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2011-07-13up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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ごめんなさい、おばあさん…

 しばらく被災地へ行っていたので、連載を1週間休んだ。ま、「時々」というタイトルだから、乞うご容赦。

 初夏の東北は、ハッと息を飲むほど美しい。青く広い空、真っ白な雲、ゆったりと濃い色を見せる山々。
 東北道を北へ走ると、福島の白河で「これよりみちのく」の看板に出会う。ああ、帰ってきたな、と僕は思う。なぜか心が緩やかにほどけていく…。それがいつものことだった。だが、今回は、違う。

 仙台の弟宅に泊まり、仙台市内から名取市、松島周辺、東松島市、石巻市と回った。車で走る限り、かなり復旧は進んでいるように見える。しかし、少し奥へ入ってみると、まだあの爪痕が消しようもなく残っていた。瓦礫の山からほんの数十メートル離れると、まるで何もなかったような家並みが続く。これは一体どういうことなのだろう?
 僕はもはや神など信じないが、もし存在するとしたら、神の基準はどこにあったのか? 倒れた家屋、飲み込まれた街、流された人たち。そして、いまも荒れ狂い続ける原発。

 弟宅は高台にあるので、津波の恐れはなかった。だが、ほんのわずかだけれど土台が崩れ、家の壁には亀裂が入っていた。土台だけは、ようやく大工さんに頼んで補修工事をしたという。
 「まあ、こんなもんで済んだんだから、神様に感謝しなくちゃね」と弟は言う。弟は、僕とは違って敬虔なクリスチャンだ。あの惨事の中にも希望を見ている。積極的に炊き出しのボランティア活動にも参加したという。彼は偉い。兄弟でも違うものだ…。
 弟宅周辺の高台でも、かなりの液状化現象が見られた。あの地震の巨大さが分かる。
 「もし女川原発がやられたら、ここにはもう住めないだろうなあ。村井知事は原発再稼動に前向きだっていう噂だけど、あの人、地震と津波のこの有様をみても、まだそんなことを言うのかなあ。もし本当なら、本気のバカだよねえ」
 その辺の認識は、兄弟だから同じか(苦笑)。

 この「お散歩日記」にはいつも、携帯写真を添えている。でも今回は、とてもパチリという気にはなれなかった。僕の写真は、絶対に真実を伝えられない。なぜかそんな気がした。僕には"見るだけ"しかできなかったのだ。

 仙台から、秋田の実家へ。
 母親が亡くなったのは、大地震のたった1週間前、3月4日のことだった。こぢんまりとした葬儀を済ませて、僕が東京へ帰ってきてすぐに大震災、そして原発爆発! 
 その後のことは、まるで毎日が悪夢の海のようだった。漂うだけ、流されるだけ…。毎晩のように冷たい汗をかき、ぐったりと目覚めた。大声でうなされ、隣の部屋のカミさんが心配して様子を見に来る、そんな夜が続いた。酒を飲んでもまるで酔えなかった。
 ようやく少し落ち着いてきた。原発はまるで落ち着く様子などないけれど、人間の“馴れ”というわけの分からない強さ。もしくは、“忘却”という防御本能。つくづく、人間ってしょうがないものだと思う。
 とにかく、母親の納骨を済ませなければならなかった。故郷で、姉とともに、墓へ詣で住職を頼んでお経を上げ、ようやくお袋の落ち着き先を作ってあげた。
 「遅くなってゴメン」と、詫びた。

 帰りに、気仙沼にも寄ってみた。印象は、同じだった。僕の目は、もうきちんと対象をとらえることができないのかもしれない。というより、そこにある潰れた家や傾いた屋根の奥に、実際にはいない人影を見てしまうのだ。
 頭の中の、幻影。やはり僕には、写真を撮ることができなかった。

 新聞には、時折、衝撃的な記事が載る。2週前のこのコラム(第51回)で、切ない遺書のことを書いた。比較することなどできないが、またしても涙ぐまずには読めない「遺書」を、毎日新聞(7月9日付)が報じていた。
 タイトルはこうだ。「原発悲観 南相馬の93歳女性 お墓にひなんします」。なんという…。

