映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第9回

隣の国の映画祭に思うこと

 中国の、とある小さな映画祭に来ている。学生時代に生まれて初めて作った劇映画『ニューヨークの夜』から、観察映画『演劇1』『演劇2』までの僕の全9作品が特集上映される。作家としては光栄の極みである。

 「とある」などといつになく曖昧に書いたのは、ここでその名を明示することが、もしかしたら映画祭に迷惑をかけるのではないかと恐れたからである。いや、明示しなくても調べれば分かることだから、どのみち一定の危険を冒すことには違いないのであるが。

 中国の映画祭には、大きく分けて、政府のお墨付きを得た公式の映画祭と、非公式でインディペンデントな映画祭とがある。前者では、政府による検閲を通過したメインストリームな映画が上映され、後者では、そうではない映画が主に上映される。

 僕が参加している「とある映画祭」は、僕の映画を特集するくらいだし、基本的には後者に属する。今年で第5回目。「本物のシネマを上映したい」(プログラマーの弁)と情熱を傾ける20代の若い人たちが運営している、文字通り若い映画祭である。

 彼らの情熱は地元の観客にも敏感に伝わっているようで、今年はチケットを売り出してから12時間ほどで全上映がほぼ完売したという。

 ところが、だ。

 その後、メインの会場となる映画館3館が、突然使えなくなった。映画祭の開幕を約1週間後に控えた時点での事件である。使えなくなった理由は、ここには書けない。賢明な読者ならだいたいは想像がつくであろう。

 もしこれが日本での出来事であったなら、僕はこんな奥歯にモノがはさまったような書き方はしない。日比谷図書館での『選挙』上映中止問題のときと同様、公明正大に堂々と物申すまでだ。事実、あの一件ではそれが効を奏し、新聞でも大きく取り上げられ、上映は大成功した。日本国憲法で保障された言論・表現の自由が、大きな力を発揮した。

 だが、ここは中国である。

 この連載第1回目でも触れたが、この国の憲法では言論や表現の自由が完全には保障されていない。閲覧の自由もない。

 僕は今この原稿を書くために、過去の事例を調べようと「中国」「映画祭」「中止」などのキーワードでネット検索をかけてみたが、見事に当該記事は表示がブロックされている。ツイッターも、フェイスブックも、ユーチューブも閲覧・投稿できない。「ニューヨーク・タイムズ」電子版も読めない(日本の新聞の電子版はなぜか読めるが、それはいったい何を意味するのか?)。この文章はEメールで日本の編集者に送られるわけだが、それが検閲されないとは断言できない。今僕は、言論や表現の自由が不十分で、権力による検閲が許されている中で表現活動をするということが、いったいどういうことを意味するのか、身を以て体験しつつある。

 映画祭のスタッフたちは、上映会場を突然失ってもめげなかった。急遽会場を芸術センターのホールに移して映画祭を実行することにした。3日間徹夜でスクリーンや暗幕を張り、パイプ椅子を並べた。凄い精神力と粘りである。僕はコンペ部門の審査員も兼ねているのでノミネート作品を見続けているのだが、作品のレベルも驚くほど高い。

 とはいえ、急ごしらえの会場なので、上映環境として最適とはいえない。それは主催者たちも気にしていて、プロジェクターを3回も交換しながら最善の環境を整えようとした。だが、芸術センターは市街地から車で4、50分も離れた郊外にある。映画祭は観客のためにシャトルバスを用意したが、それでも客足は深刻なまでに落ち込んだ。そのことを主催者たちは最も悔しがっていた。人がまばらな会場を眺めながら涙を流すスタッフもいた。無理もない。1年間、手塩にかけて準備してきた映画祭なのだ。自分の作品の観客が減ってしまった僕も、正直、砂を噛むような思いだ。

 映画祭そのものが禁止されなかったのは、不幸中の幸いである。事実、近年になって中国の独立系映画祭は次々に中止・閉鎖されている。だから来年も「とある映画祭」が開催できるのかどうか、現時点では誰にも分からない。いや、現時点どころか、映画祭が始まった後でさえも、いつでも中止され得るのだ。

 映画祭に参加した、ある中国の映画人が自嘲的に言った。

 「中国にインディペンデント映画はない。プロパガンダ映画と商業映画以外に存在するのは、地下に潜った“アンダーグラウンド映画”だけだ」

 僕はここに来る直前まで、山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加していた。世界的にも重要な映画祭に成長したヤマガタだが、2006年に山形市から独立してNPO法人が運営主体となって以来、資金難に悩まされていると聞く。それはそれで由々しきことであるし、いつまで映画祭が継続できるのか心配になったりもするが、少なくとも開幕間際に禁止されたりはしない。それはやはり、日本国憲法第21条によって守られているからなのだ、今のところ。日本のマスメディアも有形無形の圧力を受けて情報統制されていることは疑いないし、そういう意味では中国の状況と五十歩百歩だが、言論と表現を守る最後の砦として日本国憲法があることは、相当な違いでもあるのだ。

 とはいえ、その大事な憲法も、決して安泰ではない。

 いや、この連載でも度々指摘してきたように、かなり現実的な危険に晒されている。

 今や両院をコントロール下に置く安倍政権は、第21条で保障された言論・表現の自由を、中国のそれと同程度に制約することを望んでいる。少なくとも、そういう意志を持った人たちが、我が祖国の最高権力を握っている。

 事実、憲法を変えるためのハードルが高いことを知っている彼らは、あの手この手で、憲法を骨抜きにしようと頑張っている。すでに閣議決定され、この秋の国会で通ってしまいそうな「特定秘密保護法案」などが、そういう画策の一環であることは確実だ。

 今僕が隣の国で目撃していることは、決して他人事ではないのである。

 

  

※コメントは承認制です。
第9回 隣の国の映画祭に思うこと」 に4件のコメント

  1. magazine9 より:

    想田監督の中国滞在中に書いていただいた原稿、更新日のタイミングで本日の掲載となりました。秘密保護法制定などに向けた動きが加速する一方の現状を見ていると、隣の国の出来事は、もしかして近い未来の私たちの国の姿なのかも? と、ゾッとするような思いに襲われます。

  2. KUROKO より:

    軍隊を持ちなおかつ徴兵制を施行している超軍事国家の韓国といい、言論の自由のない中国といい、
    安倍さんは、こんな近隣国の真似をしようとしているのでしょうか?

  3. くろとり より:

    これまでの日本が平和ボケ過ぎたのです。
    日本の周りの国々がもっと平和な国々なら平和ボケしていても問題ないのでしょうが、日本の周りには危険な国が多すぎます。
    安倍総理はそのような危険な国々に囲まれている状況の中で日本を普通の国にしようとしているだけです。
    それを危険な周辺諸国と一緒にするのはあからさまに間違えています。
    いつまでスパイ天国のままでいるつもりなのですか?

  4. いぶし丼 より:

    ■■■■さん、■■がないのは■■だけど、さすがにそれは■■■■だろう。もし本当に■■が■■■■■なら■の■が■■■なるよ(笑)

    ■はこの■をよその■と■■にしたいのかも知れないが、俺は■■を■■の■にはしたくない。■■でいいなら■■じゃなくても良いでしょ。それこそ先の■■で■■■になれば良かったじゃない。

    今日が■■なら明日はもう■■■■。常に■■以上を望まなければ■■の人々に■■■がたたない。

    と俺は思うんだが。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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