雨宮処凛がゆく!

 「妻を津波で亡くし、遺族基礎年金の手続きに行った。しかし、父子家庭は対象とされない事を知った。妻じゃなく俺が死ねばよかったんだ。そう思った」

 宮城県父子の会・代表、そして全国父子家庭支援連絡会・理事である村上吉宣さん(35歳)のところに寄せられた言葉である。
 東日本大震災から4年以上。震災や津波で妻を亡くした夫は、母子世帯であれば受け取れる遺族年金を受け取ることもできず(2014年4月に制度が変わったものの、施行日以前に妻を亡くした父子家庭には関係がない。詳しくは後述)、多くが仕事と子育てに忙殺されている。

 あしなが育英会によると、東日本大震災で震災遺児となった子どもは2005人にものぼるという。そのうち母子世帯は569世帯、父子世帯は432世帯。両親がいない世帯も205にのぼる。
 また、震災父子家庭のうち、7割近くの自宅が全壊・もしくは半壊。住宅ローンや車のローンを背負って父子家庭になったという人も多いという。
 ちなみに、夫と死別した母子世帯の場合、母1人子2人だと、月に約10万円ほどの遺族基礎年金の支給があるという。しかし、2014年4月以前に妻を亡くした父子世帯の場合、ゼロ円。父と子が別居している場合、子どもには受給権があるらしいが、父親と一緒に住んでいるとゼロ。夫が専業主夫だった場合でも変わらないという。

 ひとり親家庭の貧困が社会問題となって、大分時間が経った。その貧困率は、実に54.6%。しかし、メディアに登場するのは大抵が母子世帯だ。もちろん、彼女たちの状況が深刻であることは重々承知しているが、よりマイノリティである父子世帯について、私たちはあまりにも知らない。
 そうして4年前の3月、東北では、「妻」であり「母」であった女性たちの命も多く失われた。

 村上さんのもとには、深夜、震災で妻を亡くした男性から電話がかかってくることがある。

 「『お前たち、もう終わったような顔してるけど、俺たちは歯を食いしばって堪えてんだわ』。そう怒号で言う人もいますし、PTSDや精神疾患、アルコール依存を抱えた方も多いです。
 直接じゃなくても、いろんな声が届きます。子どもと心中したという話もあれば、子どもを殺したという話を聞くこともある。子どもを児童相談所に置いてそのままいなくなったって話もあるし、中にはPTSDとうつと不安障害を抱えて自傷行為を繰り返しつつも、なんとか自分で子どもを育てようって歯を食いしばってるお父さんたちもいる。
 愛している妻を目の前で流された人もいれば、子どもと一緒に流された姿を見た父親たちもいる。その中で、残された子どもを一生懸命育てたいって、父親は思う。でも、充分に手をかけてあげられない事情が、実社会の中ではあるんです」

 そう語る村上さん自身もシングルファザーだ。
 2003年に離婚し、息子と娘を育ててきた。離婚してすぐに2歳の息子が血液のがん、その後は白血病に侵されてしまい、数年間は看病に専念した。2人の子育てだけでも大変なのに、これまで彼は、ひとり親支援にかかわる法律をいくつも変えてきたという実績を持つ男である。例えば、児童扶養手当の父子家庭への拡充や、高等技能訓練促進事業などを父子世帯でも受けられるように制度を変えてきた。「法律を変えた」なんて言うと、どんだけ高学歴? と思うが、なんと村上さんは「小卒」。小学校三年生の時に不登校となり、中学、高校には行っていないという。

 一体何者? そう思ったあなたのために、まずは村上さんの人生に迫りたい。

 「今、子どもの貧困とか言いますけど、それって僕の子ども時代の状況なんですよね。僕自身が母子家庭育ちで、子どもの頃つるんでた奴らも母子家庭や父子家庭が多かった。友人の中には両親に首絞められて気ぃ失って、目を覚ましたら両親が首吊ってたって奴もいたし。一家心中しようとしたんですね。そんな10代の頃、みんなで話すことと言えば『俺たちが結婚したら、絶対離婚しないよな』ってことでした。みんな、ひとり親家庭だからこそ、家庭を求めてたというか、僕も家庭が欲しかった。それで、17歳で青森から上京して新聞奨学生しながら音楽の専門学校行って、20歳で宝石の展示販売の会社に就職して、21歳で結婚しました」

