雨宮処凛がゆく!

 加藤智大死刑囚の弟が自殺――。

 それを知ったのは、先週発売された週刊誌でのことだった。

 享年28歳。兄が「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人であるという現実は、この6年間、どれほどの苦痛を彼に与え続けただろうか。

 「週刊現代」4月26日号には、そんな彼(A男とする)の手記が紹介されている。

 事件当日、着の身着のままアパートを出てからの、職と住居を転々とする日々。しかし、引っ越して1ヶ月もするとマスコミの人間が彼のもとを訪れる。「やっぱり逃げられないんだな」という諦めにも似た思い。が、そんな中でも、「希望」はあった。恋人ができたのだ。

 事件のことを打ち明けると、恋人は「あなたはあなただから関係ない」と言ってくれる。しかし、結婚の話になると、交際を認めてくれていた彼女の両親は猛反対。結局、2人の関係は破綻してしまう。

 A男にとって辛かったのは、彼女から言われた「一家揃って異常なんだよ、あなたの家族は」という言葉だったという。最初で最後の恋人との破局は、A男に深い絶望を与えた。

 手記には、以下のような言葉が綴られている。

 「結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じです。もう他人と深く関わるのはやめようと、半ば無意識のうちに決意してしまったのです」

 そうして彼は、社会との接触をできるだけ避けるようになっていく。
 「突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある」

 そんな台詞を記者に漏らしたこともあったという。

 そうして死の1週間前の今年2月には、餓死に失敗。彼は記者にこう語ったという。

 「餓死って難しいですね。10日目に水を飲んでしまった。なぜ餓死か? いちばん苦しそうだから。やっぱり、加害者は苦しまなければならない。楽に死んではいけないんです」

 それから1週間後、A男は自らの命を絶った。

 08年に起きた秋葉原事件は、7人の命を奪い、10人を負傷させた。ワケもわからないままに命を絶ちきられた7人と、その家族。そして一命はとりとめたものの突然被害に遭遇した10人と、その家族。

 この十数年ほどで、この国ではやっと「被害者遺族」への支援や権利について語られるようになってきた。まだまだ法整備など足りないことだらけだが、「被害者遺族」がまったく顧みられなかった時代を思えば、ほんの少しだけ前進していると言えるだろう。

 一方で、加害者の家族の問題については手つかずのままだ。

 「加藤智大の弟、自殺」という一報を知った時、私の頭に浮かんだのは宮﨑勤のことだった。88年、連続幼女殺人事件を起こした宮﨑勤の父親もまた、事件後に自殺している。父親のもとには、全国から大量の非難の手紙が届いていたという。

 A男は亡くなる前、記者に「母」を案じる言葉を残している。

 「唯一心配なのは、母親です。事件発生時の母は病的に取り乱していて、思い出すといまだにザワザワします。その母親が僕の死を知ったらどうなるのか・・・」

 事件発生後、多くのメディアが加藤智大が母親から受けていたという「虐待」について書き立てた。母親は精神科に入院し、一時は誰も面会できないほどだったという。一方で父親は、勤めていた信用金庫を退職。脅迫や嫌がらせ電話が相次ぐことから電話を解約し、あの事件以降、電気をつけずロウソクの灯りで暮らしているという。ちなみに両親は既に離婚している。

 7人を殺害し、死刑囚となった長男と、自ら命を絶った次男。そしてバラバラに子どもの罪と向き合う父親と母親。

 A男は手記に、「加害者家族」の苦しみについて、書いている。

 「被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも被害者家族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遥かに軽く、取るに足りないものでしょう。
 『加害者の家族のくせに悲劇ぶるな』
 『加害者の家族には苦しむ資格すらない』
 これは一般市民の総意であり、僕も同意します。
 ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。
 そもそも、『苦しみ』とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちの方が苦しい、と比べることはできないと、僕は思うのです。
 だからこそ、僕は発言します。加害者家族側の心情ももっと発信するべきだと思うからです。
 それによって攻撃されるのは覚悟の上です、犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。
 攻撃、結構なことじゃないか。どうやったって自分たちが良い方向にはもう修正されない。だから自分が悪評で埋め尽くされ、人間らしい扱いをされなくなっても、僕は構わない」

