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2012-10-31up

鈴木邦男の愛国問答

第111回

若松孝二監督のこと

 活字なんて無力だと思った。映画の表現力、影響力に比べたら、取るに足らない。『実録・連合赤軍』『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』と続く、若松孝二監督の映画を見て、特にそう思った。活字でいくら書き、説明しても、映画にはとても敵わない。勝負にならない。50年後、100年後の人たちが、連合赤軍事件や三島事件を知ろうとした時、理解しようとした時、いくら本を読んでも分からない。若松監督の映画を見るしかない。そこに、<事件>が再現されている。何よりも、出演した役者たちが、事件を追体験している。だから、映画を見ている観客も追体験できる。こういう表現媒体は他にはない。

 カメラは強力な武器だ。その武器を使って次々と映画を撮り、闘いを挑んだ。「映画を撮るということは国家に逆らうことだ」と若松監督は断言する。「国家が喜ぶような映画は撮らない」「死ぬまで反逆だ」とも言っていた。勇気のある監督だ。蛮勇と言ってもいい。その監督が亡くなった。10月23日(火)青山葬儀所でお通夜が行われた。10月24日(水)は告別式が行われた。皆、泣いていた。でも、出棺の時は、「よく頑張った。ありがとう」と、拍手で送った。監督本人が常々言ってたそうだ。「しめっぽいのは嫌いだ。俺が死んでもメソメソ泣くんじゃない。ご苦労さん。よく頑張った、と拍手で送ってほしい」と。それで拍手で送ったのだ。

 こんな凄い監督はもう出ない。日本映画はこれで終わりなのか。そう考えると暗澹たる気持ちになる。若松監督が撮ろうとしたものは多い。次は原発事故の映画をやりたいと言っていた。さらに、沖縄戦、731部隊、白虎隊も撮りたいと言っていた。これは告別式で親族代表の三女の尾崎宗子さんが言っていたのだ。その志を継いで、撮れる監督がいるのか。あるいは、日本映画そのものも、拍手で送り出し、別れを告げるしかないのか。

 告別式から3日後の10月27日(土)、阿佐ヶ谷ロフトで、若松監督を追悼する集まりがあった。もともとは、僕自身の「生誕祭・第2部」「言論の覚悟を語る」として借りていたのだが、急遽、追悼する集まりに変えたのだ。メインは足立正生監督だ。50年以上も若松監督の仕事上のパートナーだったし、若松監督の全てを知っている。若松監督の全仕事について。目指したもの。闘った敵。これから撮りたかったもの。…などについて詳しく聞いた。

 足立監督の他には、元赤軍派議長の塩見孝也さん。元赤軍派の金廣志さん。元戦旗派の椎野礼仁さん。オウム真理教幹部・村井秀夫さんを刺殺して、12年刑務所に入り、出所した徐裕行さん。『電通と原発報道』(亜紀書房)を書いた元・博報堂の本間龍さん。そして、若松映画に出演した人、関わった人が多数ゲストで出演してくれた。

 驚いたのは、上映された若松監督の一昨年の映像だった。2010年8月に、この阿佐ヶ谷ロフトで僕の「生誕祭」をやった。これが第1回目で、今年の8月に「第3回・生誕祭」をやり、さらに、しつこく<第2部>を10月27日にやったのだ。

 2010年の「生誕祭」には、他にも、パリ人肉事件の佐川一政さんや、元刑事の飛松五男さんなど凄い人たちが来ていた。元連合赤軍の植垣康博さん、青砥幹夫さん、雪野健作さん…なども来ていた。その中で、若松監督が言っていたのだ。エッ、こんなことを考えていたのか、と驚いた。

 この時は、『キャタピラー』がヒットし、寺島しのぶさんがベルリンで最優秀女優賞をとり、日本に凱旋帰国した直後だった。「これから三島の映画を撮る」と宣言していた。ただ、三島だけでなく、「70年代」全体を取り上げる、と言っていた。「山口二矢、永山則夫、三島由紀夫、そして野村秋介…。70年代に命をかけた男たちの闘いを撮りたい」と言っていた。エッ! と思った。永山則夫、野村秋介も撮るのか。でも、これでは膨大すぎる。それで三島由紀夫に収斂(しゅうれん)した。もしかしたら、永山、野村…は、続編を作るつもりだったのかもしれない。

