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2011-07-06up

雨宮処凛がゆく!

第195回

放置され続けた「汚染」。の巻

 まずは、前置き。

 先日、TBSニュースバードに「素人の乱」松本哉さんが出演。番組テーマは「デモデビュー」で、「最近、若者の間でデモデビューが流行っています」というナレーションには思わず噴き出したのだった。

 「流行ってる」のか? っていうか、デモデビューって流行モノだったのか? という突っ込みはひとまずおいといて、そんなふうに取り上げてもらえるのは嬉しいことである。

 3月11日から3ヶ月近く。この間、「デモデビュー」した人の中にはおそらく徐々に「デモの好み」が現れてきているのではないかと思う。

 最初はただ、「デモ」を体験したたけで「わー、なんかすごい!」という高揚感があり、しかし2度、3度とデモ参加を繰り返すうちに「今日のデモ、なんかイマイチだったかも」「っていうかあんなコールってあり得なくない?」などといった感情が生まれるようになり、

 「自分だったらもっとうまくやれるのに・・・」というフラストレーションが芽生えつつ、「自分好みのデモ」がわかってくる、そんな時期ではないだろうか。

 そんなあなたに伝えたい。

 おめでとう! これであなたも立派なデモジャンキー! 禁断の扉をついに自力で開いてしまった人々に、最大限の賛辞を送りたい。

 で、デモジャンキーになってくると、「デモでやりたいこと」「言いたいこと」がたくさん出てくる。沿道の反応などから、どうやったら効果的なのかとかも漠然と見えてくる。で、そういう思いがあるんだったら勝手にやってしまえばいいと私は思う。というか、私は勝手にやってきた。なぜならデモの場というのは、最大限に開かれた場所であると思うからだ。「このコール、なんか乗れない・・・」と思うのであれば、自分で勝手に叫びだしてしまえばいい。空気をがらっと変えてしまえばいい。きっと誰かが賛同し、一緒に声を上げてくれるはずだ。

 ちなみに私はサウンドデモが大好きなわけだが、上の世代の方々には長らく「サウンドデモへの違和感」を表明されてきた。特にオジサンなんかに「なんでみんなでスクラムを組まないんだ!」「なんでフランスデモをしないんだ!」などと怒られたことは数知れず。「なんでフランスデモしないんだ」って、じゃあお前がやれよ! って話だが、このように「デモ」と一言で言っても、世代をはじめとしてとてつもない「センスの壁」が立ちはだかっている。逆に若者からは「古臭いデモは嫌」という声も聞く。その気持ちもわからないではないが、「デモの好み」が壁になってしまうことはとてつもなく勿体ない。ちなみに私自身は「古臭いデモ」に遭遇すると、まるで絶滅寸前の動物を発見したような、とてつもなく貴重な瞬間に立ち会えたという喜びに包まれる。ということで、どんなにセンスの違いがあろうとも、それは「脱原発」という言葉の前には小さな違いに過ぎないはずだし、そう思うことが私なりの「デモジャンキーとしてのたしなみ」でもあるのだ。

 と、何か熱く語ってしまったが、本題。『マスコミ市民』7月号でとても興味深い記事を読んだ(「原発事故〜報道の惨敗、被災者の悲惨」大治浩之輔) 。

 水俣病事件の取材経験がある著者は、水俣病を「なぜ未然に、せめて最小限に、喰い止めることができなかったのか。チャンスはいくつもあったのに、なぜすべて見逃されたのか」と問い続けている。なぜなら、第1号患者が公式確認されたのは昭和31年。漁師集落を中心に劇症患者の死が相次ぎ、「誰もが魚を疑い工場排水による汚染に目を向けた」。しかし、「11年後の昭和42年、チッソが工場を閉鎖するまで、水銀廃液による海の汚染は一度も止められることがなかった」。

 原発同様、水俣病についても全然詳しくない私は、まず「11年間垂れ流し」だったことを初めて知り、ただただ驚いた。なんで? みんな「怪しい」って思ってたんでしょ?

