雨宮処凛がゆく!

 1993年、あまり頭のよくない一人の18歳女子が、北海道から上京した。

 彼女が上京した理由は、「ヴィジュアル系バンドのライブにとにかくたくさん行きたい!」という下心のみ。あまりにもバカな理由だが、その18歳女子とは何を隠そう、およそ20年前の私である。

 93年と言えば、「イカ天」「ホコ天」という言葉が口に出すのも恥ずかしい言葉になり始めていた頃。しかし、まだギリギリ「バンドブーム」なるものが続いてもいた頃。お金はないけど時間だけは膨大にあった私が上京してまず向かった先は、「バンドブームの聖地」と言われた原宿のホコ天だった。

 しかし、「素敵なバンドがたくさんいるかも☆」という私の期待はホコ天に一歩足を踏み入れた瞬間、打ち砕かれた。目の前にいるのは、どこの国なのかわからないものの、ひたすらに濃い顔の人、人、人。しかも、全員が男。そんな異国の男たちが、地平線まで続きかねない勢いでひしめいている。その間で、居心地悪そうに演奏するバンドが数組。

 こんなの、私の知ってる「ホコ天」じゃない!

 18歳の私は心の底から憤慨した。思えば、それが私と「イラン人」との出会いだった。

 あれから、20年。気がつけば、上京当時あれほど東京にいたイラン人は消えていた。

 なぜ、90年代前半、東京にたくさんのイラン人がいたのだろう。18歳だった私は、「東京ってイラン人がたくさんいるとこなんだな」くらいにしか思ってなかった。そして彼らがこつ然と消えたことに対しても、深く考えたことなどなかった。

 そんな私の前に、最近、一人のイラン人男性がものすごい存在感をもって現れた。名前はジャマルさん。45歳。90年に来日し、もう日本での生活は24年になる。そんなジャマルさんがなぜ日本に来たかと言うと、「イランの独裁政治」を逃れてのことだという。

 88年、イラン・イラク戦争が終わり、イランに戦争から大量の若者が帰還したところから話は始まる。いや、話はそのもっと前、79年に起きた「イラン革命」にまで遡る。独裁政権と、抑圧。抵抗する人々への凄まじい弾圧と、迫害。

 そんなものを逃れて日本にやってきたジャマルさんは、イラン政府にとっては「反政府勢力」となるので、帰国したら拷問と死が待っている。しかし、日本政府に難民認定をしても、まったく認められない。身分的には「難民申請中の仮放免者」なので、制度上、働いてしまうと「不法就労」ということになり、捕まって収容所にブチ込まれる。が、生活費を稼ぐ手段もないのに、生活保護も受けられない。支援者とともに申請に行っても、却下されてしまうのだ。

 今まで、様々な「制度の狭間に落ちてしまった人」を見てきた。

 しかし、ジャマルさんは、その中でもトップクラスである。本人は全然嬉しくないだろうが、私の中でナンバーワンに「大変な人」だ。しかも最近、難病であることが発覚。保険証もなく、経済的な理由もあって、病院に行けない生活が長く続いていた。とにかく、いちいち大変すぎるのだ。

 ということで、「難病で難民(不認定)」のジャマルさんに話を聞いた。

 ジャマルさんと出会ったのは、数年前の「自由と生存のメーデー」か「反戦と抵抗のフェスタ」でのことだと思う。

 表参道のデモで、拡声器片手に「生きさせろ!」と叫んでいた私に、突然、デモに参加していた一人の外国人がすごい剣幕でつっかかってきた。

 「なぜ、あなたは『生きさせろ!』と言うのか!」

 そう声を荒らげる人がジャマルさんという名前で、彼がイラン人でいろいろ大変だということはうっすらと知っていた。当時から、フリーター労組の組合員でもあったと思う。が、「生きさせろ」という言葉に怒るイラン人、というのは、私にとってはレベルが高すぎた。一言で言うと、理解不能。「生きさせろ」というのは、宗教的に彼の怒りに触れるものがあるのだろうか? イラン人である彼にとって、「平和」な日本で「生きさせろ」なんてデモしている私たちの姿に対する深い苛立ちなどがあるのだろうか? コーラーだった私は、ガチで正面から文句をつけてくるイラン人に正直、ビビった。

