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伊藤真のけんぽう手習い塾
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国会で審議中の国民投票法案。再びメディア規制についての議論が始まります。
表現の自由、民主主義の本質、個人の価値、憲法的価値など、
いろいろと難しい問題を含んでいるこのテーマ。
塾長の考えをじっくりとお読みください。  
いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

表現の自由とメディアの役割
国民投票法と、意見広告のテレビCM
 国民投票手続法を制定するとした場合、有料の意見広告テレビ放送などをどの程度、制限するべきかに関して、私は一切許すべきではないと考えていることを第35回「憲法改正手続き法 その3(国民投票運動におけるメディア規制について)」に述べました。

 もちろん表現の自由は、とても重要な人権ですし、その制限は必要最小限でなければならないことは言うまでもありません。ですが、この国民投票という場においては、有料の意見広告を認めることは弊害の方が大きいと考えているからです。前にも述べたように、スポット広告は、マインドコントロールとなってしまう危険性と資金力による影響力の偏りという問題が生じます。これは投票の公平性や公正さへの信頼を失わせるものです。

 そもそも、表現の自由がなぜ重要なのかを考えてみると、それは個人の自己実現の価値を持ち、また、民主主義を支える価値を持つからと説明することができます。

 自分の思うとおりに考えを発表できることはその人にとって、自分らしく生きるためのとても重要な意味を持ちます。ですが、その人個人にとっての価値よりもより、大きな憲法的価値のために制限を受けることもあります。

 他人のプライバシーを侵害するような小説を書くことによって、作家としての自己実現を図りたいと思っても、それは当然に制限されます。他人の実生活を犠牲にすることなどとうてい許されることではないからです。同じように広告制作者の自己実現は国民投票の場合、制限されてもやむをないと考えます。

 また、民主主義を支える価値があるというのは、自由に言論が発表され、それを知ることができる公共空間が保障されることによって、国民は誰もが政治的な判断をするために有用な情報を得ることができるという点にあります。ですから、そこで流される情報が国民にとって正当な関心事となるような、つまり政治的な判断にとって意味のある情報でなければならないわけです。

 こう考えると、テレビの数十秒のスポット広告は、理性的な判断の材料を提供するというよりも、感情に訴える映像や音声を流すことになってしまう危険性があります。とすると、国民が必要として議論に必要な情報を提供するというよりも、やはり弊害の方が大きいと思われます。

 以上から、テレビのスポット広告には全面的に反対なのですが、法律で規制するとなると、これは国家による言論の自由に対する一種の介入となります。そんなことが許されるのでしょうか。

国家による言論の自由に対する介入
 先日、NHKが放送しようとした番組の内容に政治家が口を挟んだために、NHKが番組内容を変更してしまったという問題に関する東京高裁の判決がありました。2001年1月29日に放送された従軍慰安婦(日本軍性奴隷)制度に関する番組に対して、国会議員から「公正・中立であるように」との発言があったことにNHK側が過剰に反応して番組内容を急遽変更してしまったのですが、そのことについて取材した方々に十分に説明しなかったという説明義務違反を理由に損害賠償が認められたというものです。

 安倍首相は「政治家が介入していないことが判決で明確になった」とコメントしていましたが、一般論として「公平、中立に」と言ったにすぎないのだから、問題はないと考えているのでしょう。果たしてそうでしょうか。

 そもそもテレビ番組を含めてあらゆるメディアから流される情報は、事実に対してなんらかの評価が加えられてから流されています。必ず、事実を評価し判断する人の価値観が反映しているのです。

 たとえば、どのようなニュースであっても、そのニュースを載せるかどうかを一定の価値観に基づいて選別しています。テレビならば何分放送するか、どのような映像を流すか、反対の人の意見をどう扱うかなどすべて、番組製作者の意見や価値観がそこには反映されます

 もちろん、その報道を正しくないと考える人もいるかもしれません。そして、「この番組内容は中立的でないから変更した方がいい」と言いたい人もいるでしょう。ですが、「中立ではない、公平ではない」という批判的意見もまた、ある価値観に基づいたひとつの主観的意見にすぎないのです。

 問題はこのように意見が対立したときに誰がどのようにその善し悪しを決めるのかということです。国や政治家が「この内容は偏っていてよくない」ということを一方的にメディアに押しつけることができるとしたらどうでしょうか。それでは国や政治家の気に入った番組や記事しか流されなくなってしまいます。

 メディアから流される情報の善し悪しは国や政治家のような権力を持った者が判断するのではなく、あくまでも、情報を受け取る側である国民が自ら判断するべきものなのです。国や政治家はメディアの報道内容に口をさしはさむべきではありません。たとえ直接的でなかったとしても、影響を与えるような言動をしてはなりません。

 憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と規定していますが、これは情報が発表されてから受け手に受領されるまで情報の流通過程のすべてを、国家権力による干渉から保護しています。

民主主義の本質を理解していない安倍首相のコメント
 民主政治は一人ひとりの国民が、その知り得た事実に基づいて判断した考えや思想を、議論を通じて実現しようとするものです。国民が十分な議論をして何が正しいかを皆でみつけようとしているときに「これは中立でないからだめだ。」と特定の考え方を押しつけられたのでは、民主政治は成り立ちません。

 そもそも民主主義は、何が正しいかわからないからこそ皆で議論しお互いの考えをぶつけ合って、最もよいものを見つけだそうとするものです。そこでお互いが自由にものを言えなければ成り立たないのです。国や政治家が特定の考え方を直接、間接にメディアに押しつけることも、メディアの自由な報道に何らかの影響を与えるような行動をとることも許されません。

 国や政治家などの権力を持つ者は、国民の思想や言論活動といった精神的な営みの領域には立ち入ってはいけないのです。それは表現の自由を侵害し人間の尊厳を傷つけるだけでなく、民主主義の本質をつき崩してしまいます。先の安倍首相のコメントは、こうした表現の自由の本質を理解していないものと言わざるを得ません。

 さて、話を戻しましょう。国民投票において、テレビのスポット広告を全面的に禁止することと、政治家がNHKの番組内容に影響を与えることはどこが違うのでしょうか。

 テレビスポットの制限は、国民が理性に基づいて自由に判断するための前提条件を築こうとするものです。むしろ実質的な表現の自由の保障に資するものです。ですが、政治家が個別の番組に意見することは、まさにメディアに対する圧力であり、メディアを含めた国民の自主的な判断をゆがめることになります。

 同じ国家の介入であっても全く意味が違うことを理解しておかなければなりません。

議論の分かれる国民投票運動中の、意見広告のテレビCMの規制について。
今週は同じテーマで、『マガ9』発起人の一人、
斉藤駿氏の緊急提言を掲載してあります。そちらもご覧ください。
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