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森永卓郎の戦争と平和講座
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第一次世界大戦後の1920年代と、バブル崩壊の1990年代から
今に続く日本の経済・社会は驚くほど似ていると、森永さんはするどく指摘。
その背景や原因について、経済学者の視点から解き明かします。

第4回“「苦しければ苦しいほど強いリーダーを求めてしまう。その先にあるのは、
不公平な所得の二極分化。そして・・・」”
今回は、構造改革派(市場原理主義)と戦争肯定派がなぜ重なるのかということを、日本の歴史から考えましょう。
 1920年代と1990年代の日本の経済・社会は驚くほど似通っています。
1920年代は、第一次世界大戦によるバブルの崩壊で、ゆるやかなデフレが続いていました。そこに1923年の関東大震災が追い討ちをかけ、1927年には金融恐慌が発生しました。
 1990年のバブル崩壊でも、1994年から日本経済は緩やかなデフレに陥りました。1995年には、そこに追い討ちをかけるように阪神大震災が発生し、そして1997年には山一證券や北海道拓殖銀行が経営破たんする金融危機が発生しました。
 デフレは経済を疲弊させ、国民生活は荒廃します。そこでは、経済不振を脱却しようとする模索が始まります。1920年代には、経済不振の原因は大正バブルで経済界についた贅肉が原因だということになりました。そこで、財界には、生産性の低い企業を整理して、より強い企業に生産を集約しようとする機運が生まれました。当時、それは「財界整理」と呼ばれたそうです。
 1990年代の日本でも同じような考え方が広がりました。特に、1999年の経済白書は、日本経済の再生のためには、雇用、設備、債務の「3つの過剰」の整理が必要という考え方を示したのです。この思想によって、問題企業を整理することや、リストラを行うことに錦の御旗が与えられました。
 ところが1920年代も1990年代も、デフレは思うようには解消しませんでした。街には失業者があふれ、生活はどんどん苦しくなっていったのです。
 そうしたなか、1929年に政友会の田中義一首相に代わって就任したのが、野党の民政党総裁だった浜口雄幸でした。浜口首相は就任と同時に改革に取り組みます。一つは、財政再建のための歳出カットです。軍事費の大幅な削減を含む歳出の徹底的な見直しを行うことで、就任の翌年度の予算を無借金で組んでしまうほどでした。もう一つの改革は、金本位制(編集部注:金を通貨価値の基準とする制度。出典元Wikipediaへの復帰でした。第一次世界大戦後の不況で、先進各国は金兌換(編集部注:きんだかん。金をオカネとひきかえること。)を停止しましたが、20年代末までに、ほとんどの先進国が再び金本位制に復帰していました。グローバルスタンダードへの追従を目指す浜口は、金本位制への復帰、しかも強烈な金融引き締めとなる旧平価での金本位制への復帰を断行しました。
 デフレのなかで、財政と金融を同時に引き締めたのですから、日本経済は激烈なデフレに陥りました。純粋に経済学的にみたら、浜口の採った政策は今世紀最悪の暴挙だったのですが、旧勢力との対決姿勢を貫いた浜口首相は、国民の間ではヒーローになりました。浜口は国民に言いました。
「明日伸びんがために、今日は縮むのであります。これに伴う小苦痛は、前途の光明のために暫くこれを忍ぶ勇気がなければなりません」。
浜口率いる民政党は大不況のなかでも、国民の圧倒的支持を集め、総選挙で圧勝しました。
イラスト1
何を言いたいのか、もうお分かりいただけたと思います。「改革なくして、成長なし」という言葉に未来の希望を抱いた国民は、結局、所得の二極分化のなかに沈んでいきました。それでも、いまだに小泉内閣の高支持率は続いています。
 人間というのは悲しい性を持っているようで、苦しければ苦しいほど、強いリーダーを求めてしまうのです。実はヒットラーも選挙で選ばれたのです。
 浜口雄幸は、凶弾に倒れました。しかし、国民の熱狂が創り出した全体主義が沈静化することはありませんでした。浜口が総理の座から退いたあと、軍部は満州事変へと暴走していくことになったのです。
 私は、この点だけは、歴史が繰り返して欲しくないと考えています。
悲惨な歴史を繰り返さないために、
私たちは過去から学び、心に留めておく必要があります。
森永さん、貴重な講義をありがとうございました!
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