ホームへ
もくじへ
伊藤真のけんぽう手習い塾
バックナンバー一覧へ
近代法治国家においては、どのような凶悪犯罪を起こしたと疑われる人にも、
裁判を受ける権利を有します。しかしそれでは、被害者や遺族の人たちの人権はどうなるのだ?
  といった疑問について、塾長が2回に渡り、教えてくれています。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

個人の尊重2 刑事裁判と被害者
 護憲派ではなく立憲派として
 前回、個人の尊重と無罪の推定、被疑者・被告人の権利の話をしました。そのことに関連して、もう少し、刑事手続きの意味について触れておきたいと思います。 重大犯罪が起こるとどうしても、その被害者や遺族の方の気持ちになって、犯人を厳罰に処して欲しいと思ってしまいます。その感情自体は自然のものであり、否定することはできません。

 ですが、そのことと刑事手続きの意味を混同してしまっては近代裁判制度が成り立たなくなってしまうので注意が必要です。どのような凶悪犯罪を犯したと疑われている人にも、裁判を受ける権利という人権があること、適正手続によって裁かれる権利を持っていることは認めなければならないことは前回話したとおりです。気持ちが収まらないと思うかもしれませんが、これは人権というものを認める以上は皆が受け入れなければならないことのひとつです。人権や近代法治国家というシステムを取ることの、代償といってもいいかもしれません。

 被疑者や被告人の人権はわかった。では被害者の人権はどうしてくれるのだと思いませんか。私は被疑者・被告人の人権ばかり保障して被害者の人権を保障しなかったとしたら、こんな理不尽なことはないと思います。自分の最愛の人を無惨に殺されたら、自分の手で復讐してやりたい、それができないなら、一日でも早い死刑によって自分の復讐心を満たしたいと思うことを非難する気持ちにはなれません。

 被害者や遺族の方の、犯人に復讐したいという気持ち、精神的、金銭的なさまざまな損害。こうした被害者や遺族の方の負担をどのように考えたらいいのでしょうか。こうした損害や心理的な負担をなんとかしなければいけないという前提に立ちつつ、私たちは憲法がどのような制度を想定しているのかを考える必要があります。
近代立憲主義の流れをくむ日本国憲法
 まず、私たちは、刑事裁判という公的な制度の問題と、復讐心という個人的な問題を区別することから始めなければなりません。そもそも刑事裁判とは何のためにあるのでしょうか。一見、被害者の無念さを国家がはらしてくれる制度と見えるかもしれません。ですがそうではありません。刑事裁判制度はけっして被害者の復讐を国が代わって行うためにあるのではないのです。

 刑法の目的も、被害者の復讐心を満足させるところにあるのではなく、人の命や財産という法的に保護されるべき利益(法益)を守り、犯罪を防止するところにあります。まず、ここが出発点です。

 かつては被害者や遺族の報復の感情を満足させるためと考えられたこともあるでしょうが、近代の刑事裁判はそのようには考えていません。個人のレベルでの仕返しを認めてしまっては社会が混乱するだけですし、それを国家が代わりに行うことも現実的には不可能です。国家が私的な復讐心に加担することは、国家の目的に反します。国家はあくまでも国民が人権を保障されて安心して暮らせる社会をつくるためものであり、被害者や遺族の個人的な感情のために存在するのではないからです。

 ちょっと冷たく聞こえるかもしれません。しかし、刑罰という最大の人権侵害を正当化するためには、合理的な目的が必要であり、それが個人の応報感情を満足させるためというのでは足りないのです。結果的には個人の応報感情を満たすことはあるかもしれませんが、そのために刑事裁判制度があるわけではありません。