 しかし、原稿を読み進め、言葉を失った。

 まず、熊本県が昭和32年に漁獲禁止を申請するものの、厚生省は「さかなが全て有毒化していると証明されたわけではない」と漁獲禁止をしりぞける。熊本大学が原因は有機水銀と突き止めても、チッソ社長は「工場が使っているのは無機水銀で有機水銀ではない」とつっぱねる。しかし、チッソ内部では「ネコ実験で水俣病発症」を既に確認。が、工場は排水の排出先だけを切り替えてかえって「汚染を拡大」。また、中央の水俣病食中毒部会では、有機水銀を突きとめた熊本大学の工場排水説に通産省が反対、当時の通産大臣が閣議了解にすることを阻止。これと連動して化学工業協会と東京の御用学者が「爆薬説」や腐った魚を食べた「アミン説」というトンデモ系の説を振りまく。これを東京の科学担当記者たちが大きく取り上げ、「有機水銀説」は社会的な説得力を薄められてしまう・・・といった構図だ。

 この原稿を読みながら、「原発事故後の2011年の日本」を思い浮かべたのは私だけではないだろう。というか、ここに登場する固有名詞を「東電」とか「原子力安全・保安院」とかに置き換えてみたくなってしまう。そしてやっぱり登場する「御用学者」。頼むから、今はこの時の教訓が生かされていてほしいと願うものの、政府も企業も本当に大切な事実は隠す、という体質は何も変わっていないようである。特に事が重大であればあるほどその傾向は顕著になるようだ。その一番の証拠が「初日からメルトダウンしてた」ということを発表したのが2ヶ月後、という事実だろう。原発の近くに住み、命の危機に晒される人々にさえ「本当のこと」が隠される体質。

 著者の大治氏は、水俣病について、以下のように書いている。

 「(1)国や熊本県が漁獲禁止をしていたら、(2)チッソ・業界が熊大の研究成果を受け入れていたら、(3)警察・検察が刑事事件捜査を始めていたら、有毒の汚染排水は遅くとも昭和34年までに止まり、水俣病被害は最小限に喰い止められていただろう。すべての機会は見逃され、この間、報道は何の役にも立たなかった」

 数年後、数十年後、今回の原発事故についてこんなふうに悔いる記事を読むことになったら・・・。そう思うと、気が遠くなってくる。そして私自身、数年後、数十年後にこれほど悔いる原稿を書くなんて事態が訪れたら、泣くにも泣けないし悔やんでも悔やみきれない。

 昭和30年代初頭、高度経済成長の入り口にあった日本ではチッソは「化学業界の要で、通算としても業界としても生産を(つまり工場排水を)『止めさせる訳に行かなかった』(当時のチッソの組合委員長)」という状況があったのだという。そうして水俣病の患者家族たちはわずかな見舞金で「社会的に葬られ」、そのまま日本人の多くは経済成長のうねりに飲み込まれていった。

 化学業界の要だったからこそ、死者が出ようと多くの人がどれほど苦しもうと「止めさせる訳にはいかなかった」有毒な工場排水。

 一方、「環境に優しい」「CO2を排出しない」ともてはやされ、巨額を投じて「安全神話」が作られてきた原発。

 そんな記事を読んですぐの7月4日、定期検査中だった佐賀の玄海原発の再開を、地元の町長が了承したことが報じられた。

 それを聞いた時に頭をよぎったのは、この「止めさせる訳には行かなかった」という言葉だ。

鎌仲ひとみ監督と。とってもカッコいい人です!

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明らかになっていたはずの事実さえ、隠され続ける。
現在の状況とのあまりの相似性に、言葉を失います。
数十年前の過ちを、二度と繰り返させない。
それができるのは、今を生きている私たちだけなのです。

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雨宮処凛さんプロフィール

あまみや・かりん1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮処凛のどぶさらい日記」

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