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伊藤真のけんぽう手習い塾
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なぜ、凶悪な事件についても、被告人に弁護士がつき、弁護するのか?
その理由は、明治憲法時代への反省から、検察官と被告人を
対等に扱う裁判制度を、新憲法の下で採用したからです。
このシステムについて、塾長にじっくりと教えていただきます。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

第二十回 個人の尊重その3 刑事裁判と被害者
近代社会の裁判制度の意味を考える
 先週に引き続き、「個人の尊重 刑事裁判と被害者」について書きたいと思います。前回、「被害者の人権をしっかりと政治部門が保障し実現するということと、被告人の人権を守るということは、まったく別の問題である。被害者の人権と被告人の人権は、衝突するように見えても、この二つはまったく次元の違う話であり、そもそも対立するものではない」ということについて説明してきました。

 ところで、私が最近気になることに、事件についてのマスコミ報道があります。マスコミがあたかも凶悪犯人を弁護するのは、弁護士の道に反しているかのように弁護士を攻撃することもあります。またテレビのコメンテーターがあたかも、自分が裁判官であるかのごとくに、有罪であることを前提に弁護士を批判します。
 ですが、もう一度しっかりと考えてください。そもそも有罪かどうかわからないから裁判をしているのです。弁護士はその裁判の過程で被告人の権利を保護する仕事をするものです。もし、テレビのコメンテーターが有罪を決めることができるのなら、裁判制度などいりません。マスコミや週刊誌の記者が取材をして犯人を決めることができるなら、そうすればいいだけのことです。

 ですが、近代社会はそんなことでは有罪は決められないとして裁判制度を作ったのです。 適正な手続も経ないで、有罪だとかってに自分で決めつけて、その前提で影響力のあるメディアでものを言うのはいかがなものでしょうか。その人には有罪・無罪を決定する権限など与えられていないのです。私にはとても傲慢に見えてしまいますし、近代裁判制度の意味を理解して発言しているのだろうか、と心配になります。
憲法31条が保障する “適性な手続き”
 それにしても、なぜ被疑者・被告人に弁護士がついて弁護するのでしょうか。有罪無罪がまだわからないとはいっても、悪いことをしたと疑われていて、実際には限りなく黒に近いのにとみんなが思っています。なぜ弁護士が必要なのでしょうか。

 そもそも現在の日本の刑事司法制度は、被告人が検察官と対等な立場に立って自分の主張をし、自分の立場を守る発言や行動ができることが前提で成り立っています。被告人と検察官という裁判の当事者は、実質的に対等であってはじめて、公平な裁判は実現され、被告人の人権も保障されて、真実が発見できるのだという考え方に基づいています。

 ところが実際の裁判の場では被告人と検察官の力の差は歴然としています。方や身体を拘束され自分に有利な証拠も集めることができない被告人。方や国家権力を背景に強大な捜査権限を持つ検察。この力の差を無視しては公平な裁判など望むべくべくもありません。そこで、被告人側に法律専門家としての弁護士をつけて、少なくとも検察官と対等に争えるようにその立場を強化したのです。これが、どんな凶悪犯罪者と疑われている人にも弁護人がつく理由です。

 そして、こうした対等な立場の二人に争わせて、それを中立的で公平な裁判官が判断することによって、真実は発見されると考えて、訴訟の仕組みは成り立っています。このように当事者が対等な立場に立って裁判に臨むことができることを、“適正な手続” と呼びます。憲法は31条で適正な手続によらなければ刑罰を科すことはできないとしていますが、こうした弁護制度ももちろん適正な手続の中に含まれます。

 また、こうした適正手続が保障されるからこそ、裁判は正当性を持つことができるのです。司法権も国家権力ですから、国民によって正当化されなければなりません。明治憲法の時代は判決も天皇の名で行われていました。しかし、今は国民主権ですから、判決も国民によって権威づけられ正当化されます。その際の国民との関係は、裁判の結果が国民の意思を反映しているという意味ではなくて、国民の信頼に基づいているという意味です。
司法権の正当性とは? 国民の信頼とは?
 国会の正当性は国民の意思を反映しているから、ということができますが、司法権の場合には国民の多数意思を反映していることが判決の正当性にはなりません。それでは人民裁判になってしまい、中世に逆戻りです。多くの国民が死刑だと叫んでいるときに、法と正義に照らして無罪判決を出すときもあるのです。それが人権保障の最後の砦としての裁判所の存在意義です。

