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森永卓郎の戦争と平和
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第2回は、これからの経済のスタイルが作り出す社会について。
森永先生、不穏な動きを憂いていらっしゃいます。

第2回「合理的経済人」が唱える“争いを容認する社会”
 今回は、経済のスタイルと戦争への態度について考えてみたいと思います。
 いま、日本では「構造改革」と称して、日本経済をアメリカ型の市場原理主体の構造に転換していこうとする人たちが、主流となっています。
 これまでの日本社会は、この市場原理主義とは正反対の平等主義で、「曖昧な優しさ」の文化を持つ国でした。細かいルールを定めるのではなく、お互いに相手のことを考えて、できるだけお互いが傷つかないように、暗黙の了解で落としどころをみつけるのです。何か争いが起こったときも、間に入った人が「まあ、まあ落ち着いて」というのが基本的な解決方法でした。
 ところが、いま急速に日本に広がっている市場原理主義というのは、弱肉強食が基本です。だから、例えば簡単に解雇ができるようにしたり、経営者が自由に従業員の給料を下げられるようにしようと彼らは考えます。また、少しでも弱った企業はどんどん潰して、不良債権処理を進めたり、企業を敵対的M&A
(編集部注:企業の合併、買収)で乗っ取ったりすることも容認します。もちろん、市場原理主義は、何をやってもよいというわけではありません。公正で透明なルールの下でやらないといけないということになっています。ただ、それは逆に言えば、ルールさえ守っていれば、道義的に問題があることをしても構わないということなのです。また、ルールは大抵の場合、強者に有利になるように作られます。
 何かに似ていると思いませんか。そうです。日本の従来の経済・社会のあり方というのは、いってみれば平和主義の社会で、いま日本が向かいつつある経済・社会は争いを容認する社会なのです。
 興味深いことに、いま日本で「構造改革」を支持する人たちのほとんどが、憲法9条の改定に賛成していて、一方、従来型の日本の経済・社会を守ろうという人は、多くの場合平和憲法を守ろうと主張しているのです。
 なぜ、こうした違いが起こるのかといえば、根本的には他人への愛情の有無が原因なのだと思います。市場原理主義を唱える人は、自分あるいは自分の仲間のことしか考えていません。
経済学には「合理的経済人」という人が登場します。この人は、与えられた条件のなかで、常に自分に最も有利な行動を取ります。そうした人が現実のなかでも増えてきたというのが、いまの世の中の変化なのです。彼らは他人がどうなろうと関係ありませんから、戦争に一般市民が巻き込まれ、命や財産を失うことがあっても、心を痛めることがないのです。
 つい10年前まで、平和主義を唱えることは、当たり前のことでした。ところが、いまでは、そう言うと「平和ボケ」と言われてしまいます。つい10年前まで、平等主義を唱えることは当たり前のことでした。ところがいまでは、そう言うと「抵抗勢力」とか「時代錯誤」と言われてしまいます。
 日本は他人に対して愛情を持つことを否定する社会に向かっています。それは、いかに多くの日本人の心が、荒んできているのかを明確に表しているのではないでしょうか。
加速する「市場原理主義経済」の中で、
日本はどうあるべきなのでしょうか。次回は引き続き、
市場原理主義と平等主義のそれぞれが生み出す損得について
講義していただきます。お楽しみに!
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