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雨宮処凛がゆく!

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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。雨宮処凛公式サイト

生きさせろ!
雨宮処凛の闘争ダイアリー

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100回を祝して。の巻

韓国の雑誌「時事イン」の表紙をなぜか飾る私。

 この連載も100回を迎えた。始めたのは07年の3月だから、もう2年以上、毎週毎週ここに原稿を書き続けていることになる。これ以上長く連載を続けているのは「BIG ISSUE」くらいではないだろうか。

 そうしてこの2年間は、私の今までの人生の中で、もっとも多忙を極めた2年間でもあった。連載をずっと読んでくれていた方はわかると思うが、日本全国を講演などで行き来し、様々な作戦会議を経ては集会やデモをし、そして恐ろしいことにこの2年間、ほぼ毎日がなんらかの原稿の〆切、という状態だったのだ。

 その結果、家はまるで逮捕直後に公開された宮崎勤の部屋のような状態、猫は「かまってくれない」とストレスを募らせて凶暴化、自分自身も何がなんだかわからない中で取材を受けたり原稿を書いたりし、週末ごとに全国各地に講演などで行くものの、滞在時間2時間で東京に戻ってまた別の仕事、という日々。そんな生活をしていると、何か殺伐とした感じになってくるのだ。正社員層の長時間労働や非正規のワーキングプア状態に対して「人間らしい生活を」などと言っている自分自身がまったく「人間らしい」生活をしていないという大いなる矛盾。

 だから今、仕事を減らしている。このままじゃパンクすると思った時、優先順位を考えた。その結果、もともと自分は「書く」ことが一番大切な仕事なのだという当然の結論に達したのである。そうしてイベントに出たり講演をしたりということを控えると、猫を散歩に連れていく時間ができ(猫用散歩ハーネスをつけて近所を徘徊)、宮崎部屋のような部屋も少し片付いてくるのだった。その上近所ののら猫「黒白先生」と「まめ」「ハナクロ」ちゃんとたちの交流も深まり、あと一歩で触らせてくれそうなのである。

 と、そんなふうに「仕事を断って猫の散歩をしたり昼間から酒を飲んで充分寝たのに昼寝までしてしまう」ようなことをしていると、ふつふつと「罪悪感」のようなものが沸いてくるのが私の小心者なところだ。何か私もこの国の悪しき「多忙」至上主義みたいなものに毒されているのである。例えば「雨宮さんは全国各地飛び回ってて本当に忙しい方で」ってなことを言われることがある。それはなんだかすごくポジティブな意味で「誉め言葉」っぽく使われていたりするし、その一方でサラリーマンでもフリーライターでも「いやー、もう忙しくて3日寝てなくて」みたいな、「寝てない自慢」「世の中や会社やもろもろに必要とされて忙しい俺自慢」みたいな言い方もある。何かこの国を蝕む「過労」問題は、そういう人の心にまで侵食しているものが作り出している気もするのだ。

日韓連帯メーデー特集です。

 だからこそ、私はそんな風潮に全身で抵抗するという意味を込め(ホントか? )、あまり働かない方向に移行しようと思っている。あまり働かない。それはエコだ。エコカーなんかの何百倍も環境に優しい。そしてそんなスタンスは、「プレカリアート運動」とも非常に相性がいいのではないだろうか。そもそもプレカリアート運動とは、一言で言えば「ダメな人間でも生きられるようにしろ」という趣旨のものである。そうして実際に、今起きていることは、ちょっと要領が悪かったり対人関係がちょっと苦手だったり、という「ダメ」と言われてしまうような人々から本気で生きられなくなっている、という事態だ。そうして「ダメでも生きさせろ」と言ってるわりには、ここ2年ほどの私は社会に適応しすぎ、生産性も高すぎ、なんとも「ダメ度」が低かった。これはいけないと今、しみじみ反省している。なぜなら、「ダメじゃない人」たちばかりが集まって何か社会的なことを訴えるという運動を想像してみてほしい。がっちり代表とかが決まって、きっちり集会なんかもこなし、次の集会は今回の倍の人を集めよう、とかってなんだかノルマみたいのができたりして、なんかやってることっていうかやり方が「会社」とかと同じ、なんて事態になってくると思うのだ。いや、訴える内容なんかによってはそれはとってもいい方法だとも思う。が、プレカリアート運動自体が「会社の論理」とか「企業の営利活動」なんてものからまっさきに「無能」としてはじかれてしまう人たちの「場」としても機能している以上、そういう「成果主義」っぽいものとは絶対に合わないと思うのだ。「運動の成果主義」の危険性については、もやいの湯浅さんもどっかで指摘していたと思う。

 だから私は、宣言したい。連載100回を記念し、心を入れ替えて、これからは、もっとダメな感じで生きていくことを。もっと沢山寝て、もっと沢山の酒を消費し、仕事はあまりせず、社会にも適応せず、あまり人や社会の役に立たないような、そんな生き方を模索したいと今、切に願っている。というか、あえてそういったことをここに書かないと、貧乏性で小心者な私は強迫神経症的に働き続けてしまうのだ。

 しかし、ここにまた大いなる矛盾がある。私が仕事を減らせるのは、とりあえず今のところ「貧困」状態ではないからだ。ギリギリの貧困状態であれば、どんなに安くて危険な仕事だってなんだって、断るという「選択」もできないし、仕事そのものを選択することもできない。休む時間よりも、今日明日の食べ物のために働くことを優先せざるを得ない。貧乏人はある意味、「ダメに生きる」ことすらできなくなっている・・・。これって、由々しき事態ではないだろうか。

とか言いつつまた本出してるし・・・。「ロスジェネはこう生きてきた」。

疲れたとき、ちょっと休みたいとき…
誰もがたまには「ダメに生きる」余裕のある社会ならいいなあ、と思います。
祝・連載100回、ぜひご意見・ご感想をお寄せください。

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