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2011-12-21up

時々お散歩日記(鈴木耕)

75

「事故収束」と「晩発性障害」

 原稿を書き始めようとしたら、北朝鮮の金正日総書記の訃報がネットに流れてきた。驚いてテレビをつけた。本当だった。
 世界は揺れている。朝鮮半島、そしてアジアの情勢も、来年はもっと大きく動くだろう。日本はどうなるか。僕にはまるで予測がつかない。ただひとつ言えるのは、さほど明るい2012年にはならないだろう、ということ。どう考えても、この国が好転する兆しはない。

 ようやく2011年が終わる。僕の感覚では“ようやく”だ。僕もずいぶん長い間、生きてきてしまったが、こんなに酷い辛い厳しい年はなかったと思う。それは僕にとって、というのではなく、被災された人たち、原発周辺区域から逃げざるを得なかった人たち、逃げることもできずに汚染された土地に留まらざるを得ない人たち、子どもの未来を案じて眠れぬ夜を過ごしている母親たち、その苦しみを共にし始めた父親たち、事故原発の現場で苦闘している作業員やその家族の人たち、もっともっと多くの、この国に暮している人たちすべてにとって、辛く厳しい年だったのだ。

 僕は、あの3.11以来、このコラムをすべて原発関連の記事で埋め尽くしてきた。しかし、それだけでは足りない。他の雑誌や本でも、原発に関して書いてきた。それでもなお足りない。
 だから、震災前から何気なく始めていたツイッターを武器にした。日記をつける習慣を持たない僕は、ほとんど毎日のように、日記代わりに呟き続けた。飽きっぽい僕には珍しいことだが、それが今も続いている。
 もうじき2011年は終わる。新聞もテレビも「今年を振り返る」というような特集を組み始めている。去年までなら僕も、自分のことや社会や政治の出来事などを回顧する“お気楽コラム”を書いていただろう。
 でも今年はそんな気にはまるでなれない。何を書こうが、原発が頭から離れない。それが、淋しい僕の「この1年」。

 残念だけれど、年の終わりに触れなければならないことは、まだたくさんある。それも腹立たしいことばかり。もう書くのもアホらしいが、12月16日、野田首相は「福島原発事故“収束”宣言」をした。小出裕章さんはそれを聞いて、「呆れた人たち」と言ったまま、絶句したという。いわゆる推進派の学者からも「収束という言葉を使うのは疑問」との声が出ている。
 多分、日本中で原発事故が“収束”したと思っている人は、1%もいないだろう。いや、日本だけではなく、海外のマスメディアからも、野田首相は「ウソツキ」呼ばわりをされる始末だ。もし野田首相が本気で“収束”を信じているとするのなら、言葉は悪いけれど、彼は正気とは思えない。

 言葉の真の意味での「冷温停止」とは、きちんと制御棒が挿入されて圧力容器の中の核反応を止め、それによって温度が下がっている状態をいう。ところが野田首相の使ったのは「冷温停止状態」という紛らわしい言葉。いかに恥知らずとはいえ、さすがに「冷温停止」とは言えなかったから、それに「状態」をくっつけて、あたかも事故収束が成功したような“真っ赤なウソ”をついたのだ。官僚の入れ知恵らしい。
 核燃料は溶融して原子炉圧力容器を突き破り、その外側の格納容器の底部コンクリートの中へまで潜り込んでいる可能性がある、と東電は発表した。だとすれば、そこはいまだに熱を発し続けているだろうし、かなりの放射性物質がいまだに放出されているかもしれない。人間が近寄れないその部分の状態がどうなっているかを知っているのはただひとり、全能の神だけだ。野田首相よ、あなたは全能の神なのか? 神でないとすれば、やっぱりウソつきと言われても仕方ないだろう。
 国家の最高責任者がウソをつく。そんな国家が、まともであるはずがない。我々の国は、残念ながらそんな状況にある。 当然のことながら住民の怒りは収まらない。そのため、批判された細野原発事故担当相は、すぐに謝ってしまった。だが、謝りはしたが「収束宣言」は取り消さない。「謝って済むなら警察は要らない」とバカなフレーズをぶつけてみたくなる。東京新聞(19日)の記事だ。

細野原発相 「事故収束」表現を陳謝
「厳しさ続く」福島知事 不快感

(略)政府が宣言した「事故収束」について、細野豪志原発事故担当相は十八日、佐藤雄平福島県知事らとの会談後、記者団に「『収束』という言葉を使うことで事故全体が収まったかのような印象を持たれたとすれば、私の表現が至らず、反省している」と陳謝した。(略)

 ナニコレ? 「収束」というのであれば、事故全体が収まったと誰だって思うだろう。それは「表現の問題」などではない。事故全体が収まっていないというのなら、その「収束宣言」を取り消すべきではないか。当たり前の理屈だ。もうわけが分からない。言っている細野大臣自身もわけが分からなくなっているのだろう。わけの分からない上司(野田首相)の発言を踏襲せざるをえない部下の悲哀か…。
 記者の問いかけに「言葉尻を捉えるのはどうかと思う」と開き直り、ついには会見を途中で打ち切って会見場から逃げるように立ち去った細野大臣。記者の「きちんと説明しなさいよ。国民に失礼じゃないですか!」という罵声に近い質問に、顔をこわばらせたままの退場だった。
 むろん、細野大臣だけではない。野田首相本人の記者会見もひどかった。フリー記者の質問に、明確な返答もせずに次ぎの質問者を指名。「答えていないじゃないですか」との声も無視したまま。答えようがないからなのか、厚顔無恥なのか。

