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伊藤真のけんぽう手習い塾
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普通の国の憲法よりも一段高いレベルにあるのが、
日本の今の憲法だと塾長は指摘します。
その理由について塾長は、今回も丁寧に説明してくれています。
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

同質性と多様性(一段高い日本国憲法のレベル)

 憲法は、人々が多様性を認めあう社会をめざしています。しかし、現在、憲法改正や教育基本法の改正で一部の政治家たちが目指しているように、天皇を中心とした日本民族の国などということになると、同質性を追求することになってしまいます。今の憲法が目指そうとしている方向と180度向きが逆です。

同質性を追求するとどうなるでしょうか。前にもお話したように、同質性の中にいる人間にとっては心地よくて安心です。確かに私も気心知れた仲間と一緒にいると気が休まります。ですが同時に外との間に壁ができてしまいます。差別や排除の論理につながっていくことになります。

憲法は壁をできるだけ取り払い、多様性を認め合う社会を目指しています。かけっこの遅い子ども、勉強の理解が遅い子ども、体育や音楽の得意な子ども、いろいろな子どもがいていいのです。このように、憲法では、多様性を認め合うオープンな社会を目指していこうとしているのに、今進められている教育基本法の改正などでは、正反対に、日本民族の文化や伝統を重んじ愛しなさいと、同質性を追求する方向への教育が行われようとしています。もちろん教養として知識としてそれらを学ぶことは必要です。ですが、それは漢字やかけ算や理科と同じはずです。この部分だけを取り出して憲法や法律で特別扱いするのはいかがなものでしょうか。

近代憲法が想定する国家とは?
 そもそも近代憲法の歴史は、国家を民族の奴隷にしてはならないという発想によって支えられてきました。民族の集合体としての民族国家(Nation)ではなく、あくまでも、私たちが人為的に作り上げた権力主体としての国民国家(State)を国家として位置づけて、そこに人権保障のための役割を担わせるのが、社会契約説であり、近代立憲主義的憲法の出発点です。

 もちろん、こうした国家はフィクションです。国家を人為的に作り上げるなんて言ってみても、アメリカの建国がその実例として挙げられるかどうかのぎりぎりのところでしょう。ほとんどの国は、自然発生的に民族の集合体としてできあがってきたのかもしれません。ですが、だからこそ近代の立憲主義国家は、さまざまな民族が寄り添いそれぞれの価値観を認め合い、侵してはならない部分には触れずに、共存してこようとしたのです。

 たとえば、フランスという国には、ラテン系の民族もゲルマン系の民族もいれば、ジダンのようなアルジェリア出身の人たちもいます。憲法が想定する国は、さまざまな民族の人たちによって意識的に、人為的に創りあげられた国家なのです。

 それをわざわざ日本民族を強調するような憲法にして、ことさらに民族を強調する教育を行うとは、世界の潮流から逆行していると思われても仕方がありません。それに、日本の文化や伝統とはいったい何なのでしょうか。ここにこだわって、教科書で定義して評価の対象にできるものなのでしょうか。それこそ、日本の伝統や文化とは何かをしっかりと確認しておかないと(私はとてもむずかしいと思いますが)、その教育の内容も、日本古来のものと言いながら、大半は中国大陸や朝鮮半島に由来する文化や伝統を教えることになってしまうでしょう。

 同質性をめざすようになると、単に国籍だけでなく、例えば、「若者だけで集まりましょう。年寄りは別です。」、「男性だけで集まりましょう。女は別です。」、「健常者だけで集まりましょう。障害を持った子どもは別です。」、「金持ちだけで集まりましょう。貧乏人は別です。」といったことになる恐れがあります。

 日本の中だけでもあらゆるところで、どんどん壁がつくられていき、分断された社会、差別がはびこる社会になっていく危険があると懸念しています。愛国心や民族を強調することが、いろいろな場面に伝染していき、こうした差別や排除の引き金になるのではないかと心配なのです。

 そして大衆迎合的なマスコミは、ますます一般受けするテレビや新聞ばかりになり、多くの人と異なる意見や反対意見を述べるものは、非国民だとか常識はずれだとかで言葉の限りを尽くして非難され、異論が封じ込められていきます。言論の多様性が認められない社会は健全ではありません。

 仲間と同じ考えを持たないものは仲間ではないとしてこれを排除することは容易です。こうしてますます画一化された社会になり、息苦しくなっていくことは、一人一人の幸せには、つながらないのではないでしょうか。

 以上のような観点からも、憲法や教育基本法を変えてしまうことには反対です。
多様性を認め合うための共通点の抽象性
 さて、このように憲法は多様性を認めあう社会を目指そうとしていますが、この多様性を認めることができるのは、相手とのなんらかの共通点を見出せるからだと考えています。共通点が認識できるから、逆にお互いの違いを許すことができるのではないかと思うのです。

 同じ会社、同じ地域の出身、同じ日本人という共通点があるから、何か妙なことをいっても許せたりします。
 同じアジア人という共通点を認識すると、歴史認識がちょっと違っていても妥協点を見出していくことができるようになります。
 同じ人類ではないかという共通点を見出せると、人種や宗教などいろいろな違いを乗り越えてその違いを認め合えるようになります。

 今書き出したような共通点は後にいくほど、その抽象性のレベルが上がります。目に見える肌の色、言葉の使い方などの違いを乗り越えて、抽象的な共通点を認識して同じだという感覚を持てるようになることが必要です。ですが、そのためには、一定の知性が必要になってきます。

