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この人に聞きたい
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小山内美江子さんに聞いた

平和をつくる活動が世代をこえ、国境をこえる
国内外でのボランティア活動を通し、多くのことを学んだという小山内さん。
国際貢献や9条について、ご自身の体験から伺いました。
小山内美江子さん
小山内美江子 おさない・みえこ
1930年神奈川県横浜市に生まれる。神奈川県立鶴見高等女学校卒業。
1951年東京スクリプター協会会員として映画制作に参加後、1962年にNHKテレビ指定席「残りの幸福」にてシナリオライターとしてデビューする。
1990年ボランティア活動に取り組み始め、執筆の傍ら「JHP・学校をつくる会」「JHP・学校をつくる会」代表を務める。
日本シナリオ作家協会会員。NHK厚生文化事業団理事。熱海国際交流協会会長。
代表作/TBS「3年B組金八先生」「加奈子」「父母の誤算シリーズ」、NHK「翔ぶが如く」「徳川家康」「マー姉ちゃん」「主夫物語」など
主な著作/「ヨルダン難民救援への旅」(岩波ジュニア新書)【1992年文芸大賞受賞】、「『3年B組金八先生』シリーズ」(24冊)(高文研)、「カンボジアから大震災神戸へ」(旬報社)、「メコンに輝け桜小学校」(佼成出版社)、「できることからはじめよう」(講談社)、「『ボス』と慕われた教師」(岩波書店)、「『赤い靴』の女たち」(集英社be文庫)「25年目の卒業 さようなら私の金八先生」(講談社)など多数。
こんな顔でよかったら見てください!
編集部  小山内さんは、ボランティア活動を続けられて今年で17年ということですが、そもそも始められたきっかけは何だったのですか?
小山内  1990年という年は、私にとって一つの転機でした。二度目のNHK 大河ドラマ『翔ぶが如く』を書き終え、91歳の母を看取り、そして湾岸危機が発生しました。テレビでは、ゲームのようにミサイルが飛び交うシーンが映し出され、現実味が薄かったですが、その下を逃げまどい、血を流す人々のことをやはり考えないわけにはいきませんでした。
編集部  その時の日本は、多国籍軍に自衛隊派遣はせずに、経済的な貢献に終始しましたが、それに対する世界の批判にもさらされましたね。
小山内  「お金だけ出して血も汗も流さない日本」、そう非難され、世論も騒然となりました。私はその言葉を聞いて、なんだか自分のことを言われているような気がして。血は流させるのも流すのもいやだけれど、汗なら流せる。自分が何かできるとは思ってなかったんですが、たまたま民間ボランティアとして現地で活動している日本人がいるということを知って、私も是非やってみよう、こんな日本人の顔で良かったら、見て!という気持ちでヨルダンまで出かけて行ったの。母を無事看取ったし、息子も成人した。よし、あとは、自分がやりたいことにお金を使おうと決心してね。

 その時に訪れたヨルダンの難民キャンプで、キャンプを管理する現地のエリートに「戦争をしないというあなたの国の憲法は素晴らしいし、日本人は賢い。軍備にお金を使わずに経済に使ったから、あんなに豊かな国になったんだろう」と言われたんです。その後も、行く先々で同じことを言われて、胸を張っていたんですけれど……。
編集部  この10年で、憲法はありえないほど拡大解釈され、日本はイラクの戦闘地域へ自衛隊を派遣し、そして、自衛隊を自衛軍にする憲法改正草案を、自民党は作っています。
小山内  悲しいわね。拡大解釈にしろ、改憲にしろ、自衛隊が軍になり、集団的自衛権を持つことになったら、どうなるか? 国民に十分な説明も議論もないまま進んでしまうことは、絶対にしてほしくないことです。
15才で終戦を迎えたボランティア仲間たち
編集部  戦争体験者としての心痛もおありかと思います。
小山内  90年にボランティア活動を始めた時に仲間になってもらった画家の平山郁夫さん、俳優の二谷英明さん、そして私も昭和5年生まれなの。他にも有志のみんなが偶然、15歳で敗戦を迎えているのね。
 私たちはみんな軍国教育を受け、軍国少年、少女で、工場動員され兵器を作り、間接的にあの戦争に荷担してきたわけです。15歳の子どもたちが責任をとりきれるはずはないのだけれど、生き残ってきた人間は、やはりどこか後ろめたさとして残っている。

 平山先生は15歳のときに原爆を経験していて、島に逃げて生き延びたけれども、そのときの恐怖は残っている。先生が今アートで世界平和に貢献しようと提唱してらっしゃるのもやはり、そういった体験からでしょう。

 戦時中、私の家は食料品製造を家業としていたので、親が物々交換してくれて、決定的なひもじさはありませんでした。もっとたくさん食べたいという思いはあったけれど、ほんとの飢えは知りません。それが私の後ろめたさなんです。14歳で工場動員されて、家も焼かれて、自分たちの時代が一番ひどい目にあったと思っていたんだけど、仕事で出会った私より3歳若い女性プロデューサーから、学童疎開した時の話を聞いたんです。そしたら親が送ってくるエビオス(*消化剤のこと)まで口にしたっていうわけ。お手玉の小豆を口に入れてやわらかくして食べた、とかね。疎開で親と離れ淋しいし、頭はしらみだらけになっちゃうしと。
 私なんかより、ずっとひどい世代や体験があったんだって、その時初めて気がついて、ますます後ろめたかったものです。
 金八先生の教え子たちを15歳にしたのは、こんな理由からでもあるんです。