 政府はこの「収束宣言」に併せて、避難住民の帰還を図るために、3つの地域区分をするという方針を発表した。毎日新聞(19日)にはこうある。

 政府は18日、東京電力福島第1原発事故に伴い設定した警戒区域と計画的避難区域について、早ければ来年4月1日にも見直し、被ばく線量に応じ新たに三つの区域に再編する方針案を地元自治体に示した。(略)
 新たな3区分は▽年間20ミリシーベルト未満の「避難指示解除準備区域」▽年間20ミリシーベルト以上50ミリシーベルト未満の「居住制限区域」▽現時点で年間50ミリシーベルト以上の「帰宅困難区域」。(略)
 避難指示解除準備区域では、当面避難指示を維持しつつ、子どもの生活圏の除染や生活インフラ復旧の進捗状況を踏まえ、段階的に解除する。(略)

 僕はモーレツに腹が立つ。実は、細野事故担当相は、19日の朝日新聞のインタビューで、こんなことも言っているのだ。

(略)「(被曝量が)100ミリシーベルトを上回れば疫学的にがんの発生率が高まる。それ以下なら他の要因に紛れ疫学的な数字として表れないくらいリスクは小さい。20ミリシーベルトのところで生活しても実際の被曝量は4~5ミリシーベルトとされる。(略)一番気になるのは子どもへの対応だ。学校の再開基準として(校庭の空間線量が)毎時1マイクロシーベルト以下を条件とすることはあり得る。(住民が戻れるのは)来春から年央(6~7月ごろ)だろう。

 ひどすぎないか、これは?
 「年間被曝量が100ミリシーベルト以下なら疫学的な数字としての影響は表れない」と細野大臣は言う。晩発性の放射線障害についての認識がまったくない。誰に吹き込まれたのかは知らないが、恐れ入った見解だ。さらに、「他の要因に紛れる」とは「たとえ癌などが発病しても、放射能のせいだとは断定できない」と開き直るよ、と言っているに等しい。数年後(数十年後)に、日本全国で多くのがんや白血病、その他の疾病が発生したときに「これは福島原発事故とは関係ありません」と逃げるための準備を、いまからしているとしか思えない言い分だ。
 チェルノブイリ周辺では、事故後25年経った現在でも、多くのがんが発生しているし、事故後に生まれた子どもたちにも心臓病その他の多くの疾病が発生していると、現地の医師や多くの権威ある調査機関が指摘している。新聞でも報道されているし、文献もたくさんあるではないか。
 放射線被害は、10年20年経った後でも終わらない。それが晩発性障害ということであり、放射能の恐ろしさなのだ。細野大臣は、それを知らなかったのか、それとも知っていて無視したのか。

 さらにもうひとつ、この住民帰還方針案の問題点を指摘しておかなければならない。
 むろん、20ミリシーベルトが人間の居住地域にふさわしい値とは、決して言えないが、それを100歩も1000歩も譲って認めたとしよう。だが、子どもに関しては絶対に認めるわけにはいかない。大人の耐性と子どもの感受性を同列に扱うことなど、絶対に許されない。
 それは細野大臣も分かっているのだろう。インタビューで「一番気になるのは子ども」と言っているのだから。その上で「学校再開基準の条件を毎時1マイクロシーベルト以下にすることはあり得る」と言う。なぜ、この言葉の矛盾に気づかないのか。
 細野大臣の方針に従えば、大人は年間20ミリシーベルト以下、子どもは毎時1マイクロシーベルト以下、というのが基本案になるのだろう。
 子どもに関しては、政府がかつて「0.38マイクロシーベルト/毎時を基準値とする」としていた。0.38マイクロシーベルト/毎時を年間積算量に換算すれば約1ミリシーベルト。つまり、子どもの基準値は年間1ミリシーベルト以下であったはずだ。それを、なぜか突然「(校庭の空間線量を)毎時1マイクロシーベルト以下に」と、細野大臣は言う。0.38マイクロシーベルト→1マイクロシーベルト。約3倍に、いつの間にか子どもの基準値は上げられた! おかしいではないか!! これでは、子どもの年間基準値は3ミリシーベルトを超えてしまう。かつての1ミリシーベルト以下、という基準がなし崩し的に緩められてしまっている。

 故郷への帰還ということになれば、当然、家族一緒に帰るというのが前提だろう。親子揃っての帰還。それが実現できて、ようやく「事故収束」の実感が湧く。政府はその実績をアピールしたいために、さまざまな策を弄する。汚染区域を3つに分ける、というのもその一環だ。だが、20ミリシーベルト/年は、子どもの許容量をはるかに超える。20ミリ以下になったといっても、子どもと一緒の帰還など無理なのだ。
 20ミリシーベルトを子どもに当てはめては絶対にいけない。子どもは大人に比べて、はるかに晩発性の放射線障害を受けやすい。帰還基準の被曝量の値を、政府の都合(事故収束のアピールのため)で緩めてはいけないのだ。政府のメンツのために、故郷への帰還を急がせてはならない。

 僕は3.11以降、さまざまな資料を集め始めた。新聞や雑誌記事、ネット上で得たデータ、知人からの情報資料…、それらをスクラップしてきた。いつの間にか10冊を超えた。資料を確認すればするほど、厳しい現実にぶち当たる。切なくなる。元気が出ない…。

 元気が出そう、という展覧会があった。近くの美術館で開催されている「石子順造的世界―美術発・マンガ経由・キッチュ行」だ。60年代末~70年代という時代を、既成藝術の枠を超えた視点で捉えた、なんとも熱い展覧会。会場内での撮影もOK(一部だが)というのもユニーク。今回は、その写真も掲載しておこう。
 少しでも元気を奮いたたせ、原発を止めるために…。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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