 ある意味、ここまで覚悟していたのに、彼は命を絶ってしまった。

 置き去りにされてきた、「加害者の家族」の苦しみにも、もっと目を向けてほしい――。彼の死は、そんな命がけの訴えにも思えてくる。

 そうして「加害者」「被害者」の問題を考える上で強調しておきたいのは、日本で起きる殺人事件の約半数が「家族間」で起きているということだ。

 ということは、この国の「被害者遺族」の約半数は「加害者家族」でもあるのだ。

 それを思うと、あまりの事態に頭を抱えたくなってくる。

 6年前、秋葉原で事件を起こした加藤智大は31歳になった。

 何度か裁判で見た加藤智大は、なんだかマジックで描いたような、まったく感情の読みとれない目をしていたことが深く印象に残っている。

 彼は弟の死に触れて、何を思ったのだろうか。

 

  

※コメントは承認制です。
第293回 被害者遺族と加害者家族 〜秋葉原事件犯人の弟の自殺に思う〜 の巻」 に18件のコメント

  1. magazine9 より:

    加藤被告のやったことが、許されるはずはない。けれど、彼の両親の、そして弟の苦しみは、本当に避けられないものだったのか…。本来、被害者やその家族を支援することと、加害者やその家族の人権を守ることは、対立するものではないはず。ましてや、傍観者でしかない「社会」が、加害者の家族に憎悪の刃を向けることは、どこかが、何かが歪んでいると思えてならないのです。

  2. KR より:

    血スジ・家スジ、この旧弊なものの見方が、いまだにこの国では通用してしまう。
    「市民社会」という近代的な呼称の裏に、このような前近代の底流が脈々と流れている。
    ただの教養としての「人権」が、ただそれのみがまかり通っている状況が、こうした低俗な正義感を生みだしている。

  3. 彼が手記で書いたとされる、「犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている」という言葉は絶対に違うと思う。本心で書いていないんだろうとしても。

    私もろくでもない家柄に生まれたし、実の母からも「お前なんて産まれて来なければよかった」と幼い頃から言われて育ちました。父の実家は企業ヤクザだったので、一人二人の人間の人生を破滅させるどころじゃないです。
    でも、どんな親や家族を持っていても産まれた以上は生きる権利があるし、自分で生きる素晴らしさや友情や愛情、信頼を学んで行くことは出来るんです。幸せになっちゃいけない命なんて一つもないんです。

    そして、成長すれば自分を産まなければよかったと言ってネグレクトして実家に預けた母のことさえ、悪い男に騙され難病にもなって一人の若い女性として苦しんでいたかわいそうな人だったんだな、運が悪かっただけで無理もなかったんだな、と理解出来るようにもなるんです。恨みが消えるんです。
    最初からハードルが高く設定されていれば、まず動物として生き残りたいという本能が強く働きます。仮に世間一般の評価で百点満点中十点や二十点の生き方になったとしても、甘いも辛いも味わっているうちにしみじみ感動することもあって、その時には「お母さん、産んでくれてありがとう」って素直に思える瞬間も来るんですよ!
    死んですべてを終わりにするより、何か欠けたものを取り戻して行く喜びのある人生の方が素晴らしい、と私は確信しています。

  4. 鳴井勝敏 より:

    「一家揃って異常なんなんだよ、あなたの家族は」。彼女のこ一言は傷心の彼に効いた。止めを刺された、という感じだ。彼女の「愛」がかなっていたら自死することは防げただろうと思えば残念だ。兄の犯罪、弟の自死、共通することは「居場所」を失ったことだ。つまり「孤立」に追い込まれたのだ。「人間が一人では生きていけない」という単純な命題の表れである。兄の犯罪に責任を負う立場にない弟がどれほど苦しんだことか。私には、まだまだ 憲法の重要な価値観である「個人の尊重」(13条)が浸透していない結果と映る。とすれば、 交際に反対する彼女の両親の行為は珍しくも何でもないのだ。繰り返して言う。弟には何も責任がない。だが、自死に追い込まれるのだ。社会を取り巻く環境、特に、親、先生、職場の人達に「多様性認める精神」の脆弱さが改善されない限り、兄弟の悲劇は繰り返されるだろう。
                                                                                                                                                                    

