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いま、山本周五郎が経営者だったら。企業のセーフティネット化を考える。【2】斎藤駿(カタログハウス相談役)

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赤ひげ診療譚(昭和33年)

 『赤ひげ診療譚』の第6話『鶯ばか』はこんな話です。

 日雇いで生計を立てている五郎吉一家は31歳の五郎吉と30歳のおふみ夫婦に子どもが4人の6人家族。長男はまだ8歳で末っ子は2歳。診察しにいった赤ひげの弟子、保本登になついてくれたのは7歳の次男、長次で、今度来てくれるときには銀杏の実を拾っておくからねと言ってくれます。

 その五郎吉一家が突然、殺鼠剤をのんで一家心中を計ります。心中の発見者は隣家の女房、おけい。

「あたしとおふみさんは、きょうだい同様につきあって来たんですよ、先生、こっちもその日ぐらしだから、力になるなんて口幅ったいことは云えやしない、けれどもこれまではどんな些細なことでもうちあけあい、相談しあって来たんです、本当に一皿の塩、一と匙の醤油も分けあって来たのに」おけいは嗚咽をかみころすために、ちょっと黙った、「きょうだいより仲良くやって来たのに、生き死にという大事なことがどうして云えなかったんでしょう、子供まで伴れて死ぬほどのわけがあったんなら、一言ぐらいこうだと云ってくれてもいいんじゃありませんか」

 皮肉なことに夫婦だけは助かる見込みですが、子どもたちはつぎつぎに死んでいき、残るは長次のみ。その長次が苦しい息の下から家計を助けるために盗みをしたと保本登に打ち明けます。「だから、とうちゃんとかあちゃんが怒って、もうだめだって、おれのような、泥棒をする子が出ちゃって、近所で泥棒だって云われちゃえば、もうおしまいだって、それでみんなで、死ぬことになったんだ、水を飲まして」。映画化されたときの頭師佳孝の名演技が目に浮かびます。

 その長次も明け方に死にます(黒澤明の映画では両親を死なせて長次だけ生き返らせました)。このあと、おふみはうれしそうに、子どもたちが死んでくれたおかげで、いつ、どこででも夫婦だけで死ねると呟きます。

「生きて苦労するのは見ていられても、死ぬことは放っておけないんでしょうか」おふみは枕の上でゆらゆらとかぶりを振った、「――もしあたしたちが助かったとして、そのあとはどうなるんでしょう。これまでのような苦労が、いくらかでも軽くなるんでしょうか、そういう望みが少しでもあったんでしょうか」

 こうやって書き写していて、ふと09年10月7日にNHKで放送された「助けてが言えなくて餓死した若者」を思い出しました。失業し、収入を失い、借金に追い立てられても友人たちに「助けて」を言えなくて、自宅に閉じこもったまま餓死していった若者はおそらく、このおふみと同じようなことを考えていたんじゃないか。「いっとき助かっても、またこれまでのような苦労がつづくんだ」と考えて死を選んだのではないか。右のおふみの述懐の部分を書き写していて、私は不覚にも涙を流しました。

 読者が小説で泣くことの意味って何ですか?

 いっとき涙で心のもやもやを洗い流して、ああ、さっぱりしたという一過性の心のクリーニングですか。それはそれでいいと思うけど、泣かされたあとで自分を泣かせるもとになった要因に対して憤る泣き方も必要ではないですか。もっとも、その場合は作者自身が憤りながら書いてくれないと読者を泣かせることはできませんけどね。

 山本周五郎は貧乏に対して、貧乏を放置したままの権力(国)の冷淡さに対してもっとも強く憤る小説家でした。戦前の憤る小説家が小林多喜二に代表されるとしたら、戦後のそれは山本周五郎でした。

 昭和33年は『樅の木は残った』の書き下ろし分(最終第四部)が完成して単行本化された年であり、『赤ひげ診療譚』がオール讀物に連載された年です。どちらも山本周五郎の代表作ですが、どっちか選べと言われたら、私は後者に軍配を上げたいですね。作品の密度や完成度から見れば明らかに前者が上ですが、この種の史実物はたぶん他の作家でも書けますもの。

