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2012-11-21up

鈴木邦男の愛国問答

第113回

姉の思い出

 「それにしても変だよ。この写真」と言われた。いろんな人に言われた。60年前の例の写真だ。僕は秋田市立保戸野小学校の3年生だった。桜組だ。その時の遠足の写真だ。何と、姉が付いてきている。一緒に写真に収まっている。

 前回書いたが、11月11日(日)、秋田で講演会に呼ばれ、その前に、小学校の同級生3人に会った。60年ぶりだ。3人とも僕のことはあまり印象にないという。今、何をしてるかも知らないようだ。ただ、「おとなしくて、弱々しくて、目立たない子供だった」という。それに、「遠足の時、姉ちゃんが付いてきてた。それで皆、覚えている」と言う。そんなはずはない、と言ったら、敬三君が「証拠」の写真を見せてくれた。

 60年前の写真だ。よく持っていた。確かに姉がいる。本当だ。それだけ、この弱々しい弟のことが心配だったんだろう。でも、この写真を見て、ホッとしたことがある。母親が5人ほど写っている。何だ、俺だけじゃない。他にも、「付きそい」がいるじゃないか。

 「でも姉ちゃんが付きそいなんて、お前だけだよ」と敬三君。そうか。この時、僕は8才。姉は12才上だから20才か。仕事はサボって来たのだろうか。勤めてなかったのか。まだ遊びたい盛りだろうに、頼りない弟が心配で遠足に付いてくる。申し訳ないと思った。「そんなに弟がかわいかったのかな?」「ただ、心配でたまらなかっただけじゃない」と同級生3人は話し合っている。

 他のお母さん5人は皆、年とっている。皆、着物を着ている。中には、お婆さんもいる。「いや、お母さんだよ。当時は子供が多かったから、最後の子供だと、この位の年になるんだよ」。そうなのか。その中で、担任の鎌田先生と僕の姉だけが異常に若い。そして洋服だ。

 会った同級生は1年から6年まで同じクラスだという。桜組だ。当時は遠足に母親が付いてくる、というのはあったようだ。「子供が心配で…」というよりは、自分も楽しもうという魂胆のようだ。昔の人たち(大正生まれ)だから、遠足に行ったこともないし、遊んだこともないのだろう。だから、付きそいという名目で、本人たちが楽しんでいたんだ。「でも、若い姉ちゃんが一緒というのはないよ。6年間にお前だけだ。保戸野小学校130年の歴史の中でも、お前だけだ」と敬三君が言う。

 そうか。<歴史的事件>だったのか。「姉ちゃんはクニオのこと、そんなに可愛がってたの?」と聞く。そういわれれば、よく面倒を見てくれた。映画に連れて行ってくれた。生まれて初めて見た映画が美空ひばりの出てる映画だった。ひばりも子役だ。それに姉はお琴を習っていた。「クニオ君もやってみる?」と言って、教えてくれた。「サクラ、サクラ」を弾けるようになった。2歳下に弟がいたが、いつも僕だけを可愛がってくれた。

 小学校5年の時に、姉は結婚し、函館に行った。でも、子供を連れて、よく家に帰って来た。僕が高校になると、「クニオ君は早稲田に入るべきよ。反逆心のある人にはピッタリよ」と言う。それで、早稲田を目指して勉強した。

 ところが、卒業間際に教師を殴って、退学になる。その時、姉は函館から飛んできた。「もう、どうなってもいい」と、すねている僕を必死になぐさめ、説得してくれた。「ヤケを起しちゃダメ! クニオ君はこの日本に必要な人になるのよ。だから、ここは我慢して!」と言う。そして姉に連れられて、学校の先生たちに謝りに行き、教会に通って懺悔の日々を送った。毎日、毎日、通った。姉が無理矢理、僕を連れて行ったのだ。何日も、何カ月も。半年位、通ったんじゃないだろうか。その間、姉は自分の家をほっぽり出して仙台に来ていたのだ。姉の家には旦那さんと息子が二人いる。それなのに、そっちを放り出し、頼りない弟のために全力を尽くしてくれたんだ。