 なんと答えていいのかわからずにあたふたしていると、ジャマルさんは一言、言った。「『生きさせろ!』じゃなく、『人間らしく生きさせろ!』って言えばいいじゃないですか!」

 それを聞いた瞬間、脳を脱臼しそうになった。そこら辺の、真面目な労働組合のオッサンが言いそうな台詞じゃないか。何を私は「イスラム教的にどうなのか」などと深読みしていたのだろう。よくわかんないけど、この人は真面目でいい人なのだ。私の中で、ジャマルさんはそう認識された。

 そんなジャマルさんは、12歳の時、「イラン革命」を経験している。

 民衆が銃で武装し、政府は戦車を出す。そんな光景が、少年だったジャマルさんの目の前にあった。

 そんな79年のイラン革命のあとに待っていたのは、恐ろしいほどの独裁政治だったという。

 革命前まで、イランの女性たちには、スカーフの着用は義務づけられていなかった。ミニスカートで街を歩く女性もいたという。革命前のイランには、女性たちがそれまで運動の中で勝ち取ってきた様々な「権利」と「自由」があったのだ。

 しかし、イラン革命の後に待っていたのは暗黒の世界だった。

 ジャマルさんは言う。

 「80年代のイランは凄まじい状況で、街を歩くのも怖いくらいでした。女性にスカーフの着用が強制され、かぶっていない女性がいると、バイクに乗ったヒズボラ(イスラム急進派組織)の連中が顔に化学薬品をかける。刑務所にブチ込んでレイプして、石投げ処刑をする。あらゆる凄まじいことが行なわれていました」

 また、女の子は9歳でも結婚できるようになるなど、「女性の人権」を巡る状況は劣悪になっていくばかり。

 そんなイスラム独裁政権に疑問を持ったジャマルさんは、高校生の時点で「イスラム教を捨てた」。しかし、イスラムの世界では、イスラム教を捨てた人間は殺害対象となるので友達にもそれを明かすことはなかったという。

 同じ頃、イランは戦争のただ中にあった。イラン革命翌年の80年に始まったイラン・イラク戦争は、8年間にわたって続いた。

 「どうしようもない戦争でした。その戦争が88年にやっと終わって、戦場からたくさんの若者たちが帰ってきました。そうして、ひどい独裁体制で、一切の自由も人権もないイランから、若者たちが逃げ出すようになったんです。それまで国外に出ることを厳しく抑えていたのに、抵抗が強まって、どんどん若者が出ていった。イラン政府もお手上げ状態になってしまった。そうして多くのイラン人がイランから逃げ出しました。今もイラン難民は世界中にいます」

 そうして90年、ジャマルさんも独裁体制のイランから逃げ出す。行き先は、日本。なぜ、日本だったのか。

 「理由は簡単で、当時の日本はビザが必要なかったからです。直接成田空港に着けば、入ることができた。それまではイラン難民はヨーロッパやアメリカに流れていましたが、そういう理由からどっと日本に流れてきた。3〜4年の間に、4〜5万人のイラン人が日本に入ってきました」

 冒頭で書いた、「ホコ天にいた大量のイラン人」の光景が、私の中でまったく違った意味合いを持つものになった。あの人たちが、独裁政権から逃れて日本に来ていたなんて、当時の私は思いもしなかった。ちなみにイラン人が「ビザなし入国」できたのは92年まで。それ以降はビザが必要となった。

