雨宮処凛がゆく!

 12月なかばの利根川の水は、痺れるくらいに冷たかった。

 辺りはだだっ広い砂利の河原。寒風に晒されるススキが辺りの光景を一層寒々としたものにしている。この河原には捨てられたゴールデンレトリバーが住みついているとかで、湿った土の上に、大きな犬の足跡が残されている。「人間を見ると嬉しくて走ってくるからびっくりしないでくださいね」。同行した地元の人が教えてくれたものの、吹きっさらしの河原に犬の姿はない。風が強く、暮れかけた冬の川辺は、立っているだけで震えが止まらないほどだ。河原の砂利の上には二本、くっきりとタイヤの痕が残されている。その痕は、そのまま川の中に続いている。

利根川の河原に残ったタイヤの痕。

 11月22日未明、この川に、親子三人を乗せた車が突っ込んだ。同日朝、81歳の女性が川に浮いているのを近隣の人が見つけるが、既に死亡。その近くでは、女性の三女(47歳)が座り込んでおり、低体温症で病院に運ばれた。また、そこから約400メートル上流の浅瀬では、三女の父親(74歳)が遺体で発見された。

 母親は長年認知症を患い、三女はその介護のため、3年前に仕事をやめていたという。一方、父親は74歳という高齢で新聞配達をして家計を支えていたものの、事件のちょうど10日前、頸椎損傷からくる手足の痺れなどを理由に仕事を辞めていた。年金収入はなく、貯金もない。母親に対する殺人、父親への自殺幇助の疑いで逮捕された三女は、働けなくなった父から「一緒に死のう」と言われ、一家心中するつもりで川に入ったことを供述。これが「利根川介護心中未遂事件」の大まかな概要である。

 この事件の報道を追っていくと、老いた両親を2人抱え、三女がいかに献身的に介護をしていたかを伝えるものが圧倒的に多い。十年ほど前にクモ膜下出血で倒れ、それをきっかけに体調を崩し、認知症が悪化していった母。三女は介護のため離職し、朝から晩までトイレやお風呂、食事の世話などに明け暮れた。母親は大きな声を出すことなどがあったようだが、三女は声を荒らげることもなかったという。一方、父親はと言うと「気丈」という言葉がぴったりの、どこか昔気質の男性像が浮かんでくる。自らの妻の介護も介護サービスなどを一切使わず、「俺が最後まで面倒みる」と言っていたそうだ。

 文字通り、「助け合って」いた家族は、なぜ死の道へ進もうとしたのか。この心中未遂事件で、もっとも解せないことがある。それは「事件直前に生活保護申請をしていた」ということ。「水際作戦で申請できなかった」などではなく、ちゃんとできていた。役所による家庭訪問も行われていた。その2日後に、一家三人を乗せた車は利根川に車で突っ込んだのである。

 一体、何があったのか。そんな思いに取り憑かれていたところ、反貧困の活動をしている人々の間で「利根川の事件の調査をする」という話が持ち上がった。しかも生活保護申請をした役所の職員の方から話も聞けるという。そうして12月17日、私は都内から電車で1時間以上の、埼玉県深谷市まで向かった。

 初めて降り立った深谷市は、「都内から1時間ちょっと」で行ける場所とは思えないほどのどかな場所だった。高い建物は何もなく、空が広い。車でちょっと走れば畑が広がっている。

 まずは駅から徒歩10分の市役所で職員の人々と面談だ。あらかじめ、先に聞き取りをした人によって、生活保護申請自体は特に問題なく行われていたことは確認していた。そうして午後2時、総勢10名ほどの私たち「調査団」と、福祉健康部生活福祉課の課長、課長補佐の2人との面談が始まった(ちなみに2人は役所や家庭訪問で三女に対応した職員ではない。が、課長は事件後、警察署で三女に面会している)。

 それによると、三女と市役所の接触があったのは全3回。初めて三女が役所を訪れたのは11月2日午前。その時の様子を課長が説明する。
「生活が苦しくなりそうなので、参考に生活保護制度などを聞きたい」ということで、生活保護の相談員がワーカーとともに同席して、説明。このような場合、「生活保護」という言葉がなければ「生活困窮者自立支援法」の委託事業者と生活保護の相談員が2人で対応するそうだが、三女の場合、最初から「生活保護について聞きたい」とのことだったので、その窓口だった。

