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伊藤真のけんぽう手習い塾
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改憲を推し進めたい人は、
「なぜ護憲派は、改憲=戦争とすぐに言うのか?
改憲して軍隊を持ったからといって、
必ずしも戦争をするわけではない」と言います。
たしかに、憲法を変えたら戦争がすぐに
起こるという考え方は、一見短絡的にも見えます。
しかし、伊藤塾長は次のように反論しています。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

“改憲=戦争ではない”という改憲派への反論
9条を変えても軍事国家にはならないと言うけれど
  前回から、9条について書かせていただいています。戦争反対という考えを前提にしたとしても、9条を変えて軍隊を持つべきだという意見について、引き続き私なりの考えを述べさせていただくことにします。前回は、軍隊の本来の目的は、国民の生命や財産を守ることではない。このことは軍事の常識だということをお話しました。ですから、万が一、外国から攻められたときに私たちの命や財産を守ってもらうことを期待して軍隊を持とうというのは、まったくの筋違いであることがわかりました。

  今回は、「軍隊を持ったからといって、必ずしも戦争をするわけではないから大丈夫」という改憲派の考え方について論じてみましょう。

  およそ、物事を主張するときには、必要性と許容性という観点から説得することが有効です。法律的にものを考える人間はつい、この必要性と許容性から分析しようとしてしまいますが、けっこう役に立ちます。

  さて、この2つめの主張は、主に9条を変えても大丈夫だ、軍事国家になるわけじゃないから安心してよいというものです。これは許容性の観点からの主張です。そしてむしろ、アメリカに巻き込まれないために自衛隊の存在を軍隊として憲法の中に明記して「専守防衛に徹して海外における武力行使はできない」ということを憲法上明確にしておくべきだという、必要性を主張されるのだろうと推測されます。

  この必要性は、いわば憲法による歯止めをかけるために改憲するべきだというものであり、説得力のある主張だと思います。確かに現在は、憲法上は認められていない自衛隊という実質的な軍隊が存在してしまっていて、ずるずるとなし崩し的に自衛隊の活動領域を広げてしまっています。これはきわめて危険なことです。

  憲法は軍隊の存在を予定していないために、これをコントロールする方法について何も規定していません。存在しないはずのものが存在してしまい、しかもそれをコントロールする方法が憲法に規定されていないのですから、事実上野放し状態ではないか、これをしっかりとコントロールするために改憲するべきだという主張は、立憲主義に基づいたまっとうな主張であるように思われます。

  ですが、果たして許容性があるでしょうか。いくら必要性があったとしても、現実を考えた上での許容性がなければ実現できません。大好きな彼氏や彼女に会いたい、今、会わなくちゃいけないんだという必要性があったとしても、勉強や仕事で忙しくて会う時間がない、許容性がないから会えないよぉ、ということはいくらでもあります。

  さて、
軍隊を持ったからといって、憲法にしっかりとその活動の限界を明記しておけば、コントロールできるから、大丈夫。日本が侵略戦争を行ったり、アメリカの軍事戦略に巻き込まれたりはしないから安心といえるでしょうか。つまり本当に9条を変えることの許容性があるでしょうか。
自衛戦争と侵略戦争の区別はない
  軍隊を自衛のためにしか行使しないと憲法に明記すれば安心かを考えてみましょう。本当に侵略戦争に加担するおそれはないかということです。残念ながら、これまで人類は自衛戦争の名の下で多くの悲惨な失敗を繰り返してきました。

  日本もかつて、「国家政策の手段としての戦争」つまり侵略戦争を1928年の不戦条約によって放棄しておきながら、「満州事変」から「大東亜戦争」にいたる戦争を自衛の名の下に行ってきました。

  また、アメリカの行ったベトナム戦争も、旧ソ連のチェコスロバキア軍事介入もイギリスの中東のイエメン介入もみな集団的自衛権の名の下に行われてきました。自衛という名目がいかにいい加減なものかを私たちは思い知っているはずです。

  このことから、侵略戦争と自衛戦争の区別は意味をなさないというのが、歴史から得た教訓です。つまり、侵略戦争はしないと明記したところで、軍隊をもってしまえば、それに対する歯止めにはならないということです。
国際貢献という美名のもとで軍事力が行使されないために
  自衛のためという名目と同じくらい、思考停止に陥る危険のある言葉が、国際貢献です。
  人道のため、国際貢献に必要なことだからといって、軍隊を国外に派兵するようになると歯止めがきかなくなる危険性があります。軍事力による国際貢献というものが、本当にその国に対する貢献になっているのか、しっかりと検証する必要があります。今、コソボやアフガニスタンがどうなっているのか、しっかりと軍事的介入のその後の姿を知らなければなりません。

  そして何よりも、
非人道的な手段が人道的な目的によって正当化されることはありえないということを私たちは認識するべきではないでしょうか。人道的介入の名目の下で、何十万人という無防備の民間人を殺戮することへ、私は賛同することはできません。

  武器をもっていれば、戦力を持っていれば、どうしてもそれを正しい目的のためならいいではないかといって使いたくなってしまいます。国際貢献のためという美名の下で軍事力が行使されることを未然に防ごうというのが憲法の考え方です。

  また、軍隊を持つと軍人はどうしてもそれを使いたくなってしまいます。ほんとに効果があるのか実験したくなるのは人情です。これは仕方のないことでしょう。楽しそうなおもちゃを渡された子どもがそれで遊んじゃいけないよと言われて、我慢できるわけがないのと同じです。
正しい文民統制など幻想である
  もちろん、子どもと軍隊は違います。文民統制があるはずです。文民統制とは、軍隊を国会などの民主的政治過程によってコントロールしようという考えです。では、文民統制は有効に機能するのでしょうか。それは不可能だと考えます。