 しかし後者は他の作家には書けません。小学校を卒業するとすぐに質屋の住み込み店員として働き出した山本周五郎にしか書けません。この年には傑作短編『ちゃん』も執筆されていますから、作家としてはもっとも脂ののった時期だったと言っていいでしょう、周五郎、55歳。私、23歳。大学は出たけれど、今と同じように企業からの求人は極少数で、学校の成績がわるかった私は入社試験のチャンスすら与えられず、新聞の三行広告で見つけた小さな出版社の求人にやっと合格して勤めはじめた頃。リアルタイムでこの小説を読んで感動した一人です。

 『赤ひげ診療譚』は8話から成る連作小説です。幕府が享保7年(1722年)、貧困層向けにつくった年間予算たった750両の粗末な施設である小石川養生所。そこの所長、赤ひげこと新出去定とインターンの若者、保本登の2人が病気と貧乏に取り組んでいく物語です。

 昭和33年はまだまだ大半の読者が貧乏だった時代。そんな時代に貧乏をテーマとする小説を書くことは、大衆小説の作家にとっては容易な作業ではなかったはずです。読者は貧乏という現実を忘れたいために大衆小説を読むわけですからね。

 貧乏をエンターテインメントに昇華させた作家と言えば、まず思い浮かぶのがチャップリン。かれは金持ちへの諷刺、弱者同士の連帯を身体ギャグによる視覚的な「笑い」で表現しました。

 わが国では貧乏のエンターテインメント化と言えばお涙頂戴仕立ての「泣かせる」が相場でしたが、山本周五郎の場合は「憤り」でした。貧乏に苦しめられていた昭和30年代の読者の憤りを代弁することで、山本周五郎の市井物は強い共感を獲得したのでした。

「――現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無智に対するたたかいだ、貧困と無智とに勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかはない、わかるか」
 それは政治問題ではないかと、登は心の中で思った。すると、まるで登がそう云うのを聞きでもしたように去定は乱暴な口ぶりで云った。
「それは政治の問題だと云うだろう、誰でもそう云って済ましている、だがこれまでかつて政治が貧困や無智に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」
「しかし先生」と彼は反問した、「この施薬院……養生所という設備は、そのために幕府の費用で設けられたものではありませんか」(第2話・駈込み訴え)

 赤ひげ、つまり山本周五郎は、「幕府はもちろん、世間の富者もかれらのためにはなにもしてくれはしない。貧しい者には貧しい者、同じ長屋、隣り近所だけしか頼るものはない」(第8話・鶯ばか)と言いながらも、やはり幕府(国)が積極的に乗り出さなくては貧困問題は軽減できないと考えているのです。だから幕府からの予算が削られれば大名たちから法外な診療代をとって養生所の運営を支えているのです。

 そんな赤ひげの権力への憤りはとてもまっとうな憤りだと思うのですが、この憤りを「とても読むにたえない」とする批評家がいたのには心底びっくりしました。数年前に亡くなられた向井敏さんです。私はこの人のエッセイや文章論が大好きだっただけに、この「読むにたえない」は実に残念です。向井敏さんは山本周五郎のどの部分が読むにたえないと思ったのか、ちょっと紹介しておきます。

 主人公は若いインターンで、治療を通して精神的に成長していく形式をとっていること、かれには師と仰ぐ人物がいること、そしてかれの名前がともに「登」であることから、向井さんは藤沢周平の『獄医立花登手控え』(昭和55年)と『赤ひげ診療譚』を並べて『二人の登』という批評(『海坂藩の侍たち』平成6年所収)を書いています。

「保本登という若者は、そしてこれは山本周五郎の作品の多くについてもいえることだが、怒るにも、嘆くにも、くやむにも、決断するにさえ、およそはこんな調子で、むやみとねばっこく、ひたすらくどい。そこへもってきて、ねちねちとした人間講釈や人生論議をしきりにぶつものだから、私などは読みながらしばしば立往生した」
「赤ひげの言動を通じて、医者らしい医者のあり方を学びとっていくのだが、その認識の仕方がとかく大げさで理屈っぽくて、医は仁術であると口ばしったり、医を立身出世の手段とみなしてきたかつての自分を鞭打ったりする」

 それに対して、『獄医立花登手控え』の立花登は「なみなみでない鬱屈を抱えた若者」であるにもかかわらず、「遭遇した状況を自然体で受け入れ、そのなかから活路を見出そうとする」、「一口でいえば、立花登は根が向日性の人間なので」、「保本登であれば挫折感にうちのめされるであろうような局面にたたされても少々の難儀ぐらいに格下げてしまう」とほめちぎります。