 その甲斐あって、半年後に、復学が認められ、たった一人の卒業式だ。「じゃ、家に来て、東京の予備校に通いなさい」と姉。そうだ。この時、姉は函館から東京に移っていた。旦那さんの転勤で。姉の家の一室に住んで勉強し、早稲田予備校に通い、翌年、早稲田に合格した。こう考えると、全て、姉のおかげだ。予備校に入学する時も姉は付いてきたようだ。

 そんな話を、同級生3人にした。とても弟思いの姉だ。そのおかげで今の僕がある。

 「でも、それって、ちょっと異常じゃない?」と3人は言う。「弟を心配する姉」の気持ちを、はるかに超えてるという。兄弟姉妹は、もっとカラッとしている。喧嘩したり、仲よくなったり。「でも、クニオの姉ちゃんは度を越してるよ。お姉さんというよりは、まるでお母さんのようだな」と言う。エッ! と思った。確かに変だ。まるで母親が子供を可愛がり、心配するような愛情だ。

 「本当は、お母さんだったんじゃないの?」と言う人もいる。馬鹿な! と笑ったが、「ギクッ」とした。「昔は、結婚前に子供が出来ちゃって、仕方なくお母さんの子供にしてもらった、という話があるじゃない。それじゃないの?」「馬鹿な、馬鹿な。そんなのは小説の世界だよ。それに、姉は真面目だったし、男と付き合ったりしてないよ」「それはクニオが知らないとこでやってたんだよ」

 そうだ。年齢がある。姉は12才上だ。12才で子供を産めるはずはない。これが決定的な証拠だ。「でも、役所に行って戸籍謄本を調べたの? 本当は17才位上なんだよ。後でクニオが疑問に思わないように、12才上だと教えこんだんだよ」

 面白いね、その話。宮部みゆきの推理小説みたいだな、と大笑いになった。「当時は、きっとそんな姉と弟も一杯、いたんだろうな」と言って、楽しく酒を飲んだ。そして別れた。

 でも、別れてから、かえって心配になった。動揺した。「もしかして、お母さんだったんじゃないの?」と言われた冗談が、心に突き刺さっていた。「そうだったら面白いな」「小説になるな」と笑い飛ばしながら、でも、<あの事>を思い出していたんだ。それで、ギクッとしたんだ。

 小学2、3年は秋田にいて、4年から中学2年までは秋田県湯沢市にいた。父親の転勤で、東北地方を転々としたのだ。小学校6年生の夏だったと思う。赤ん坊を連れて姉は湯沢に来ていた。皆の前でも赤ん坊にお乳を与えている。遠足に付いてきた時は、あんなに清楚な姉だったのに。

 用事があって部屋に入ったら、姉が赤ん坊にお乳をやっている。あわてて閉めようとしたら、「クニオ君も飲む?」と言って、もう一つのオッパイを持ち上げた。な、なにを言うんだ、と顔を真っ赤にして、僕は逃げだした。

 変だよ、この姉は。と思った。姉のオッパイを飲む弟なんて、いるもんか。それに万が一、赤ん坊と二人で一緒に飲んでいて、そこに母が来たら、何と思うだろうか。いやらしい姉弟だと思うだろう。水をかけられるかもしれない。

 でも姉は何故あんなことを言ったんだろう。そして、秋田での同級生の言葉を思い出したんだ。もしかして…。顔を真っ赤にして逃げ出した時、姉は怪訝そうな顔をしていた。「どうしたの? 赤ちゃんの時はあんなに飲んでたのに」とでも言いたそうに。あるいは…。だから、あんなに僕に優しかったのか。姉だと思っていた人が母だった。そして母だと思っていた人は、おばあさんだった。ウーン、ますます謎が深まった秋田行きだった。

 でも一つだけ確実に言えることは、この姉がいて僕がいる、ということだ。母のように愛してくれた姉が今の僕を作ってくれた。単純なようで複雑で、でも単純で。よく考えているようで、でも、すぐ行動してしまう。それは姉の性格であり、僕の性格だ。僕は姉によって作られたのだ。

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前回に引き続き、60年ぶりの秋田里帰りのエピソード。
ナゾはナゾのままですが、
鈴木さんにとっては今回も、
自分の「原点」を再確認する旅になったよう。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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