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今週のキイ

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 W杯が終わってもう数日経つのに、ジダンのあの行為については、新宿の居酒屋でも持ちきりだった。
「それにしてもあの“パッチギ”は、なかなかのものでしたよ」とは、『マガ9』編集メンバーの1人でもある、在日コリアン、K氏の感想。
“パッチギ”とは、井筒監督の映画タイトルで有名になったが、ハングルでいうところの「頭突き」。
「僕もけっこうやりましたよ。だだし壁を相手にね」と、K 氏。少年時代には映画のシーンさながら、日本人学生からの襲撃に備えるため、先輩から「パッチギ」を伝授され日々練習をしていたのだと、笑いながら言う。

 サッカー界の至宝と呼ばれたフランスのジダン選手が、W杯決勝の舞台であり自らのサッカー人生終了の10分前に、ピッチの上で何を行い、どのように退場していったのか。行為そのものと、スポーツ選手としての是非については、あれこれ説明する必要はもうないだろう。が、なぜ彼があのような行為をするに至ったのか? 私たちはものすごく知りたかった。だって、あのジダンが優勝を棒に振って「パッチギ」だよ!


 朝日新聞は、7月13日の夕刊の三面記事の三分の二ほどを使い、ジダンがはじめてこの事件について、仏のテレビ番組で語った内容について、テレビ画面に映るスタイリッシュなカラー写真と共に、次のように紹介している。

ジダン、「頭突き」TVで釈明
テロリスト発言「まあそうだ」

<リード>
サッカーW杯の決勝で相手のイタリア選手に頭突きし、退場処分となったフランス代表主将のジネディーヌ・ジダン選手は、12日夜、仏テレビで「母や姉を傷つける言葉を繰り返され、耐え切れなかった」と釈明した。真相解明は国際サッカー連盟(FIFA)の調査に委ねられる。

<本文>
「言葉はしばしば(暴力)行為よりきつい。それは、私を最も深く傷つける言葉だった」
どんな言葉だったのかについては、「とても口には出せない」と伏せた。
英紙がマセラッティ選手の挑発として奉じた「テロリスト売春婦の息子」との発言の真偽を問われると「まあそうだ」と答えた。ジダン選手はアルジェリア系移民2世。
<以下略>


 沈黙したまま、私たちの前から姿を現したジダンは、その試合から3日後、テレビのインタビューで答えた。その模様は録画され、日本のテレビ番組でも編集され伝えられた。各紙新聞でも、大きく取り上げられた。私たちの多くはここではじめて、ピッチの内外に存在していた「人種差別」について、知ることになったのではないだろうか?


 全64試合を通して、センターサークルに掲げられた「Say no to racism(人種差別にノーと言おう」のメッセージについて、日本戦を見ていたどれだけの人たちが、注意を払っただろう。

 実はこの「人種差別反対キャンペーン」について、FIFAの公式ホームページには、6月3日にメディアリリースとして、掲載されている。
 日本語に訳されたそれは、約1700字。実に細かく、様々な「人種差別キャンペーン」について書かれている。全文については、
ホームページ http://fifaworldcup.yahoo.com/06/
jp/060603/1/5y5w_pf.html

を見て欲しいが、ここでその一部を抜粋する。
「FIFAは、かねてから人種差別問題に留意していたが、特にヨーロッパにおける最近の出来事により、断固とした拒否活動を至急、開始する必要があると判断した」として、「FIFAは決して看破できないこととして、信念を持ってこの問題に取り組むべきときがきたと考えている」とその決意を語っている。

 ちなみに、「ヨーロッパにおける最近の(人種差別的)出来事」は、開催地ドイツで起こったという、アフリカ系ドイツ人(ドイツ国籍保持者)が襲われ、重傷を負った事件も、その一つではないだろうか。

「FIFAワールドカップにおける移民と少数民族の社会的統合を図り、彼らマイノリティのサッカー試合の観戦、クラブでのプレー、あるいはクラブの応援への増進を図る」など、長々とかかれたプレスリリースの文面を見ていると、それだけピッチの内外で人種差別が深刻であったことが、だんだんとわかってくる。 しかし、それもやはり、「スーパースター、ジダンの頭突き」という行為があったから、そういった想像力も働くのである。


 準々決勝では、キックオフの前に各チームのキャプテンが、「サッカーと社会から差別撤廃の宣言文」を読み上げるプログラムも用意されていた。ジダンもこの「セレモニー」に登場した。私の知る限り、日本のテレビ局では、ここで始めて今回のこのキャンペーンについて触れて、簡単に説明をした。しかしただ、それだけであった。

 ジダンのこの行為によって、それまで「見ないふり」をしてきた協会をも、ようやく動かしたのでは、と思う。
「暴力」はサッカー選手にあるまじき反則行為であり、絶対にいけないということは「正論」である。しかし、「頭突きは、巨大な暴力への確かな抵抗」であり、ジダンは単なる差別反対の「セレモニー」だけで、全てを終わらせたくなかったのだろうと、解釈することは、不自然ではない。

 それに彼はサッカー選手らしく、ピッチの上での「抵抗」でさえ手を使わなかったではないか!

 ピッチの外に出て、ユニフォームを脱いでから喧嘩でも何でもやればいいではないか、という人もいるが、それでは本当の「暴力行為」になってしまうし、優勝後、記者会見でピッチ上の差別発言について言及する、もしくはFIFAを通じて改めて抗議する、という紳士的な方法もあったはずでは、という批判もちろんあることだろう。しかしもし、そうしていたとしたら、これほどまでに人々の関心を集めただろうか。

 FIFAは、20日、ジダンへの事情聴衆を行い(マテラッツィ選手への事情聴衆は、既に終わっている。一部報道によると、マテラッツィ選手のバカンスの都合で、前倒しになったのだとか)なんらかの処罰が同日中に、両選手、どちらかの選手に与えられるという。しかし、こういった行為が起こりうる状態を、放置させたままにしておいた、FIFAの責任も問われるべきではないかとも思う。


「差別は、している側には存在しない。差別は、されているものだけに存在する」

 朝日新聞の同じページに、スポーツジャーナリストの二宮清純さんの話として「ジダンの行為は、反差別を訴える、確信犯だったのでは」というコメントを、これまた「確信犯的」に出している。「移民社会の星であるジダンは、ゲームを引き換えにしてでも、そのことを訴える使命感を持っていたのではないか」「日本人選手も実は差別の対象になっていて、海の向こうの問題ではない」と、鋭く、私たちの足元にもある「差別にも気付けと」メッセージを出しているように受け止めた。
 私たちの足元にある差別とは、何も、日本人サッカー選手が欧米で受ける差別のことだけではない。国内におけるさまざまな差別についても、議論のきっかけにするべきだろう。

 居酒屋では、「ジダンのパッチギ」の話が、在日コリアンへの現在進行形の話へと、つながっていった。
 北朝鮮ミサイル発射の後、朝鮮学校の生徒たちは、集団登校をはじめているという。それは、無差別に行われる暴力から逃れるためである。無抵抗の小さな子供にも、突然ふるわれる暴力やイジメがあるのだという。在日コリアンだからという理由だけで。
「だからほんとうに今回の(ミサイル発射)は、みんな迷惑をしているんですよ。でも襲撃については、昔からのことなんでなれていますから」と、深刻ぶらずに笑うK氏だが、それは本当におかしな話だと思う。どうしてそんなことが、この国で繰り返し続けられているのか。

  他民族を排除する行き過ぎたナショナリズムは、これまで何を生み出してきたのか。
 それは、大きな悲しみと憎しみであり、戦争である。


(今週のキイ選定委員会)
 
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