  5. 私はこういう話を聞くとつい導火線に火がついてしまって、該当する当事者の目に留まることは限られていようとも「何言われたって構わずしぶとく生きてこうよ」、と犯罪者の家族や、たまたま生まれついた境遇が社会的に差別を受ける立場だったという人達そのものにまず呼びかけたいような気持ちに駆られるのですが、無論、現実的には社会が多様性を認めない了見の狭さこそがこうした悲劇を作り出しているのであって、一番の問題点であることは疑う余地がありません。
    家族の罪をあたかも連座制で罰せられなければいけないかのような、ほとんど社会的リンチに等しいことが野放しにされている環境、それが人間として恥ずべきもの以外の何物でもないことに、私達一人一人が気付いていくしかないはずです。

  6. 佐々木陽子 より:

    処凛さんの記事を読み始めて、私もまた宮崎勤のことを思い出しました。私の中学の恩師が、事件後、宮崎勤の自殺した父親の相談相手でした。この世に存在するもので必要ないものは無いと思っています。存在する全てでこの世はバランスをとっている。他の加害者家族の苦しみが彼にはよくわかったであろうと思うと、彼を亡くしたことが悔しいです。被害者家族も、加害者家族という被害者も、1人にしない手だては無いのでしょうか。

  7. 鳴井勝敏 より:

    「この世に存在するもので必要でないものはないないと思っています。存在する全てでこの世はバランスをとっている」。この々木さんの一文に触れ冬空高く輝く満月を眺める思いになりました。ありがとうございました。「一人にしない手だてはないものでしょうか」。私は、一人一人が自立心を磨き「孤独」を維持することだと考えています。自分に勇気を与え、他者に優しく振る舞うパワーを与えてくれるからです。しかし、その風景は「孤独者」にしか見えないのかもしれません。しかも勇気という少しの対価が必要なのです。

  8. 林 敏夫 より:

    彼の兄を想うとき、その母の内面を想う。彼の自裁を想うとき、人間存在を想う。
    世界宗教の終末観や末法観の存在は、人間存在の本質的危殆を示す。
    科学の発展と言葉の玩びの果ては、戦争、環境破壊、食の崩壊の形で人類自滅を提示するのだろう。
    宗教的カルト、道徳的カルト、政治的カルトを経ながら。
    おもいやり、おもてなし、やさしさ、きずな、哀悼の誠も結構だけれど、
    そのお為ごかしが、無視の冷酷に等しい残酷であることを、僕らはどれだけ身に染みているのだろうか。
    地球は、人類などに目もくれず、おかしな生物が何千年もバタバタしながら、
    勝手に生成、消滅しただけに過ぎないことになるのだろう。
    社会は心の反映である、この弟の悲しみは、何処に行ってしまうのだろうか。
    僕ら人間とは何なんだろうか。 合掌

  9. TokiNoKawa より:

    なぜ加害者だけではなく加害者家族までが連帯責任を取らなければならないのか? 加害者家族の人権は存在しないのか?

    この問題を考える上で、メディアが引き起こしている「報道加害」について考えなければならないのではないだろうか。

    「報道加害」を失くすためには公人以外の犯罪を「匿名報道」にすべきだと唱えた浅野健一の言葉を、もう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。

  10. はげ より:

    でも、何の罪もない、殺された被害者家族の苦しみは加害者家族にはとても考えられないくらいの苦しみだと思う。子供を殺された被害者家族の苦しみをおざなりにしてはいけない。もし加藤の弟が兄の加藤が虐待されているとき馬鹿にして笑わなかったら加藤も人を殺さなかったと思う。こいつは母親が兄を虐待している所を見て笑っていたのだ。この弟も殺人鬼を作り上げた責任がある。この人の書記を読んでなんて傲慢なんだろうと思った。この人は自分の事しか考えられないんだなとも思った。私が加害者の家族だったら被害者家族にお金がいきわたるように工夫し、その後自殺する。恋愛なんかしている暇はない。加藤はこの弟の事を母親のコピーだと言ったらしいが、なるほどな。加藤の母親もこの弟も自分の事しか考えられない人間だからな。

  11. ゆき子 より:

    まず個人がない社会だということです。それがいいか悪いかの判断は置いておきます。いい点は子供がノーベル賞をとれば家族まで評価されるというような子細な点以外、何かはわかりませんが、悪い点は社会が個人に連帯責任をとらせるということ。それ程日本では親子関係が深いのだろうか?