 藤沢周平の「立花登」はインターンであると同時に起倒流という柔術の達人です。この作品は、小伝馬町の牢に収容されている囚人たちの背後にひそんでいる悪党たちを登の推理力であぶり出し、剣や匕首をひらめかせて襲ってくる悪党たちを登の起倒流で片っ端から成敗していく姿三四郎もどきの捕物帖です。

 この捕物帖が書かれた昭和55年(1980年)はいわゆる一億総中流社会がはじまった頃で、自動車の生産量が初めて世界一になった年、自民党の議員がラスベガスの賭博で4億円もすって議員辞職した年、トラック運転手が道端で1億円を拾った年でした。そんな世相のせいでしょう、こちらの登の関心はもっぱら事件の解明に向いて、江戸時代の庶民を苦しめていた貧乏は(向井さんの言葉を借りれば)「少々の難儀ぐらいに格下げて」されています。

 たとえば第二話で捕物の結果、孤児になってしまった盲目の少女がいます。一体、この子の行末はどうなるんだろうとハラハラしながら読んでいくと、長屋の隣家の女房が引き取って育ててくれることになったとあっさり片づけているので拍子抜けしてしまいます。江戸時代の庶民にとって、一人分の養育費はずいぶん重いものだろうに、そんなにあっさり引き取ってしまって隣家の生計は成り立つのかといった心配は、作者にも読者にもなくなっていた時代の作品なのです。

 向井さんはやたら立花登の明るさをもち上げていますが、藤沢周平の作品に出てくる明るい青年像は、そもそもは山本周五郎が開発してきた明朗闊達、春風駘蕩な青年たち――『おもいちがい物語』の典本泰助とか、『ひやめし物語』の柴山大四郎とか、『彦左衛門外記』の五橋数馬とかの亜流なんですね。藤沢周平が市井小説を書き出したとき、私たち読者が山本周五郎とよく似ているなと感じた理由には、幸薄い女性像だけでなくて、こんな明るい青年像もあったからでした。

 率直なところ『獄医立花登手控え』は藤沢周平の作品の中では最低レベルの作品です。連作一回当りの短い頁数で事件を発生させ、犯人を探り当て、クライマックスの捕物にもっていく、おまけに叔父一家とのつき合いまで書きこまないといけないので、かなりあわただしい展開です。つまりご都合主義の目立つ連作集です。そんな凡作が『赤ひげ診療譚』より上だとほめられたのでは、藤沢周平もかなりくすぐったい心境だったのではないでしょうか。そもそも、社会派小説と活劇小説を比較すること自体にムリがあったわけですが。

 でも、向井敏さんはけっこうしつこくて、山本周五郎を足蹴にした藤沢周平絶賛文をさらに書いています。『山本周五郎から遠く離れて』(前掲書)。

 山本周五郎は「幸薄い男や女の物語を運ぶうちに、言わず語らず人の世の哀れを伝えていくといった淡白なやり方では満足できず、登場人物の口を借りて、ときには彼自身が膝をのりだして、人間の本性について、また人生の真実について、ナマの言葉で講釈したり、感慨にふけったり、説教にはげんだりしはじめるのである」とけなした上で、向井さんは次のように藤沢周平を評価します。

「藤沢周平は物語の整いということに、とりわけ意を用いてきた作家である。というより、物語が歪んだり崩れたりすることを、ほとんど本能的に嫌ってきた。人間について、人生について、どんなに言いたいことがあっても、それをあからさまに作中にぶちまけて物語を破いてしまうようなことは、彼にはついぞなかった。語るべきことがあるならば、物語自身をして語らせるというのがこの作家の掟。人間の愚かさや哀れさや優しさ、また生きていくことのつらさや時折おとずれる一瞬の心躍り、彼にとってそれは精妙な描写を通じて伝えるべきものであって、多弁を弄して説き聞かせるものではなかった」