 しかし、若いカップルの前には様々な苦難の壁が立ちはだかる。ほとんど家にいられない状態だったため宝石店を退職した後は、元妻の実家のある福島で暮らし始め、22歳の時に息子が誕生。しかし、「小卒」で「車の免許なし」だとアルバイトくらいしか仕事がない。妻は仕事が好きだったため、主に妻が家計を支え、村上さんが家事育児をしつつパートをするという役割分担になっていたという。そうして23歳で妻が娘を妊娠。この時は妻の転勤で家族は東京に住んでいた。妻は退社し、今度は村上さんが家計を支えることとなる。
 食品会社の試食販売の仕事だったのだが、朝5時から夜11時まで働くような日々だった。そんな生活が半年続いたところで、妻がうつ病になってしまう。小さい息子の世話をして、お腹の子を気遣う日々。夫は長時間労働で不在がち。そんな頃、村上さんは職場で事故を起こしてしまい、クビになってしまう。それから娘が生まれるまで、日雇いバイトでしのぐ日々が始まった。

 娘が生まれてすぐ、今度は息子がインフルエンザ脳症にかかってしまい、危篤状態となる。家族が仙台に引っ越したのは、それからすぐのことだった。妻の両親が離婚し、妻の母親が仙台で事業を始めていたので妻がその仕事を手伝い、村上さんが「専業主夫」となることになったのだ。

 「当時はそういう家庭はあまりなくて、若い僕たちはいいじゃんって思っていました。だけど、そういう生活をしていたら、僕は彼女が帰ってくると会話がしたい。『今日子どもがこんなことしたよ』とか。だけど妻は『もう私、疲れてるから』って。なんか逆転するような会話で。そうなった時に言い争うのは、『男のくせに』『お前母親だろ』って。根付いてるんですよね」

 2人で納得して決めたはずの役割分担。しかし、私たちの中にはジェンダー的な縛りが、それはそれは強固に根付いているのだと思う。
 結局、いろいろなことが重なって、妻は家を出ていった。

 「そうしたら、ずっと子育てをしていた僕が子どもを引き取るのが当然の選択でした」

 03年、実家の青森に戻った村上さんは、24歳にして2人の子どもを抱えたシングルファザーとなる。が、苦難は続くもので、実家に戻った途端、今度は祖父が脳ヘルニアで倒れて介護が始まる。昼間はアルバイトをしつつ、子育てをし、祖父の介護をする日々。翌04年の3月に祖父が亡くなった2カ月後、今度は息子が血液のがんにかかっていることが判明した。
 正式な病名は、EBウイルスによる血球貪食症候群。東北で1年に1人出るかどうかの難病だった。青森では治療できないとのことで、村上さんは再び仙台に。娘は実家に残し、息子の入院する病院で24時間付き添う日々が始まった。
 息子の病気は特定疾患に指定されていたので、幸い、医療費はタダ。しかし、24時間息子に付き添い、病院で寝泊まりする日々ではとても仕事などできない。事情を話して生活保護申請に行くものの、「水際作戦」に「もろハマって」しまう。

 「ずっと病院に寝泊まりしているから、アパートがないと駄目、生活実態がないと駄目って言われました。『布団とか冷蔵庫とかないよね?』って言われて。それで生活保護法を調べたんです。そうしたら、そんなことは書いてない。でも、向こうが言う『生活実態』を作るために病院の近くになんとか自腹でアパート借りました。でも、それでも駄目だった。だから最終的に質問状を作って、区役所に出したんです」