 「私はお墓にひなんします ごめんなさい」。福島県南相馬市の緊急避難準備区域に住む93歳の女性が6月下旬、こう書き残し、自宅で自ら命を絶った。東京電力福島第1原発事故のために一時は家族や故郷と離れて暮すことになり、原発事故の収束を悲観したすえのことだった。遺書には「老人は(避難の)あしでまといになる」ともあった。(略)

女性が家族に宛てた遺書の全文
(原文のまま。人名は伏せています)
 このたび3月11日のじしんとつなみでたいへんなのに 原発事故でちかくの人達がひなんめいれいで 3月18日家のかぞくも群馬の方につれてゆかれました 私は相馬市の娘○○(名前)いるので3月17日にひなんさせられました たいちょうくずし入院させられてけんこうになり2ヶ月位せわになり 5月3日いえに帰った ひとりで一ヶ月位いた 毎日テレビで原発のニュースみてるといつよくなるかわからないやうだ またひなんするやうになったら老人はあしでまといになるから 家の家ぞくは6月6日に帰ってきましたので私も安心しました 毎日原発のことばかりでいきたここちしません さようなら 私はお墓にひなんします ごめんなさい

 家事は何でもこなし、日記もつけていたという93歳のお年寄り。多分、まだまだ長生きをして、残された日々を田園のそよ風と共に過ごすことができたはずだ。記事にはこうもある。

 奥の間に置かれた女性の遺影は穏やかに笑っている。近所の人たちが毎日のように訪ねてきて手を合わせる。「長寿をお祝いされるようなおばあちゃんが、なぜこんな目に遭わなければならないのですか…」。遺書の宛名に名前のあった知人が声を詰まらせた。

 ほんとうに、そう思う。このおばあちゃんは、なぜ死ななければならなかったのか。飯舘村では、4月12日に102歳のおじいさんが自殺している。この人も、原発への恐れと避難指示が原因だったようだ。
 102歳、93歳。普通なら村長さんや市長さんから長寿のお祝いをいただくくらいのめでたい人生だったはず。それが、ひとり寂しく旅立って逝く。「あしでまとい」にならないように、と…。
 おばあさんは「ごめんなさい」と書き遺した。しかし、ほんとうに「ごめんなさい」を言わなければいけないのは、絶対にこのおばあさんではない。原発を造り続けた連中と、それを黙認してきた人たち、そして阻止できなかった我々…。

 何度も、何度でも繰り返すが、原発さえなければ失われなくてよかった人生だ。「自殺」とはいうけれど、これは「殺人」だと僕は思う。責任者は数億円の“退職金”を得て“幸せな忘却の彼方”へと去っていく。やはり赦せない! と、強く思う。
 同じ毎日新聞の記事の横に、気になるデータが載っていた。

 警察庁の統計(速報値)によると、4~6月の福島県内での自殺者は160人。昨年同期と比べ岩手県(105人)、宮城県(130人)が減ったのに対し、福島は約2割増えている。飯舘村では4月12日に家族と避難の話し合いをしていた102歳の男性が自殺。今月1日には川俣町の計画的避難区域で一時帰宅中の58歳女性が焼身自殺したとみられるなど、避難にかかわる例が目立つ。(略)

 この記事では、「避難にかかわる例」と書いているが、避難は震災3県にとって同じことだ。だが、避難の内容が違うのだ。同じように震災に遭った3県で、なぜ自殺者の増減に差があるのか。答えは自明、原発事故だ。間違いない。
 地震と津波は、確かに甚大な被害をもたらした。しかし、原発による放射能汚染がひどい地域とそれほどでもない地域では、避難の意味が違う。故郷へ戻ってなんとか暮らしを立て直そうとする人たちは、もう一度希望を持って立ち上がることができる。だが、もはや故郷には戻れない人々に、そういう希望はない。戻れないのだから…。
 原発事故由来の自殺者は、もっと多数に上るだろう。調べてみないと分からないけれど、それは確かだ。
 放射能汚染の心配でウツ状態に陥っている人の話はかなり聞く。実は私のカミさんの係り医は、「このところ、診察に来る患者さんの3分の1の方には、安定剤か睡眠導入剤を処方しているんですよ」と言っていたという。東京でさえそうなのだから、福島県などでの状況は想像がつく。