 そうか、何を書くか、よりも、どう書くか、が向井さんの関心事だったのか。向井さんに「物語の整い」と言われて、高見順が戦前に執筆した『描写のうしろに寝てゐられない』という小説作法を思い出しました。これは、あるがままの描写を重視する自然主義文学への批判として書かれたもので、あるがままの描写なんて言うけれど、そもそも「描写の前に約束された客観的共感性」なんてものが存在するのか、というのがプロレタリア文学出身である高見順の疑問でした。

「つまり描寫にのみ終始縋つて書けない心許なさが、物語る熱ツぽさを必要とするのであらう。たとへば、白いものを白いと突ツ放しては書けないのだ。白いものを一様に白いとするかどうか、その社會的共感牲に、安心がならない。或は黑いとするかもしれない分裂が、今の世の中には渦卷いてゐる。作家は黑白をつけるのは與へられた任務であるが、その任務の遂行は、客觀性のうしろに作家が安心して隠れられる描寫だけをもつてしては既に果し得ないのではないか。白いといふことを説き物語る為だけにも、作家も登場せねばならぬのではないか。作家は作品のうしろに、枕を高くして寝てゐるといふ譯にもういかなくなつた。作品中を右往左往して、奔命につとめねばならなくなつた」(『描写のうしろに寝てゐられない』昭和11年)

 戦後に大人になった私も読んでいるくらいの有名な論文ですから、戦前の山本周五郎は当然読んでいたでしょう。たぶん、友人たちから生来の性癖と言われた説教好きにこの小説作法を結びつけて大衆小説の世界に持ちこんでいったのだと思います。そして、ここがかんじんのところですが、昭和20~30年代の読者たちは、そんな小説作法をこそ望んでいたということです。作者の憤りを表現するためには「物語の整い」なんてあと回し、どう書くかより何を書くかだ、と描写のうしろから作者が怒り顔をさらけ出す作品を望んでいたということです。

 後発の藤沢周平は読者の多くが貧乏から脱出できた総中流化社会の時代にデビューした作家です。貧乏は現実ではなくて小説の素材、江戸情緒のムードづくりに欠かせない小道具、年配読者の甘酸っぱい郷愁になっていました。先の『おつぎ』が執筆された昭和58年(83年)といえば、NHKテレビ小説の『おしん』がブームをつくっていた年です。視聴者はすでに自身が貧乏に苦しめられなくなっていたから、安心して郷愁に浸ることができたのでした(※)。

※『おしん』の放送局がNHKテレビではなくて民放テレビだったら果して、あれほどのブームになったろうかという「もし」を提出しておきます。画面では口減らしのために山形の寒村から奉公に出されたおしんが大根めしで空腹を満たしています。ところが民放ですから途中でCMに寸断されます。おいしそうなお菓子やレトルト食品のCMに。それでも『おしん』はブームになったのかしらん、ハハハ。

 藤沢周平ファンのために釈明しておくと、山本周五郎と藤沢周平の違いは、作家としての力量の違いではなくて時代の違いです。貧乏の40~50年代に活躍した作家と豊かな70~80年代に活躍した作家の違いです。時代小説とはその時代時代の現代人が髷を結って活躍する現代小説ですから、百歩ゆずって豊かな時代の向井敏さんの目に山本周五郎がヤボったく見えたとしても、まあ仕方ないか、としておきましょう。しかし、ほぼ解消したと思われていた貧乏が勢いよく息をふき返してきた今日、『赤ひげ診療譚』の「憤り」は向井さんが立往生したような「ねちねちとした人間講釈や人生論議」であるのかどうか、ここはひとつあなた自身に読んでたしかめてもらわなければなりません。

 いま思い返せばなんとも贅沢な話ですが、70~80年代の「貧乏」が物質的貧乏から精神的貧乏に変っていった状況を、倉本聰はTVドラマ『北の国から』(81年)で描いています。このドラマの父親はわが子の精神的成長のために積極的に物質的欠乏を求めていくのです。倉本聰はTVドラマ『前略おふくろ様』(75年)で、山本周五郎の『さぶ』の職人の世界を70年代の東京下町に移植しようと試みた作家でもありました。

 さあ、いよいよ『さぶ』です。

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まるで今の政府に対して言っている? とも思えるような、
「赤ひげ」の台詞。
それは「まっとうな怒り」なのか、「ねちねちとした人生論議」なのか。
ぜひ、読んで確かめてみてください。
次回、いよいよ名作『さぶ』が登場、お楽しみに。

山本周五郎傑作選
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