 見かけの違いに惑わされずに、もっと大きなところでの共通点を認識して、共感できる心と頭を持たないとこうした多様性を認める余裕が生まれてきません。私たちは知性に磨きをかけて、共感力や想像力を高めていくことができます。戦争を経験していなくても、その悲惨さや無意味さを知性の力によって知ることができます。理不尽な目に遭わされたことがなくても、強者による理不尽の恐ろしさ、それによって自由を奪われることの苦しさ、無念さを想像することができます。

 犯罪の被害に遭わなくても被害者の無念さを理解しようとすることはできます。同じく戦争やテロの被害に遭わなくても、その無念さや悲しさを理解しようと努力することはできるはずです。相手の立場にたって理解しようと努力すること。これが憲法の個人の尊重の基本にあります。

 普通の国の憲法は、そうした努力が、同じ国民だからみんなで仲よくして、お互いの違いを乗り越えていこうというところで終わっています。共通点を抽象化するレベルが、地域を越え、民族を越えてはいても、国家のレベルでの共通点でとまっています。自分の国を愛し、自分の国が平和であるように国民みんなで努力しようというのが、普通の国の憲法のレベルです。

 ところが、日本の憲法は同じ人類だから仲よくしよう、同じ人間だから世界の平和をみんなで目指そうとするレベルまで共通点の抽象性を高めています。普通は、その国のことを考えて愛国心のレベルで終わりです。ところが、日本の憲法は、人類愛のレベルまで引き上げています。この国の憲法は他の国の憲法と比べてステージがひとつ上なのです。

 日本でも戦国時代は地域ごと、小さな国同士で戦いました。そこまでしか自分たちの共通点を見いだす知識や能力が及ばず、お互いを理解できなかったからです。その後日本としてはまとまるようになりますが、それでも戦争の最中は鬼畜米英という教育を受けて、本当に欧米人は鬼だと思っていた人もいたそうです。捕虜になったら殺される、辱めを受けると教育されてそれを信じてしまった人たちも大勢いました。

 今ではそのような人はいないと思われます。こうして、少しずつ自分と違う人たちへの知識や理解が高まることで、抽象的な共通点を認識できる知性のランクが上がってきました。そして、今の憲法は世界の人類というレベルまで、ベースとなる抽象的な共通点を引き上げているのです。これはすごいことです。

 今の憲法は、人類のレベルですが、それをもう1段上、地球のすべての人、動物、植物などあらゆる命と共通点を見いだして、共存できるようなことが考えられると、初めて地球レベルでの環境を本気で考えられるようになるだと思います。人類を超えて、さまざまな地球の生命と共通点を見出すのは、相当に知性のレベルが上でないだめです。私は、それらを目指す改憲ならば、すばらしいと思いますが、せっかく人類のレベルまで共通点を高めている今の憲法を普通の国家のレベルまで引き戻してしまうのは本当にもったいないと感じています。
弱いものいじめをする今の日本社会
 憲法は、前文第2段落で、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」と規定します。つまり、人間同士が共通の思いを持っているはずだというのです。そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」とあるように、どこの国にも私たちと同じように平和を愛する人々はいるはずだという共通点に立脚します。私たちが信頼するのは、あくまでも外国の国ではなくて、そこで生活する人々、Peace loving peoplesです。そのうえで、「われらは『全世界の国民』が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」として日本国民のことだけではなく、全世界の国民を視野に入れていることを宣言します。

 このように世界を視野にいれて、同じ人類という点に共通性を見いだし、だからこそ、お互いの違いを受け入れあえるはずだというのが憲法の考え方なのです。あえてこれを逆行させて、異端を排除するような社会をめざすのは知的後退に他なりません。実際の暴力や言葉による暴力も含めて、力によって異端を排除しようとするのは幼児性の現れです。

 北朝鮮のミサイル発射実験に伴って、民族学校への嫌がらせの電話や子どもたちへの嫌がらせがまた数多く起こったそうです。こうした少数者や異端へのいやがらせは、この国の得意分野です。イラク人質事件のときもそうでした。自己責任という言葉が一人歩きし、人質になった若者をみんなでよってたかって攻撃しました。

 こうした事件が起こるたびに、いかに日本の社会が成熟した大人の社会になっていないかを痛感します。ですが、高いところから、知性的でないとか、大人でないとかいって論評することは簡単ですが、そうした現実があることから目を背けることはできません。こうした理不尽な行動をする人たちもまた、この国で生活をしている人間であり、ときに隣人であったりします。

 なぜ、こうした弱い者いじめに走るのか、そうした社会になってしまっているのか、その原因をしっかりと考えていくことが必要です。現象面を捉えて批判して終わるのではなく、その原因を冷静にしっかりと考えてみることが求められています。

 憲法を変えることでそうした根本の問題が解決するのか、その糸口がほんとうに見つかるのか。かえって悪化させることにならないか。ここを本気で具体的に考えてみる必要があるように思います。前にも言いましたが、抽象的に憲法を変えれば社会が変わるかのように思うのは幻想です。問題は私たち一人一人にあります。これはいつも偉そうに高いところからものを言ってしまいがちな自分への自戒も込めての思いです。
地球温暖化による異常気象のニュースが、世界中から聞こえてくる今、
本当は地球レベルでの憲法の出現があってしかるべき時ではないのでしょうか。
塾長の視点に立って、改めて今の憲法の前文を読み返してみたいと思います。
塾長、ありがとうございました!
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