 そうして日本にやってきたジャマルさんは、先に日本に来ていた知り合いのツテを辿り、働き始める。建築など、今まで様々な仕事をしてきた。90年と言えば、時代はバブル。人手不足から外国人労働者を受け入れる状況があり、働く場には困らなかったという。また、「不法滞在」や「不法就労」といったことが問われることもなかったというから、何か「時代の違い」をひしひしと感じる。ちなみに、当時の日給は、例えば工場だと1万円〜1万4000円。今の倍近い額だ。

 しかし、ジャマルさんの目的は「日本で働くこと」ではない。独裁体制のイランから自分だけ逃げ出してOK、といいうことではない。そもそも、イランの独裁体制に疑問を持ち、政治的な活動をしている人たちにはパスポートが発行されないという現実があった。逃げられた人は、運が良かったのだ。そんな政治体制の中で、イラン政府に抵抗する人々は刑務所にブチ込まれ、拷問され、多くの人が命を失っていた。うまく海外に逃げられても、国外で400〜500人もが暗殺されていた。

 「イランを、自由で平等な社会にしたい」

 そんな思いを持つジャマルさんは、日本にいるイラン人たちとの繋がりを探っていく。そうして反イラン政府運動をしている人たちと繋がり、92年、イラン労働者共産党の党員となる。ちなみにイラン労働者共産党の活動拠点はヨーロッパ。イランでは、共産主義者も殺害対象となるためだ。そんな状況や、女性や子どもの人権が侵害され、処刑が続くイランの現状を日本の人に知ってもらうため、パンフレットを作ったりと、ジャマルさんはさまざまな活動を始めた。

 しかし、90年代なかばになると、入管当局の摘発が始まり、不法就労助長罪が制定され、働くことは困難となる。また、イラン人コミュニティでも大量摘発があり、ジャマルさんとともに活動していた人たちも強制送還されてしまう。

 「反政府勢力」を大量に処刑してきたイランへの帰国は、ジャマルさんにとって「死」を意味する。

 一体、ジャマルさんはどうなってしまうのか?

 以下、次号。

ジャマルさんと

 

  

※コメントは承認制です。
第296回 働いたら収容所、帰国したら拷問〜〜謎のイラン人、ジャマルさんは難病で難民!! の巻(その1)」 に7件のコメント

  1. magazine9 より:

    おなじみ「連載内プチ連載」がスタート。90年代はじめ頃の東京を知る人なら、雨宮さんがいう「イラン人がたくさんいる」光景、記憶されているのではないでしょうか。その背景には、どんなイランの状況があったのか。そして、日本に逃れてきたジャマルさんの今後は。次回以降、ご期待を。

  2. jamal saberi より:

    雨宮処凛、マガジン9のみなさん、記事の掲載はほんとうにありがとうございます。シェアさせてもらいます。

  3. 徒然熊 より:

    おう! ディープなお方ですね!
     ムスリムとして生まれて、イスラムの教えを考え抜いた揚げ句、「棄教」するとは、相当に強い覚悟と何らかの「確信」を持たれた訳でしょう。
     私と、年齢も近いし、こんな男とあって見たいですね。
    色々と、アチラの「知られざるイスラム世界」・・・なんて、聞いてみたいですね。
     私は、旅行で、エジプトに10日間位滞在した事があるだけの、人間ですが、でも、意外とア・ルミスル(アラビア語でエジプトの事)のムスリムさんは、素朴で親切でしたよ。(レストランで、料金をふっかけてくるヤツもいましたが。)
    ・・・う~ん、ペルシャはまた、別という事なのでしょうかね?
    生きた話をこういう人から直に聞きたいものです。・・・

    • jamal saberi より:

      徒然熊さん、いくつか説明させて下さい。「ムスリムとして生まれた」。基本的には子供には何の宗教とか思想はないど思います。本来ならば、こどもには何の思想とか宗教を押し付けてはいけません。人間誰でも大人になってから自分が研究して考え方と教え方を自由に選べるです、と僕は考えています。
      「宗教の教えを貫いた」。特に両親の方はそうですが、他に親戚や近辺の人々から一度も積極的な宗教を教えられたことはありません。そんなものにずっと拘っているのはファシスト的なイスラム支配権と学校とメディアの方のみです。こんな問題があって、一切の言論の自由などが許されていないからこそ大変な状態が起きています。女性や子供の権利には一切の保障はない、労働者や学生や人権活動家の活動はかなり厳しい弾圧を受けている。ともかくも宗教の時代ははるか昔に終わっているんだなと、僕を含めて多くのイラン民衆、特に若い世代が考えています。これは否定できない事実です。大桶メディアはこれらの事実を伝えようとしません。その理由は政治的と経済的な繋がりにあります。イスラム支配権を認めていないのはイランに限らず多くの中東の国々民衆は考えています。その声は聞こえて来ない理由はやはり卑劣な弾圧と検閲と利権の問題があるからです。事実を伝えず、支配権側の都合に沿って情報を流すメディアはとにかも酷い。思想の自由は尊重されるべきですが、宗教支配は許されてはにけないのではないでしょうか、と。… どこかでの集会でお会い出来たら光栄です。

      • 徒然熊 より:

        jamal saberiさん、おぉ、返信して下さり、ありがとうございます。
        コメントの「・・・事実を伝えず、支配権側の都合に沿って情報を流すメディアはとにかく酷い。・・・」
        これは、我が日本も同じですね、残念ながら。
        特に、今回の福島原発事故でも、本当の放射能汚染による被害状況については、「政府も大手マスコミも国民に「真実」を知らせようとはしてません!!
        ですが、幸か不幸か、人類の歴史には、あの「チェルノブイリ原発事故」という過去の教訓があった。・・・
        だからこそ、「放射能による人体による影響」をある程度、「予想」出来る訳ですが、仮にこのチェルノ事故がなかったとしたら・・・・・本当に殆どの国民が「核賛美利権集団」により、騙されてしまうところでした。

         ・・・話を元に戻しますが、jamal さんは、現在のイスラム圏国家において、イスラム教は若者たちの心には根付いていない、と断言されてますが、人間にとって、自己を超えた「大いなる存在」に「感謝」したり、「畏敬の念を払う」・・・という事はともすれば、自分の我欲に捕らわれて、偏った驕った自分を、謙虚に見つめ直す機会を与える「力」もあるのではないか?・・・と考えるのですが、いかがでしょうか?
        他に、「生命の永遠性」や「自然への感謝」の心を産み出してくれる働きもあると考えるのですが、いかがですか?

  4. 多賀恭一 より:

    日本に難民を受け入れる特別都市を作ればいいのだ。
    例えば、硫黄島とか。
    自然エネルギー発電の主力は離島である。
    発電した電力でセルロース(枯れ草・枯れ木)の軽油化ができれば、
    日本は産油国になれる。
    離島開発に目を向けるべき。

    • Jamal Saberi より:

      多賀恭一さん、難民の受け入れは経済的に有利であるポイントはそうですが、人権の面でも非常に重要です。とにかくも、どんな理由であろうと人間を捨ててはいけません。基本的な人権は世界のでこでもまもられるべきです。これは皆のためであります。が、今の日本の法務省入管はほぼ逆のことをやっています。つまり、人種差別主義的な観点から外国人全体と難民を軽蔑して、収容所などを作ったりして、無駄なお金を使っています。残念ながら収容所内で命を落としている人間は決して少なくはありません。長期収容では労力と能力が無駄になる一方で、収容所の維持にもまたお金がかかってしまいます。さらには、日本は難民を受け入れていないことで世論の目もまた厳しいまま続きます。実際、2011年6月には国連の人権部門から日本法務省入管に対して、今の制度は人種差別主義的なものであり、直ちに改善するべき、という懸念が出されています。さて、法務省入国はこの厳しい批判をどう受け止めるのかはかなり気になります。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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