 ここで三女はひとつ、ハードルを突破していたことになる。なぜなら、4月に生活困窮者自立支援法が始まって以降、「生活が苦しい」などと訴えて役所に行くと、生活保護の窓口ではなく「生活困窮者自立支援法」の窓口に回されるという「水際作戦」に遭う懸念もあったからだ(もちろん、自立支援法の方に回されたからと言ってすべてが水際作戦というわけではない)。しかし、三女ははっきりと「生活保護」と口にすることによって、生活保護の窓口に最初から辿り着いている。

 ここでは様々な聞き取りが行われた。両親と三女の3人暮らしであること。借家暮らしで家賃は3万3000円であること。母は認知症で介護が必要な状態だが、要介護認定は受けていないということ。自らは3年前から母の介護で働けないこと。父親は新聞配達をしているものの、手足の痺れがあり、手術が必要と言われていること。年金収入はなく、貯金もほとんどないものの、翌週には父親の給料が入る予定であること。軽自動車をもっていること。農家に嫁いだ姉は米や野菜を送ってくれるものの、姉や両親の兄弟には経済的援助は期待できないこと。

 この時、役所は生活保護を受けるにあたっての要件や制約(働ける状況なら働くこと、資産があるならまずそれを処分して生活費にすることなど)について説明し、「保護のしおり」を渡したという。また、役所は「母親への介護サービスの提供が早急に必要」と判断し、生活保護の窓口から介護サービスの窓口に案内。三女はこの日のうちに要介護認定についての手続きをとったという。迅速な対応だろう。

 この日は「両親と相談して、状況が変わったらまた相談に来ます」と帰ったそうだが、彼女は一度目の相談の時点で要介護認定手続きという、「母の介護が楽になる」第一歩を既に踏み出していたのだ。
 さて、ここで少し気になったのは生活保護を受けるにあたっての「制約」である。例えば「車があったら受けられない」などの話はよくあり、こういった説明によって「自分は生活保護を受けられないんだ」と思い込んでしまうという話は耳にしたことがある。が、通勤や通院にどうしても必要な場合などは、役所に認められれば処分しなくてもいい。今回のケースではどうだったのか。また、その説明は行われていたのか。調査団の一人が問うと、課長は言った。

「皆さん、この辺だったら車ないときついよな、と思われたと思います。我々もその事情はよくわかってますので、やみくもに処分しろとは言いません。この世帯はまずお母様を介護サービスに繋げるのが第一、その後、娘さんが仕事できるようになるまでは処分指導の保留、ということを深谷市は結構とっています。1年、半年とか」
 
 しかし、肝心のそのことは彼女には伝えられていなかった。「保護のしおり」にも車の所有に関する記述はないという。
 
 11月2日、一度目の相談に訪れてからの彼女たちの生活は、以下のようなものだ。
 11月10日、父親の給料が入る。報道や役所によるとその額は「20万弱」。
 11月12日、父親が新聞配達の仕事をやめる。退職金はなし。同日、母親の要介護認定についての訪問調査が行われる。
 11月17日、三女、2度目の来所。この日、三女は「生活が困窮するので生活保護の申請をしたい」と伝えたという。
 世帯の様子はこのようなものだった。父が仕事を辞めた。その父が11月下旬に手術をすることになった。入院は約1ヶ月、その後もリハビリ通院が必要と言われた。三女はこの日、「今は母から目が離せない状況なので働くのは難しいが、父親の病状回復の状況次第では働きたい」と意欲を見せたという。役所側は再度、生活保護申請にあたって、要件や制約事項を説明、「よく理解した」という三女に生活保護の申請書類を渡したという。申請に必要な申請書や資産申告書、収入・無収入申告書、また金融機関などの調査をするにあたっての同意書などだ。世帯全員の署名、捺印が必要な書類もあったため、この日、三女はそれを持ち帰った。

 そうして19日、彼女の家に家庭訪問が行われる。訪れた職員は2名。申請書など関係書類を受け取りに行くという意味もあった。
 役所の人間と両親が会うのは初めてである。父親は立つのが大変そうだったが、かろうじて「自分で姿勢を維持できていた」という。母親は「半分寝ているような状態」だったという。電気はついていたので、電気は止まっていなかったことは確認できた。水道が止まっていないかの確認は、「失礼だからしなかった」。こたつのある居間で話し、他の2部屋は見なかったという。が、最低限の家電があることは確認できたそうだ。一家の財産は、この時点で現金としては10日に入った父の給料の残額8万7000円のみ。父親は、「手術して良くなったらまた新聞配達に復帰したい」と話していたそうだ。

