ホームへ
もくじへ
この人に聞きたい
バックナンバー一覧

半藤一利さんに聞いた
私の「戦中・終戦直後史」
半藤さんの著書を読む経験によって、歴史を知り、当時のことを
想像してみることの面白さに開眼した読者も多いのではないでしょうか?
 まずは、半藤さんご自身の「戦争体験と終戦直後の思い出」についてお聞きしました。
半藤一利さん
はんどうかずとし 作家・昭和史研究家
1930年東京向島生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。
著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、
『昭和史1926−1945』『昭和史 戦後篇1945−1989』(以上平凡社)、
『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。
終戦の日、俺の人生これで終わりか。
なんだかバカバカしいなと思った
編集部  1945年、日本が戦争に負けた年、半藤さんは確か15歳でいらっしゃいましたね。そのときは、どちらにおられたんですか?
半藤  新潟県の長岡市です。生まれは、東京の向島なんですが、疎開していて、そこで長岡中学に入りましてね。で、敗戦のときは中学3年で、勤労動員ですよ。津上製作所という軍需工場でしたね。
編集部  そこで何をお作りになっていたんですか?
半藤  ネジでしたね。あれは、何のネジだったのかなあ。なんか爆弾のネジだときいていたんですが、とても大きなネジでねえ。それを、旋盤で研ぐんです。私は、地元のヤツらと組まされてたんですが、コイツらが長岡中学の悪党3人組でね、僕が疎開だっていうもんだから、みんな私に押し付けやがってね、あはは。連中は何もしないで、僕だけが一日中働いてるの。
編集部  8月15日というのは、とてもいい天気だったと聞いているんですが、長岡もやっぱり。
半藤  そう、いい天気でしたね、本当にいい天気。
編集部  天皇の放送、いわゆる玉音放送ですか、それをお聞きになったときは、どう思われました?
半藤  なんだかよく聞き取れなかったんですが、聞いた瞬間、ああ、負けたんだな、ということはすぐに分かりましたね。終わってから、多分、和田信賢アナウンサーだったと思うんですが、彼が「謹んで読み上げます」と丁寧にもう一度読み上げたんです。そこまで聞かなくても、もう分かってはいましたけどね。
  全部聞き終わってから解散になったんですが、そのワル3人が「もうこれで、俺たちの人生は終わりだ、アメリカが来て俺たちはみんな奴隷にされるんだから」って。それで「南の国へ送られてしまうから、今のうちにいい事しようじゃねえか」と言うから「何すんだ?」ってたら、「タバコ吸おう」って。ははは、かわいいもんです。それで、防空壕に入りましてね、生まれて初めてタバコ吸いましたよ、僕は。
編集部  まじめな中学生だったんですね。
半藤  まあ、まじめなほうだったでしょうね。そのタバコがとても不味かったのは覚えてるなあ。で、それが終わって「次は何だ?」「もちろん女だ」なんて。あははは。そんなにうまくいくかあ。そんな風で、あまり深刻ではありませんでしたね。ただね、ああ、これで終わりなのかと、なんかバカバカしいなとは思いました。
編集部  バカバカしい?
半藤  そう、あれは一体なんだったのか、という感じですね。私は向島で東京大空襲を受けてます。もう周りすべてが火の海。悲惨でしたね。でもね、それより最初の疎開先の茨城県下妻というところで受けた銃撃が怖かったですねえ。下妻中学に入っててやっぱり勤労動員で、日立製作所の学校工場でネジ作ってました。このころはもう、やたらと敵の飛行機、P51ですが、こいつが上空を飛びまわってるんです。しかし、戦争というのはヘンなもんですよ。そんな中でもノンビリと魚釣りなんかに行ってるんです。近所のおじさんと二人で、小貝川の土手を釣竿かついで歩いてたら、そのP51が2機、まっすぐこっちへ向かってきて、ダダダダッッと撃ってきた。思わず腰を抜かしましたね、こっちはまだ中学生だし。この間『硫黄島からの手紙』って映画観たんですが、まさにあの通りですよ。真正面から狙って撃ってくる。