  文民統制が機能するためには、コントロールする側の有権者やその代表が、軍事に関する情報を正確に有していることが必要となりますが、軍事や防衛に関する情報をすべて公開してしまったら、それこそ国家の安全に関わります。よって、軍事情報は肝心なところは秘密にされることは確かです。

  与えられる情報が限定されているにもかかわらず、正しい判断が下せる保障があるのでしょうか。特に先のアメリカによるイラク攻撃のように、誤った情報を流されてしまったら、正しい文民統制など幻想にすぎないことがよくわかります。
自衛隊すらコントロールできない政治家、そして国民が軍隊をコントロールすることができると考えることは幻想にすぎません。よって、この点でも軍隊を持つことの許容性はないと考えます。

  そもそも、この主張の前提は、政治家などの権力者は新しい憲法を守ってくれるという前提に立っています。つまり、権力を信頼しているわけです。憲法で歯止めをかけておけば大丈夫ということは、権力者が憲法を守ってくれるという前提があっての話です。

  ですが、現在の憲法すら守れない人たちを信頼して、軍事力を与えられても憲法を守れるはずだから、その人たちに対する歯止めを緩やかにしてもかまわないというのは、すこし楽観的すぎるように思われます。

  実は、現在でも、
政治家を始めとした公務員に9条を守れというよりも、99条を守れという方が本質的です。問題の本質は、この国の政治家が、憲法を守ることが政治家の第1の任務だという立憲主義国家の常識を理解していないことにあります。憲法論を「神学論争」だといってバカにしたり、憲法による歯止めを「理解できない」といって無視したりするようでは、本来は政治家失格です。
今の憲法を守れない権力者が、憲法を変えても守れるはずがない
  しかし、この国はそのような政治家を圧倒的な多数で支持してしまう国なのです。民主国家のこわさがここにあります。そのような国において、政治家に対する歯止めをさらに緩める事は自殺行為にも等しいと考えます。

  勉強をさぼって宿題をため込んでしまっている子どもに、「今日は宿題やったの?」と聞いてみたら、「うん、明日やるから大丈夫」と答えられて、それを鵜呑みにして許してしまう、あま〜い親のようです。今日できないことが、明日、突然できるようになるわけがありません。

  繰り返しになりますが、今の憲法すら守れない政治家が、今以上に自己抑制が必要となる憲法を守れるはずがありません。憲法がはっきりと禁じていることを守れない人間が、もっと緩やかな規制になったら突然、守れるようになることはあり得ないと考えるのが常識的な判断だと思います。

  憲法の規定がどうなっていようと、日米同盟の必要性やら国際貢献などを持ち出して、軍隊を外国に出していくことを正当化しようとするでしょう。軍隊を持つことはその可能性を高めることになります。そのときに、よりはっきりと「それはできない」といえる憲法にしておくべきなのです。

  戦争そのものを否定し、戦力の保持そのものを禁止する憲法を持っておけば、あからさまにこれに反することは、少なくともしづらいはずです。
あらゆる口実を与えないように予め、権力を縛っておくことが憲法の存在意義です。

  要は、
侵略戦争はしないと明記することによる歯止めと、戦力は保持しないと明記することによる歯止めと、どちらがより効果的かということです。

  こうして書いてくると、どうも政治家に対する不信感に凝り固まっているようにもみえます。ですが、憲法の存在意義への理解は、政治家を始めとした権力者への不信から始まります。

  昨今の、防衛施設庁の談合事件をみてください。膨大な税金を使って国を守るといいながら、結局、私腹を肥やしているだけです。志の高い自衛官の方は、本当に苦々しい思いをされていると思います。ですが、これが権力の実態なのです。
権力は腐敗する。権力は濫用される。悲しいかな、古今東西、この現実があるからこそ、憲法による歯止め(立憲主義)が必要とされるのです。

  こうした事件が起こると、よくマスコミは、政治家や官僚が国民の信頼を裏切ったといいますが、そもそも、権力側にいる人たちは、信頼される対象ではありません。権力は批判の対象であって、信頼の対象ではないのです。権力を国民が主体的に監視し続けることが民主主義の本質です。常に疑ってかかるべきであって、立憲主義という発想はそうした権力に対する猜疑心から生まれたものなのです。
今、必要なことは改憲ではない、99条を徹底させること
  こうして考えてみると実は、必要性もあやしくなってきます。つまり、憲法を変えて自衛隊の存在をしっかりと軍隊と明記して歯止めをかける必要が本当にあるのかということです。必要なことは、いま憲法を変えて歯止めをかけることではなくて、いまの憲法を権力者にしっかり守れと国民が強く監視していくことではないか、つまり憲法99条を徹底させることが今、本当に必要なことなのではないのかということです。

  
憲法は魔法の杖ではありません。国民が主体的に権力をコントロールする有効な手段ではありますが、憲法にしっかりと明記すればそれで安心というものではないのです。どのような憲法であっても、常に国民が権力に対しての監視をし続けなければ、骨抜きになってしまいます。

  どれだけすばらしい憲法であっても、その国の憲法はその国の国民のレベル以上にはなり得ません。そうだとしたら、権力に歯止めをかけて軍事力をコントロールしたいとしても、憲法を変えることに活路を見いだして改憲に期待するのではなく、いまの憲法を自分たちの手でしっかりと実効性のあるものにするべく、主体的な意識をより強く持ち、監視し続けることの方が、いまの私たちには必要なことのように思われます。
「権力を信頼するのではなく、つねに批判の対象として疑ってかかること」
それが立憲主義が生まれた発想であるということを、今いちど心にとめ、
現在起こっている改憲論争について、考えていきたいと思います。
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