 刑事裁判は、あくまでもルールに基づいて真実を明らかにし、国家が刑罰を科すことができるかを判断していく手続です。そこでは、法に基づく客観性や公正さが要求されます。この裁判手続きを通じて、傷ついた社会の秩序を回復しようとするのです。はっきり言えば、刑事裁判は被害者のためにあるのではありません。秩序の回復や犯罪防止といった公共的な役割を果たすためにあるのです。これが近代文明国家の刑事司法制度の本質です。
近代立憲主義の流れをくむ日本国憲法
 では、被害者や遺族の無念さや復讐心はどうしたらいいのでしょうか。この点をまったく無視していいわけがありません。この被害者の苦難を被害者だけに負担させるのはそもそも公平ではありません。なぜなら、犯罪被害は単なる個人的な不幸の問題としてはかたづけられないからです。

 以前は個人的な不幸の問題として片づけられ、社会の同情やまわりの人たちの自発的な援助によって、被害者は自分たちの力で苦難を乗り越えようとしてきました。しかし、犯罪の被害に遭ってしまうという危険は、今日の社会において、誰もがさらされているものであり、けっして人ごとではありません。犯罪の原因の相当な部分は社会の構造にあるともいわれます。家庭環境や社会環境が犯罪に及ぼす影響はさまざまな研究がなされています。古くから社会政策は最善の刑事政策であるとも言われてきました。まさに社会の歪みが犯罪の遠因になっているのです。

 とすると、犯罪被害をこれまでのように単なる個人的な不幸の問題として片づけてしまうことは間違っています。そうではなく、社会全体の問題として受け止めるべきであり、皆で等しく引き受けて、国民全体で何らかの負担をしていくべき問題となってきているのです。金銭的な問題も国民全員が税金の形でなんらかの負担をすべきですし、精神的なサポートも受けられるように立法や行政が十分に配慮すべき問題なのです。

 憲法は被害者の人権を保障していないという人がいますが、それは間違いっています。被害者の人権は憲法でしっかりと保障されています。プライバシー権は13条で、知る権利は21条で、生活の権利は25条で保障されているのです。あとはそれを具体化し実現する政治の問題です。つまり、福祉政策の問題として国会や行政によってきちんと解決されなければならないのです。ごく最近まで被害者や遺族への対策は後手に回っていました。いくつかの悲惨な事件の被害者や遺族の方の文字通り献身的な努力によって、やっと法制化の一歩が始まったという現状です。で
すが、現実にはまだまだ被害者へのケアは十分とはいえません。
 この被害者へのケアが不十分だと、被害者も刑事裁判という公的な場面に怒りを訴えていくしかなくなってしまいます。これはとても不幸なことす。そもそも制度の目的が違うわけですから、司法の場だけで被害者や遺族の方の気持ちが慰謝されることはないからです。司法に裏切られたと感じてしまうこともあるかもしれません。

 そして被害者の人権をしっかりと政治部門が保障し実現するということと、被告人の人権を守るということはまったく別の問題です。被害者の人権と被告人の人権が衝突するように見えても、この二つはまったく次元の違う話であり、そもそも対立するものではありません。

 被疑者・被告人の人権は国家によって侵害される危険にさらされているものであり、強大な国家権力の理不尽からいかに守るかが求められます。
しかし、被害者、遺族の方の人権は、いかに国家がその救済に力をかすか、積極的に何をするべきかという問題です。
まったく別なことなのです。

 ですから、たとえば被害者が迅速な裁判を望んだからといって、適正な手続を踏まない迅速すぎる裁判などは許されません。先に述べたように、刑事裁判制度は被害者の応報感情を満足させるためのものではないのですから、近代刑事裁判制度を認めようとする以上、この点は理解しておかなければなりません。被害者の人権を保障することが被告人の人権を制限する理由になってはならないのです。
凶悪な犯罪事件を連日のように流すテレビ、
ワイドショー番組。情報を取り扱う側は、
自らの影響力の大きさを、果たしてどこまで自覚しているのだろうかと、
疑問になります。次回も「個人の尊重」について、塾長のお話は続きます。
ご意見募集!
ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せください。
このページのアタマへ