編集部  思春期のただ中で迎えた敗戦は、大きな傷として残っているということでしょうか。
小山内  8月15日の敗戦を知らされた時は、負けると思ってなかったらから呆然としたけれど、ああ、これでもう焼き殺されることはないんだという安心感があった。私たちはみんな疲れ果てていたんです。
 どれだけの人が死んでいったか、老いた母は若い兵士となった息子が亡くなってどれだけ泣いたか、子どもは、自分をかばって機銃掃射を受けて死んだ母親を見てどれほど傷ついたか……それらを実際見てきたし、知っている。だからこそ、9条を大事にしたいという気持ちも強いの。

編集部  戦争を経験していない今の子どもたちには、当時の惨状は単なる昔話になってしまっているのかもしれません。
小山内  戦争について、平和についてちゃんと伝えてこなかったということは、私たち世代も反省すべきですね。でも、子どもが興味を持つように、上手にやらないとね。
 例えば、うちは毎年4月15日と8月15日には、すいとん(*小麦粉で練っただんごを入れた汁もの)を食べるんです。4月15日は、空襲で私の家が焼けた日です。8月15日は終戦の日よね。
 この習慣は、私の息子が幼稚園の時から、大人になってもずーっと続けていることです。遠くに住んでいる弟には、前日に「明日はすいとんの日よ」って必ず連絡します。すると彼は「わかっているよ」と言って、すいとんを食べています。
 何故すいとんかっていうと、家が焼けた翌日に食べたものが、すいとんだったからなんです。そうやって当時のことを忘れないように、すいとんをきっかけに、戦争の話をするようにしているのです。食べ物を糸口にして興味や質問も出て、それに答えることで、自然に伝えていけるでしょう。でもそういうことができるのって、もう私たちぐらいが最後かなと思うのね。だからこそ、今、うんと言っとかないと!

日本人は“戦争をしたくない遺伝子”を持っている
編集部  憲法9条について言うと、そういった戦争体験者が少なくなってきたことに加えて、北朝鮮の核問題や中国脅威論などを背景に改憲論が進もうとしていますが、これについてはどうお考えですか?
小山内  前回、ヨルダンの難民キャンプで「あなたの国の憲法は素晴らしい」と言われた話をしましたが、9条を持つ日本には、世界の平和を目指す灯火になってほしいという気持ちが世界にはあるんです。『9条を世界遺産に』って本がベストセラーになってますが、本当にいい言葉だと思いますよ。だからこれをアジアにも、もっと広めないと。
 そう言うと、日本はやられっぱなしで黙っているのか、それは理想主義だと言われるの。でもね、私は83年に「徳川家康」、90年に「翔ぶが如く」と、ふたつの大河ドラマのシナリオを担当したんですが、その時いろいろな文献を調べていくうちに、私なりの結論に達したんです。それは、日本人は戦争や殺し合いには、まったく向かない遺伝子を持っているんだってことですよ。ちょっと変だと言われそうだけど(笑)

 中世は戦乱の時代でしたが、その後270年続いた江戸時代の間、内戦は島原の乱だけなんです。外国とも戦ってない。そういう国は日本以外にないんです。そしてその間、封建制度はあったけれども、日本独自のすごい文化が花開き、成熟しました。江戸時代が終わり、明治、大正、昭和になり、また戦争をしてしまうけれど、太平洋戦争後61年間、まだ戦争はないですよね。これは、元々争いたくないんですよ、きっと(笑)。

編集部  戦時中の記録や、検証されたものを読んでいくと、勇ましいことを言っていた指導者たちが、本当に局面で勇ましかったのか? という疑問も持ちます。戦いに向かないというのは、戦時中、司令部の作戦がめちゃくちゃだったということからも言えるかもしれません。
小山内  戦争とは報復だと思いますが、その感情はどんどんエスカレートしていくということを、9.11から始まる今回のイラク戦争で、私たちはまざまざと見てきました。どこかでそれをストップしないといけない。そして、それを本来人間は望まないんだと訴えていかないと。近隣諸国が核を持つなら、日本も核をという核抑止論なんて、ほんとうにあぶないと思います。

ボランティアは世代間の架け橋となる
編集部  現在小山内さんが代表を務め、また現場でも活動をしていらっしゃる「JHP・学校をつくる会」*では、様々な世代の方々が参加されていますね。
小山内  そうですね。現地に赴くのには長期休業を利用するので、やはり学生が多いですけどね。主婦や仕事をリタイアされた方などもいらっしゃいますよ。うちには、世代間の壁はないわね。
 活動は17年を経て、みなさんのご協力で、2006年までに172棟の学校を建てました。音楽と芸術教育にも力を入れていて、前回も少しお話したように、カンボジアでは音楽の教科書をつくりました。ヴァイオリニストの天満敦子さんのコンサートの収益を使わせていただいて。中古の楽器の寄付を呼びかけて、毎年2000台の鍵盤ハーモニカを現地に送ったりもしています。子どもたち、それはみんな喜びますよ。

編集部  実体験に基づいた小山内さんのお話は、胸に響きます。
小山内  伝えたいことは、面白く話さないとね。こういった体験を交えて訴えることで、ある程度のメッセージは伝わるということを感じていますよ。もう年だから世代交代したいところではありますが(笑)、周りもまだまだなんて言ってくださるから、まだしばらく、若者や様々な年代の人たちと頑張るつもりです。

「JHP・学校をつくる会」国際協力NGO
戦争や自然災害で教育の機会を奪われた世界の子ども達に、人種、国籍、宗教、その他の信条の違いにかかわらず広く教育等の援助を行い、また紛争や自然災害で被害を蒙った人々への救援活動と、これらの活動を通じて、次代を担う若者達への地球市民教育を実践することを目的としている。
ご自身の体験をもとに、積極的に語り、活動を続ける小山内さん。
そのパワーには、私たちも元気付けられます。
どうもありがとうございました!
  
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