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鈴木邦男の愛国問答:バックナンバーへ

鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男が「マガジン9条」の連載コラムに登場です。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて、
会いたい人に会いにいき、「愛国問答」を展開する予定です。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

※アマゾンにリンクしてます。

第7回「街宣の原点にかえれ」

 マイクの調子が良くない。係の人が必死に調整してくれる。それでもダメだ。そんなことが時々ある。市民運動の集会ではよくある。最近もあった。「どうもダメですね。肉声でお願いします。大きな声でやって下さい。右翼なんだから大きな声で怒鳴るのは得意でしょう」と言われた。失礼な。
 「じゃ、ハンドマイクは無いの?メガホンでもいいや」と僕は言った。市民会館の一室だ。そこで講師がメガホンで講演する。それもレトロでいいかもしれない。憲法を改正するか否か。左翼の人と討論していた。「言論の自由」が大きなテーマになった。マイクの故障で、まず考えた。「言論の自由」を行使する為の「道具」「武器」についてだ。
 右も左も、「言論の自由」は否定していない。その意味では憲法を守り、その「言論の自由」のもとで、言いたいことを言っている。

 自分の意見、思想を伝え、訴える時、昔は肉声でやっていた。それしかなかった。大きな屋敷やお城の中で大勢が集まった時も、肉声でやる。「忠臣蔵」の冒頭、赤穂城で皆が議論する。籠城か、城明け渡しか。いや、殿の仇を討つべきだ。いや全員ここで切腹するべきだと。何百人と侍がいたのだ。そこで話す。マイクもメガホンもない。大変だったと思う。当時の人々は皆、声が大きかったのだろうか。
 いや、周りが静かだったから結構、声が通ったのかもしれない。お寺の鐘だって何キロも離れた所にも聞こえたという。だから、鎌倉時代、日蓮が辻説法をしても、多くの人に聞こえた。見知らぬ一般大衆に向けて初めて話をしたのは、多分、坊さんだろう。その中でも日蓮は有名だ。いわば「街宣のルーツ」だ。
 町がうるさくなると肉声では通じにくくなる。メガホンを使い、ハンドマイクを使い、そして「街宣車」になる。
 車を使って訴えているのは何も右翼だけではない。自民党、民主党、社民党、共産党もやっている。左翼も、労働組合、市民運動もやっている。ちり紙交換や焼き芋屋もやっている(これは思想じゃないか)。
 街宣は街頭宣伝の略だ。だったら、左翼も全ての政党、労働組合も、皆「街宣車」のはずだ。でも、「街宣車」と言うと「右翼のもの」と思われている。だから、「選挙カー」とか、「情宣カー」とか呼んでいる。右翼なんかと一緒にされてたまるかと思うのだ。

 街宣車を発明したのは大日本愛国党総裁だった赤尾敏さんだ。数寄屋橋で、亡くなる寸前まで街宣をしていた。戦前は国会議員だった。だから国会議員の選挙活動として車を使っていた。初めは「選挙カー」で、それが街宣車になった。また、それを他の右翼の人たちが真似て、「街宣車」を作った。僕はずっとそう思っていたし、そう書いてきた。
 「いや、それは違います。順番が逆です」と、愛国党にいた人に言われた。街宣車が先で、政党の選挙カーは、赤尾さんの真似をしたのだという。これには驚いた。そういえば、選挙の時に車で訴えているのは日本だけだ。アメリカの大統領選挙でも、屋内でやるか、公園でやる。選挙カーで演説したりしない。ましてや車で連呼したりしない。他の国の選挙もそうだ。
 日本だって昔から選挙カーがあったのではない。戦前、戦争中はない。「60年安保」の危機を前にして赤尾さんが〈発明〉したようだ。安保反対で国会を取り巻くデモ隊は連日、20万人にものぼった。それに対抗して、右翼が何人か、あるいは何十人か行ったところで、すぐに粉砕されてしまう。声も届かない。
 「車にマイクを積んで、訴えたら堂々と渡り合える」と赤尾さんは思った。なかなかのアイディアマンだ。「街宣車は一千人の動員に勝る」と言ったという。「街宣車は、何万人という左翼デモに対抗する大砲だ」とも言ったという。元愛国党にいた人が教えてくれた。
 そうだったのか。圧倒的に大きな力に対抗する〈武器〉だったのか。武器といっても、レジスタンスの武器だったから、何十台も街宣車が走り、人々に脅威を与えることには反対していた。軍歌を鳴らして走ることにも反対していた。街宣車を使って企業や個人に圧力をかけることにも反対していた。なるほどと思った。
 だから、いつも車をとめて、マイクで演説をしていた。マイクを使った〈辻説法〉だ。その為に街宣車はある。それ以外の用途には使うべきでない。赤尾さんは、その姿勢をストイックに守ってきた。

 それを真似たのだ。いや、それに続いたのだ。政党の「選挙カー」も、労働組合、左翼、市民運動の「情宣カー」も。だから、全ては「街宣車」なのだ。少なくとも、赤尾さんの街宣車から、全ては始まった。実は、赤尾さんにとっては、「選挙」よりも「街宣」の方が大事だった。赤尾さんは戦後、何度も何度も選挙に出ていた。いや、あらゆる選挙に出ていた。戦前、国会議員だったことが忘れられなくて、それで立候補したのだろうと思う人も多いが、違う。
 再び国会議員になろうなどという夢はとうに捨てていた。それよりも街宣の方が大事だった。街宣命だった。
 選挙の時は、一般の街宣・情宣は出来ない。公職選挙法で決まっている。もしやったら、選挙妨害になって、逮捕されてしまう。だから赤尾さんは、選挙中も街宣をやりたいが為に、選挙に出たのだ。これは僕も生前、ご本人から聞いたから事実だ。
 昭和天皇がご病気の時、そして亡くなられたとき、右翼は皆、街宣をやめた。一切、やめて自粛したのだ。ところが赤尾さんだけは、やった。「こういう時だからこそ国民に訴えるべきだ」と言った。軍歌をならして都内をグルグル回るのは、けしからん。しかし、皇居から離れた場所で街宣するのには、何ら遠慮することはない、と言ったのだ。赤尾さんの方が、天皇の御心を体していたとも言える。また、競馬の「天皇賞」にも反対し、こんなものは廃止すべきだと言っていた。大相撲やアマチュアスポーツならまだしも、ギャンブルに天皇を利用してはならないと言う。今でも、なかなか言えないことだ。正論だ。

 街宣車というと、今は「衆を頼んで弱い者いじめをする」「怖い」「うるさい」というイメージが強い。しかし、本当は、巨大な敵に立ち向かう為の「弱者のレジスタンス」だったのだ。その原点にかえる必要があるだろう。

「怖い」「うるさい」イメージの街宣車に、
そんな「誕生秘話」があったとは!
「選挙カー」や「情宣カー」も含めて、
人を威嚇するのでなく「伝える」ための道具という原点を、
もう一度見つめ直してみる必要がありそうです。
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