、対抗されるべきだと考えています。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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