編集部  そんな田舎町の中学生まで狙われるような状況----。
半藤  もうこれはいけねえや、と思いましたね。でね、ここで僕が助かったのはほんの偶然。世の中に絶対なんてもんはないんだ。だから、俺はこれからは「絶対」なんて言葉は使わねえぞ、と思いました。「日本は絶対勝つ」とか「絶対日本は正しい」、「俺の家は絶対に焼けない」なんて事はありえない。それが、このころ私が抱いた一番の感想だったんじゃないかなあ。だから今でも、右でも左でも「ナントカは絶対正しい」とか言うのを聞くと、ふん、と鼻で笑いたくなるんですね、私は。

編集部  日本が負けたということが分かって虚脱状態に陥るとか、それまで軍国少年だったのがコロッと変わってしまった、などという話をよく聞きますが、半藤さんの場合はいかがだったんですか?
半藤  まあ私は、勤労動員行ってたときも、2年上の女学生と工場の裏でラブシーンやってたりしてたからなあ。それを先輩に見つかって、物凄い勢いで何度もぶん殴られたり。軍国少年じゃなかったでしょうね。どちらかというと、非国民扱いされてましたから。だから、ショックで茫然自失なんてことはなかった。私はさっきも話したように東京で大空襲も体験してますし、たくさんの人たちが目の前で焼け死んでいくのを、この目で見てるんですよ。それを僕らは助けられない。軍だって国民を助けるなんてことはしない。むしろ、軍がなんでもない無辜の民を殺す、そういうのを身に沁みて感じていたから、厭戦---じゃなかったけど、でも、反軍的な気持ちは確かにありましたね。

編集部  では、戦争が終わってホッとしたというか、喜んだというか。
半藤  あんまりそうは感じなかった。ただ、ああこれで俺の人生は終わりなんだ、という風に。15歳だから、兵学校へ行くとか士官学校へ進むとか言う連中もいたけど、僕は兵隊なんかに行くつもりはまるでなかったし。まあ、徴兵されれば仕方ないかという諦めはありましたけど。なんだかすべてチャラという感じで、妙に何もかもたいしたことはないんだ、もう終わりなんだから、そんな風に思っていたんじゃないかなあ。

編集部  虚脱感みたいなものなんでしょうか?
半藤  そう言えるかもしれないね。まあ、どうせ南の島かカリフォルニアあたりに送られて、アメリカの奴隷になるんだろうな、なんて考えてましたから。それを、家に帰って親父に言ったら「バカモン、何考えてんだ、お前は。日本の男どもをみんな船で連れてくのにどれだけ金がかかると思ってんだ、そんなことアメリカがやるはずねえじゃねえか、バカ」ってね。まあ、私はそんな程度の中学生だったわけですよ。

マッカーサーと共にやってきた「五大改革」
編集部  敗戦間もない昭和20(1945)年8月30日、マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ちます。「そんな中学生」だった半藤少年は、マッカーサーをどう思っていたんでしょう。
半藤  いやあ、なにしろカッコいいと思いましたね。丸腰にサングラス、コーンパイプをくわえて悠々とタラップから降りてくる写真が新聞にドーンと載ったわけですから。軍人らしい軍人だなあ、と。

編集部  そのマッカーサーが、矢継ぎ早に布告を出しましたね。
半藤  そうですね。まず、9月11日に連合国軍総司令部(GHQ=General Headquarters)から、主要戦犯容疑者39人の逮捕指令が出されました。22日には軍国主義的・超国家主義的教育の禁止、これによっていわゆる教科書の「墨塗り」が始まります。続いて29日には検閲制度の廃止、そして10月11日には「5大改革」というのが発表されます。

編集部  その5大改革の中身とは、どんなものだったのでしょう?
半藤  それはね、【1】婦人解放 【2】労働者の団結権(労働組合の結成奨励) 【3】教育の民主化 【4】秘密審問司法制度撤廃(つまり、特高=特別高等警察などという公安秘密警察制度の廃止) 【5】経済機構の民主化(財閥解体)などといったものですね。

編集部  そういう改革の流れの一環として「憲法」があったと理解していいんでしょうか。
半藤  よろしいんじゃないでしょうか。だけど、その5大改革の前に「皇室問題」があるんですね。まあ、皇室というより天皇個人をどうするのかというのが、当時の日本でもアメリカでも最大の難問だったわけです。この難問に対してどう答えを出すか、というものとして新憲法の問題があったと考えたほうがいいと思いますね、私は。