 故郷喪失。
 かつて室生犀星がうたったように、たとえ「故郷は遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの…」であったとしても、そこに故郷は確かに存在した。そこに人々が暮らしていた。だが、もはや放射能汚染に追われた人たちに、故郷は、ない。故郷には、誰も暮していない。
 こんな悲劇があるものか。
 僕は、やはり原発を憎む。そして、疑問の声に耳塞ぎ、金と権力で列島を原発漬けにした連中をも…。

 暴走し始めた原発を止めることは、人間にはほとんど不可能だ。だが、止めなければこの国は滅ぶ。いや、もう滅びの過程に入っているのかもしれないが…。とにかく、なんとか冷温停止までもって行こうと、必死の努力は重ねられている。
 しかしそれは、まるで「シーシュフォスの神話」のような徒労の積み重ねに終わるかもしれない。それでもやるしかない。それを示す記事を見つけた(朝日新聞7月10日付)。

廃炉に数十年 東電、中長期工程案
 東京電力福島第一原子力発電所の事故で、東電と原子炉メーカーが検討している廃炉に向けた中長期的な工程表案が明らかになった。早くて3年後に使用済み燃料プールから燃料の取り出しを始め、10年後をめどに原子炉内の燃料を取り出し始める。原子炉を解体して撤去する廃炉まで、全体で数十年かかるとしている。(略)

 最速でも原子炉内からの燃料取り出しは10年後以降。最終処理には数十年かかる、というのだ。しかし、これはあくまで机上の案。
 汚染水浄化という最低限のシステムさえ、すでに8度ものトラブル停止を繰り返している現状だ。プールの水温が予定通り下がったままに推移するという確信など、誰も持ててはいないのだ。
 むろん、東電や東芝の社員たちだって、確信があってこんな「中長期的工程表」を作成したわけではない。2度にわたる工程表が、もはや現実と合わなくなったので、作成しただけのこと。
 原子炉内の核燃料にいたっては、現在どういう状況にあるか、それすら把握できていない。初期のころの「原子炉損傷の恐れ」が「爆発的事象」に変わり、やがて3ヵ月も経ってから、ようやく「メルトダウン」を認め、さらには溶けた核燃料棒が原子炉を突き破り、地下へ潜り込んでいるという「メルトスルー」段階に至っていることまで認めざるを得なくなっている。
 だからこの工程表案は、「こうなったらいいなあ」という、希望的観測が大部分を占めているといっていい。数十年かかっても、ほんとうに廃炉にまでもっていけるかどうか…。
 考えてみれば、こんなひどい話もない。いまこの案を作っている人たちは、数十年後(多分、50年単位の時間が必要)にはほとんど生きてはいまい。ならば自らの“死後の世界”を検討しているのか。丹波哲郎か、お前は、とでも言いたくなる(すみません。こんなギャグでも入れなければ、話が重過ぎる)。
 もっと敷衍すれば、自分たちが生きている間には処理できないもの(つまり原発)を、疑問や危険性を指摘する声を徹底的に無視して造り続けた人々、電力会社、後押しした政治家、それにお墨付きを与えた学者、安全性を考えもなく触れ回った文化人や芸能人、金で買われたジャーナリズム、それらの責任はきちんと取らせなければならない。それなくしては、原発事故のゆえに命を絶った人たちは救われない。

 それにしても、自分が生きているうちに始末の付けられないものを造り続けた人たちの心底を、僕は疑う。
 「オレが生きているうちは、事故なんて起こるはずがない」→「事故が起きるとしても、オレが生きているうちでなければ、まあいいか」→「もし事故が起こったとしても、オレの責任じゃない」。
 原発造りに狂奔した人たちの心根がそうでなかったことを、僕は祈るばかりだ。

美しい初夏の東北だけれど

夏が来た。ひまわりも咲いた

またまた脱原発ポスター・ギャラリーを

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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