 そんな家庭訪問から2日後の夜、一家は車で冷たい利根川に突っ込んだ。
「なんでこんなことに、と、訪問した2人の職員もショックを受けてます」
 課長は言った。ちなみに彼らが事件を知ったのは23日。マスコミから取材が来ていると聞いて初めて知ったそうだ。

 さて、ここまでの福祉事務所の対応について、あなたはどう思っただろうか。
「介護サービスにも繋いでよくやっている」「問題ないんじゃない?」という人が多いと思う。私自身も、適正だと思う。しかし、話していて、少しひっかかる部分があった。これは非常な微妙なところなのだが、「具体的にこれからどうなっていつ頃いくらくらい貰えるのか」という部分の説明が、あまりなされていないように思えるからだ。

 例えば面談で、私や他の人は何度か聞いた。
「19日の時点では、だいたいいつ頃にいくら貰えるとかって話はしていたんですか?」「この世帯の最低生活費はだいたいいくらくらいですと言いましたか?」「19日に2人がお帰りになる時、いついつ具体的にこうなるとかは説明されたでしょうか」
 すると、役所側の答えはいつも同じだった。
「具体的な金額は伝えません。資産調査とかの結果が出ないと、どこの福祉事務所もそうだと思いますが、トラブルになるので。ただ、医療費の心配をされていたので、生活保護では医療費は本人負担がないと、家賃も出ると、そういう話はしました」

 なかなか、悩ましい部分だと思う。生活保護費の額について、ほとんどの人は知らない。だからこそ、見当もつかないからこそ、不安に思う。知らない人のためにざっくり言うと、東京で単身者の場合、家賃込みで出る額は最大13万7400円。また、3人のこの世帯では家賃込みで20万円ほどだという。
 こういう具体的な金額情報って、本人にとって、ものすごく大切なことだと思うのだ。金額がざっくりわかることで、だいたいの生活のイメージが持てる。私自身も今まで申請同行や相談を受けた際、額は必ず言うようにしていた。「医療費は出るよ、家賃も出るよ」といくら言っても、生活費がどれほどかわからないと、生活を立て直す想像がつかないからだ。だけど、役所が「トラブルになるから言わない」というのもまぁ、わからなくはない。しかし、もしここで20万くらい出るとわかっていればどうだっただろう、とどうしても考えてしまうのだ。

 一方、三女の精神状態はどのようなものだったか。調査団の一人が彼女の様子について尋ねると、課長は言った。
「かなりハキハキした感じで喋る方でした。少なくともうつ状態とはうかがえなかった。19日に訪問した職員も、まったくそういう感じは見受けられなかったと」
 しっかり者の娘と、気丈な父親。もしかして、役所の人に悪い印象を持たれてしまったらアウトと、一生懸命ハキハキしていたのかもしれない。というか、私には、三女がもうずっと長いこと、精一杯気持ちを張りつめて生きてきたように思える。そんな三女の心は、おそらくどこかで折れたのだ。何があったのかは、知る由もない。

 面談後、私たちは彼女たちが住んでいた借家を訪れた。辺りに公団らしき古い建物がぽつんぽつんと並ぶ、寂しい場所だった。3人が住んでいた借家は、一見「廃墟」と見紛うほどだった。錆びたトタンや傷んだ壁がところどころ朽ちていて、軍手などが積まれた物置の入り口には、男物の防寒用ズボンがぶら下がっていた。父親が新聞配達をしていた時に使っていたものだろうか。縁側っぽいところには近所の人が供えたのかお花が生けてあり、その近くにステンレスのペット用のお皿があった。近所ののら猫にご飯でもあげていたのだろうか。そういえば、この事件を報道する写真で、この家の前に座り込んで主人の帰りを待つような猫の写真を見かけたことがある。しかし、もう3人は戻ってこない。

 面談に出席した課長は、12月なかば、三女の面会に行ったという。生活保護申請は受けたものの、2人が亡くなり、1人が収監中ということで、保護を取り下げるかどうかの確認だった。面会に現れた彼女は「このたびは申し訳ありませんでした」「市役所には迷惑かけました」と謝ったあと、生活保護について「取り下げでお願いします」と即座に答えたという。その時、三女はぽつんと、しかし、一瞬だけ感情を露にするように、「私は本当は、生活保護なんか受けたくなかった」と言ったという。