 おそらく、それは村上さんが初めて社会に「異議申し立て」した瞬間ではなかろうか。その後、彼は自治体や国会議員などに働きかけ、鮮やかに法律を変えていくのだが、その原点は「病気の息子を抱え、経済的に困窮し途方に暮れながら書いた質問状」にあるように思う。結局、最初に役所に行ってから2カ月後、質問状を出したことによって、やっと生活保護の「申請書」が出てきた。そうして生活保護を受けられることになる。

 翌05年、息子の病気は無事に完治。しかし、最後の血液検査で、抗がん剤の副作用で白血病になっていることが判明する。国内で2例目という珍しい症状だった。骨髄移植が必要となり、幸いにも完全適応した3歳の妹から、4歳の兄への骨髄移植が行なわれた。治療と自宅療養で、3年の月日が経っていた。
 そうして息子の体調がようやく安定してきた08年、「社会復帰」のために始めたのが、宮城県父子の会だ。

 「自分が考えていることがおかしいのかなって思って始めたのが、父子の会なんです。男が子育てを大事にする生き方だとか、父親として子育てをやってる自分を評価することができなかった。社会もそうですよね。ただ、だんだん俺ってそこまでおかしいこと言ってんのかなって、思うようになったんです。
 確かに学歴も職歴もないけど、ただ子どもがこんな状態になったら誰も働けないんじゃないのって思ったし、チャンスが欲しかった。だけど、選択肢がない。ハローワークの職業訓練も雇用保険がなかったら使えなかったし、生活保護を受けながら技術を身につける術もなかった。
 例えば、役所の就労支援で、国家資格とかをとる学校に行ってる間に月10万円の経済支援を受けられる『高等技能訓練促進事業』とか、働くことになんらかの課題を抱えている人を雇用すると企業に助成金が入る『特定求職困難者雇用開発助成金』という制度があるんですが、これは障害者と高齢者と母子世帯しか使えなかった。父子世帯は入ってないんです。あと、『母子寡婦福祉法』では生活資金や子どもの学費を貸し付ける制度もあって、使い勝手は悪いけど無利子で借りられるんです。だけど、これも父子世帯は含まれていない。離婚した母子世帯に満額4万1500円くらい支給される児童扶養手当も、父子世帯は含まれない。自分が困って調べていったら、父子世帯が使えるものが何もなかったんです。
 例えば年収200万円の母子世帯には経済支援があるけど、年収100万円の父子家庭には何もない。それはおかしいと思う。それに、親が婚姻時や婚姻前に働く経験を積み重ねていれば収入を得られるけれど、働く能力を蓄積してこなかった男はどうすれいばいいのか。そこを性別で分ける根拠はないだろうと。
 それで、役所の窓口や県、市議会、県議会、いろんな人に伝えていったら、『みんなおかしいと思ってると思うよ』って答えが返ってきて。ああ、自分の思ってること間違ってないんだって。それで県議員に相談した時、『なんでおかしいと思ってるのに変わらないんですか』って言ったら、『誰も訴えないから』と。個人で訴えても仕方ない、団体作らなくちゃいけないって言われて。それで、宮城県父子の会を立ち上げたんです」

 ここから、村上さんの怒濤の快進撃が始まる。

 それについては、次号をお楽しみに☆

下記、村上さんたちが署名を集めているキャンペーンサイトです。ぜひご署名を!

「2014年4月以前に妻を亡くし遺族年金の対象とならない父子家庭の父と子を救いたい一一特例法にて救済を求めます!」
http://urx.nu/iOoT

 

  

※コメントは承認制です。
第338回 あるシングルファザーの奮闘 〜震災前、震災後〜 の巻(その1)」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    2人親の共働き世帯で男性が家事や育児を行う、という状況に対してさえ、まだまだ認知も制度も整っていない社会。父子世帯の方が抱える困難は大変なものがあると思います。「男性の役割」に対する固定観念に、追い詰められているケースは多いのではないかと感じました。これまでの社会制度が想定してきた、いわゆる「標準家族」なんて、もはや幻のようなもの。多様な生き方に合わせて変えていかなければ、本当に困っている人が置き去りにされてしまいます。

  2. 炊飯器 より:

    男女平等なら、こういう事象に対しても社会保障を検討しないと

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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