    もう1つは足の引っ張り合いの社会だということです。他人についた1つの汚点を徹底的に追及することで、その時々の「黒い羊」をつくり、それぞれが腹いせをするというような。マスコミがそれを拡大して効果を高める。中世の見世物処刑のように、個人のフラストレーションがそれによって解消されて精神的安定を得ることができ、よりよい社会になっていくのならばそれでも悪くないわけですが、中世社会のように苦しい生活を日本人は現在しているのだろうか?中世的忍従の生活のほうを変えていくべきではないだろうか?

    「明日は自分の身」という実感があれば、そういうリスクのよりすくない社会を皆で目指していこうよ、となりそうなものです。ところが個人と個人の区別をあまりせず、家族ぜんぶごっちゃにして考える癖をもっているのに、他人にふりかかった不幸は自分に関係のあるものとは想像できない。他人と自分はちゃんと区別をする。
    集団主義の悪いところと個人主義のわるいところを合わせたような日本社会。日本人のモラルはどこにあるのでしょうか?

  12. rico より:

    偉い。良くそんないい人に育ったね。今後も頑張ってね

  13. あさみみつひこ より:

    加害者の家族そのものには直接的には犯罪には関係していない、それは理解できます。
    ただ当人の生育環境に何らかの影響を及ぼしたのは事実だから、間接的には関係していると思われます。

    それと「血スジ・家スジこの旧弊なものの見方が、いまだにこの国では通用してしまう。」とはあるけど、「犯罪を犯すと親族までに迷惑を掛けてしまう」と犯行を思いとどまらせる抑止の効果もあると考えます。

  14. ケン より:

    父親、母親、事件を起こした本人に同情の余地はない。
    むしろ母親と父親は当事者本人以上の罪を償うべきだとも思う。
    弟は只々被害者。
    インターネットで報じられている家庭の事情がもし事実ならそう思う。
    広く考えれば、責任は社会全体にもあると思う。
    今回の事件で、ありえない、考えられない、信じられない。
    そんな風にして傍観するような立場で見てる人は相当ヤバいと思う。
    自分に理解できないことが目の前で起こったなら、
    理解に及ぶほどの知恵が自分に足りていないということを自覚してほしい。

  15. U2 より:

    うーん。コメ欄感情論が多い気がする。私は自己中だからか、こういう記事をみると自分の親族が加害者になって、自分が加害者家族になったらどうしようって心配。この弟さんみたいに人生をあきらめてしまいそう。普通の人は第三者視点で自分が関係ない話だって前提でいこの問題をとらえすぎだと思う。誰だっていつ被害者、被害者家族、加害者、加害者家族、になるかわからないんだよね。そしてその中でも自分のコントロールが及ばない範囲で事が起きてしまった結果なるのが被害者家族と加害者家族だから本当にたちの悪い問題だ。いじめられているわが子を放置、またはわが子を虐待している親は最後に困るのが自分だと思ってなんとかしてほしい。

  16. スズキ より:

    共感できます
    人たちのかかわり合い
    難しいです、
    私もコンプレックスから
    人たちから避けています、
    嫌われても仕方無い行動を
    取っています
    いけない事と知りながら

    でも出来ない
    自分自身理解不能です、
    でも共感します、
    助けて欲しいけど
    助けないで欲しい
    深く関わって欲しくない
    自分だけで良い
    もう自身騙しながら生きて行く
    つもりです
    不本意では有ります
    嫌な事は忘れる用にしたい、
    生きる為に。
    忘れること

  17. くま より:

    確かに家族がこの後世間からどのように言われ見られるのか何も考えずに犯罪を起こした加害者が悪いのは事実です。また、どんな理由があろうと事件を起こした加害者が悪いのも事実です。しかし、加害者家族は何かしたのでしょうか。世間から白い目で見られ、仕事も辞めさせられ、最悪その生き地獄とも呼べる環境に耐えられず自殺する。
    なぜ人々は加害者家族を責め追い込むのでしょうか。彼らは身内から犯罪者が出ただけでもう十分に悲しみ悔やんでいるはずです。なのにこれ以上彼らに何を求めるのですか。加害者の代わりに謝れというのですか。 
    その言葉は、実際に被害にあった被害者、被害者家族だけが言える言葉ではないでしょうか。第三者がそんなことを言える立場ですか。明日自分の身内から犯罪者が出るかもしれない。自分が加害者家族になったとき、何も関係のない人たちからそのように言われてどう思いますか。このことをしっかり考えてから批判してほしい私はそれを願います。

  18. すろうにん より:

    貴方の意見に全く同意。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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