 
「生活保護を受けることにかなり抵抗があったんだと思います」
 課長は言った。
 彼女の言葉の真偽のほどはわからない。だけど、死を考えるほどに抵抗を感じていたとすれば、その抵抗や恥の思いは、この社会が作り出したものではないのか。一部メディアの心ない報道や、人々の差別心が生み出したものではないのか。確かに、誰だって生活保護は受けたくないだろう。だけど、それは当たり前の「権利」だという常識が定着していれば、今回のような悲劇はもしかしたら防げたかもしれないのだ。

 最後に。
 亡くなったお母さんの要介護認定は、今月には出るはずだった。そうすればケアマネージャーを決めてケアプランを作ってデイサービスなどに行き、三女の負担も軽くなっていたはずだ。そうして、11月下旬には父親が手術を受ける予定だった。まさに、生活を立て直す手がかりを掴んだかに見えた矢先に起きてしまった悲しい事件。
 三女は起訴された。これから始まる裁判を、見守っていきたい。

自宅には、お茶やお酒、お花などのお供えが。

物置にぶら下げられていた防寒用のズボン。父親のものだろうか。

一番手前が三人が住んでいた家。奥は既に無人のようだった。

 

  

※コメントは承認制です。
第360回 利根川介護心中未遂事件〜「本当は生活保護なんて受けたくなかった」。逮捕後、三女が漏らしたという言葉の意味〜の巻」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    「生活保護も要介護認定も直前になぜ?」という思いが拭えませんが、「生活保護なんて受けたくなかった」という三女が自ら申請に行ったという事実からだけでも、精神的に追い詰められていたことが伝わります。きっとそれまでにも、家族だけでどうにかしなければならないのだ、と思い込むような状況、希望を失わざるを得ない経験が重なっていたのではないでしょうか。そうした経緯はなかなか報道ではわかりません。追い詰められるより前に、もっと負担の少ない形で「助けて」といえる仕組みがあれば・・・と悔やまれます。

    • 和田たかお より:

      ご高齢の方で、誰の世話にもなりたくないとおっしゃる方が大勢いらっしゃいます。特に、生活保護と介護保険では著しいものがあります。しかし、これらの方々も年金の支給を受けることについては当たり前のこととして抵抗を感じていらっしゃいません。その次が健康保険、そして、誰もが受けたくないとおっしゃるのが生活保護です。全部同じ社会保障制度なのに大きな段差がある。皆さん不思議とお思いになりませんか。ここに、日本の社会保障制度のおおきな問題があると考えています。「お互いに大変ですね」と言い合える社会保障制度を作っていきたいものです。

  2. 土屋浄 より:

    役所窓口は、保護費がいくらという説明はすべき。でもそれより大事なことは、生保は国民の権利である旨をしっかり話し、恥ずかしいことでもなんでもないことを理解していただく努力をすべき。福祉の心、憲法の精神を持った対応こそが望まれる。

  3. 佐々木 より:

    それでも、行政が何かできたはずです。
    私たちは比較的良いサービス、を求めて権限を与えているのではなく
    「生存権」だけは守る、為に権限を与えているのです。
    「生活保護はあなた個人の為だけではなく、社会を守るためにある制度です。今はつらいと思います。それでも制度を使ってください。またゆっくりと立て直しましょう」
    と伝わるまで語りかけ続けたのでしょうか。

  4. Yamada Osamu より:

    生活保護をはじめとする一部の公的ケアを「恥をしのんで…」ととらえてしまう文化的背景…そのかげには何が隠されているのか。受給可能な世帯であっても自ら申請をためらい、無理やり「自立」に駆り立ててゆく、こうした余裕のない社会…民生委員もケースワーカーも政治家もそれぞれの立場で問われているはずですが、こうした部分で有効なアプローチを持つ人材も手法もあまりに少ないといえます。そしていま、その窓口のひとつである政治家(議員)定数を「身を切る改革」とやらで削減する。議員歳費や政党助成金を全廃してでも定数削減をやめ、こうした問題へのアクセスを確保すべきかと愚考いたします。それにしてもまず「生保」へのハードルをいかに低くするか、ですね。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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