 もし、ときの多数意見におもねる判決しか出さないのであれば、国会や内閣といった多数意見が支配する政治部門の他に裁判所を設ける意味がありません。たとえ、国民の多数の意思と違う結論であったとしても、法と正義の観点から正しい結論を導くことが司法に求められる役割です。

 そして、その司法権が正当性を持つのは、国民の信頼を得ているからなのです。そしてその信頼がどこからくるのかというと、手続の適正からきます。つまり、裁判の手続きが適正だから、きっと結論も信頼できる正しいものなのであろうと国民が信頼するのです。適正手続は国民の信頼の元となり、それは裁判自体の正当性の根拠となります。つまり、適正手続が保障されていない裁判は、国民の信頼を得ることができず、正当性を失ってしまうのです。要するに適正手続は裁判制度自体の存在根拠でもあるのです。

 この適正手続を保障するために弁護士がつきます。被告人を国家権力が一方的に糾弾する手続ではなく、検察官と対等な立場で争わせて、中立的な裁判所が判断するという近代司法の仕組みこそが、適正な手続だと憲法は考えたのです。
 明治憲法の時代は、検察官と裁判官は並んでひな壇の上に座って、上から被告人を見下ろしていました。裁判官は検事とともに司法大臣から任命されていました。司法権の独立も形骸化してしまっていたのは無理からぬ事です。こうした司法制度の下で、治安維持法違反の事件などが裁判され、無実の者がたくさん有罪にされていったのです。こうした明治憲法時代への反省から、先のように検察官と被告人(弁護人)を対等に扱う裁判制度を新憲法の下で採用したのです。
検察官、弁護士、裁判官の役割分担
 ですから、弁護士はあくまでも被告人の権利を守ることが仕事ですし、そのことによって適正な手続が保障され、裁判の正当性が得られるのです。そして、同様に裁判官も検察官と違う立場で公平に裁判を進めるからこそ、意味があるのであって、裁判官が検察官と同じように迅速な処罰をするために裁判を進めてしまったのでは、その存在意義が失われてしまいます。

 刑事司法のシステムがうまく機能するためには、こうした検察官、弁護士、裁判官がそれぞれの役割を果たすことが何よりも必要です。検察官が処罰を求め、弁護士が被告人の利益を守り、裁判官が中立的な立場から判断する。こうした役割分担が行われて、始めて、司法制度は健全に機能します。最近は、裁判官が検察官と同じ立場で審理を急がせたりしています。迅速な裁判は必要ですが、迅速すぎる裁判は人権侵害です。えん罪は、真犯人を取り逃がしてしまうことを意味します。これは被害者や遺族の方にも過酷な結果であることを忘れてはなりません。

 また最近は、有罪にすることに協力的でないということで弁護士がマスコミからバッシングを受けたりしています。これは刑事裁判制度に対する無理解からくるものですが、社会への影響力は小さくありません。しかし、これでは法律家全員が、検察官になってしまうのです。このことがどれだけ恐ろしい結果を招くか、私たちはしっかりと想像しないといけません。

 車にも、アクセルもあればブレーキも必要、もちろんハンドルも必要です。3つそろってはじめて安全運転ができるわけです。もし、アクセルしかなかったら大変なことになります。今の状況は国民みんながアクセルつまり検察官になってしまっているようです。それはとても危険なことです。ブレーキとしての弁護士やハンドルとしての裁判官がきちんとした役割を果たすことが不可欠なのです。

 そして、私たち国民の役割も、犯人の処罰を求める検察官になることではありません。むしろ事件の当事者から一歩離れて冷静に、こうした刑事裁判のシステム全体がうまく働いているかどうかをしっかりと監視していくことが、主権者としての国民に与えられた役割なのです。
「今の状況は、国民みんながまるで検察官になっているようだ」
という塾長のことばには、はっとさせられます。
刑事裁判のシステムを理解し、冷静に見守るべきでしょう。
塾長、ありがとうございました!
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