編集部  つまり、天皇の地位をどう新憲法に規定するか、ということですね。それが「象徴」ということで落ち着いて、昭和22(1947)年に日本国憲法が発布されます。それを、当時17歳の半藤さんはどのように受け止められたのでしょう?
終戦直後、ほとんどの国民はGHQ案を支持したと思う
半藤  率直に言って、憲法の前文、九条を読んだときには、本当にこれで日本は良い国になると思いましたね。戦争をもうやらない国なんだ、ということは、新しい日本の生き方だと心底思いました。

編集部  周りの友だちの反応はどうだったですか?
半藤  どうだったんでしょうね。今になると、はっきり分かれますよね。「あれは良いものだ」という者と「あんなモンだめだ」という者と。戦争体験なんて簡単に言いますけど、同じ戦争の中にいたって、場所によって違います。感じてない人はまったく感じてない。まったく無自覚な人間もいるわけだから。

編集部  戦争の中にいても感じない?
半藤  そう。私なんか子どもだったけど、戦争体験、いやっていうほど持ってますよ。そういう戦争体験をたくさん持っている人は、たいてい今でも「日本国憲法は良い憲法だ」と言います。ところが、安穏と暮らして戦争について何も考えなかった人たちは違うんだな。それからね、軍隊に行ったからって戦争体験じゃないんですよ。

編集部  軍隊と戦争体験は違う、と?
半藤  そう。僕に言わせれば、ある種の軍隊は一番安全なんだ。メシはちゃんと食えるし防空壕は完備してるし、武器だって持ってる。都会で空襲に晒されていた一般市民よりよっぽど安全なんだ。例えば占領後のシンガポールなんかでノンビリしてた将校や下士官なんて、戦争体験なんかまるでしてないでしょ。とにかく、場所によるってことだけど。

編集部  場所や部署や地位によっては、軍隊は楽なところだったんですね。
半藤  過酷な体験なんか一つもしないで、軍隊暮らしを満喫したようなヤツに限ってバカなことを言うんだ。「憲法改正」だとか「アメリカから貰った憲法だ」とか言うヤツをよく見ると、不思議はないんだね。恐ろしさも悲惨さも感じてないんだから。私なんか、子どものころは物凄くいい憲法だと思っていましたからね。そういうのを読んだり聞いたりすると、すごく腹が立つんですよ。

編集部  そういう話を、お友だちとはしなかったんですか?
半藤  中学生のとき? うん、あまり喋った記憶がない。でもね、長岡だって空襲で随分やられてて、同級生で一家全滅で自分だけ生き残ったとか、そういうのたくさんいましたから、話はあまりしなかったと思うけど、私も周りの人も含めて、新しい憲法に対して不快感を持った人なんていなかったんじゃないかなあ。

編集部  一般国民は圧倒的に新憲法を歓迎していた、と。
半藤  そう思うなあ。日本政府はGHQにせかされて「松本烝治案」という憲法案を提出します。これがとんでもない代物で、明治憲法とほとんど変わっていない。この草案をウチの親父が新聞で読んで「何だこりゃ、前の憲法と何も変わってねえじゃねえか」と怒ってましたね。「万世一系の天皇をいただく我が大日本帝国は不敗の国」なんてのを、このときの政府の連中はまだ後生大事に持ち続けていたんですね。もしもこのとき、業を煮やしたマッカーサーが「松本案」と「GHQ案」を両方国民に示してどちらを選ぶかを問うたら、国民は圧倒的にGHQ案を支持したと思いますね。そういう平和への想いが満ちてましたから。

つづく・・・
テンポ良い話口調とその該博な知識に
どんどん引き込まれていった『昭和史』でしたが、
インタビューもさながら、そんな感じでした。
半藤さん自身のご経験、実感でもあった
「GHQ案は、当時の日本国民にとって押し付けではなく、歓迎していた」
という話も興味深いものでした。
次回、さらに聞いていきます。お楽しみに!

  
ご意見募集!

ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せください。
このページのアタマへ