 それに、三女の宗子さんが言うように、沖縄戦、731部隊、白虎隊…も撮りたいという。2年前から考えていたのだ。他にもあった。じゃ、10本以上の計画があったんだ。「いや、そうじゃない」と足立監督は言う。それらは全て、一つのものとして、頭の中にあったのだ」と。沖縄戦、731部隊は<戦争>そのものを見すえ、考える映画だ。その戦争が<現代>も続いている、と言うのだろう。でも白虎隊は、時代劇ではないか。全く別の時代だし、別の闘いだ、と思った。

 「ところが若松監督の中では、一つになっているんです。国家への反逆です」と足立監督は言う。若松監督は宮城県涌谷町の出身だ。東北を侵略した薩長軍への怒りがある。会津若松で闘って、若くして死んだ白虎隊への思いもある。国家への反逆ということで、現代へもつながる。だったら、なおのこと撮ってもらいたかった。

 この日、ゲストで来てくれた徐裕行さんは、若松監督に何回か紹介している。若松監督はオウム真理教にも関心を持っていたし、これも撮ってもらいたかった。一昨年のロフトで言ってないものに原発事故がある。去年の事故以来、「これは許せない。何とか撮りたい」と言っていた。その中に沖縄戦や731部隊、白虎隊も入ってくるのかもしれない。現代の話の中に、突然、時代劇の白虎隊も入ってくる。そんな映画を考えていたのか。広告代理店と原発の関係について本を出した本間龍さんも監督に紹介したかった。

 「追悼の集まり」の翌日、10月28日(日)、「ナショナリズムの誘惑」と題するシンポジウムを聞きに行った。「座・高円寺2」だ。出演は、安田浩一さん、木村元彦さん、園子温さんだ。安田さんは『ネットと愛国』を書いたジャーナリスト。木村さんは『オシムの言葉』を書き、旧ユーゴの内戦には詳しい。園さんは、今、原発事故を描いた映画『希望の国』がヒットしている。若松監督をどう見ていたのか、を聞いた。若松監督の撮り残したものを彼がやってくれるのかどうか。いや、映画作りの手法が違うのだし、それは無理かもしれない。水道橋博士も来ていたので、出演者の皆を含め、打ち上げで「若松監督なきあとの日本映画」について話し合った。

 その次の日、10月29日(月)、午後、本間龍さんと対談した。東電事故における広告代理店の責任について詳しく聞いた。又、この東電事故を若松監督は撮ろうとしていたし、果たしてどんな映画になっただろうかと話し合った。夜は、北区志茂の「いのちのギャラリー」に行く。「永山則夫 処刑15年特別展」が開かれていたので、ぜひ見なくてはと思ったのだ。膨大な本がある。読書ノート、作品ノートもある。中国の古典を随分と読んでいる。又、彼が寝ていた布団、着ていた服、下着なども展示されていた。

 この日は、『永山則夫 聞こえなかった言葉』(日本評論社)を書いた薬師寺幸二さん(元家裁調査官)の講演があった。貴重な話だった。「実は若松監督も永山則夫を撮りたいと言ってたんですよ」と言ったら驚いていた。どんな映画になっただろうか。見たかった。又、野村秋介さんをどう撮るのか、考えただけでもワクワクする。でも、その若松監督はもういない。誰か、撮ってくれる人がいるのだろうか。映画に比べたら、活字は余りに無力だ。でも、無力ながら、どこまで迫れるか。やるしかないだろう。そう考え続けている。

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10月17日、不慮の事故によってこの世を去った若松監督。
あまりに急すぎる死に、もっともっと作品を見たかった、
撮ってほしかったとの思いが募ります。
けれど、その「撮り残した」思いは、
鈴木さんを含めたくさんの人たちに受け継がれ、形になっていくはず。
心よりご冥福をお祈りします。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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