雨宮処凛がゆく!

 怒濤の都知事選が終わった。なんだかんだで鳥越俊太郎氏の応援には4回行った。どこに行ってもすごい熱気で、確かな手応えを感じた。
 しかし、蓋を開けてみたら、あっという間に小池ゆりこ氏の当確。今、「選挙って、なんだ!?」という問いが、「人生って、なんだ!?」くらいの重さで私にまとわりついている。が、ここで腐っていてもしょうがない。まずはこれから小池都政を徹底的に注視していくしかない。

 そんな都知事選の最中、あまりにも痛ましい事件が起きた。
 相模原の施設で、19名が殺害された事件だ。

 この事件について共同通信配信で記事を書いたところ、各地の新聞に掲載された途端にすごい反響があったので、少し、内容を紹介したい。
 まず、私の従兄弟の女の子は知的障害を抱えていて、20代で亡くなった。従兄弟以上・姉妹未満みたいな感じで育った年下の彼女は、身体は健康だったものの、ある時、風邪の菌が脳に入ったとかで体調が急激に悪化。救急車を呼ぶものの、「知的障害の人は受け入れられない」と病院に拒否された。自分の症状を説明できないからだという。翌日、受け入れ先の病院が見つかったものの、すでに手遅れの状態で、あっという間に亡くなった。

 今回19名殺害の事件を受けて、メディアなどでは「かけがえのない命」「命は大切」という言葉が繰り返されている。頷きながらも、どうしても違和感を覚えてしまう。果たして、この社会は本当に「命」を大切にしてきたのだろうかと。

 1999年、都知事になりたての石原慎太郎氏は、障害者施設を訪れた際、「ああいう人って人格があるのかね」と発言した。一方、麻生太郎副総理は今年6月、高齢者問題に触れ「いつまで生きるつもりだよ」と発言。2008年には「たらたら飲んで食べて、何もしない人の医療費をなぜ私が払うんだ」と述べている。
 「かけがえのない」と言われながらも、その命は常にお金と天秤にかけられる。費用対効果などという言葉で値踏みされる。この国では、命に対するそんなダブルスタンダードがずっとまかり通ってきた。実際、これまでの障害者の事故死などを巡る裁判で、彼らの逸失利益(将来得られたはずの収入など)は「ゼロ」と算定されるケースがままあったではないか――。

 ものすごくざっくりだが、そんなようなことを書いた。言いたかったのは、痛ましい事件が起きた時だけ、「命は大切」というのはもうやめよう、ということだ。普段から、本当に命を大切にする実践をしようということだ。それは障害を持つ人に対してだけではもちろんない。隣の誰か、少し弱っている誰か、大変そうな誰かへの優しいまなざしを忘れずにいること。「利益を創出する者だけに価値がある」なんて暴力的な価値観に抗うこと。弱い立場の人の目線になってみること。そんな実践からしか、「命を大切にする社会」は生まれない。

 さて、共同通信ではそんな原稿を書いたのだが、もうひとつ、言いたかったことがある。
 容疑者は、障害を持つ人々を殊更に「不幸」と決めつけているわけだが、今、私は「そんなことはない」と声を大にして言いたいのだ。

 例えば都知事選の投開票日に放映されたNHK Eテレの「バリバラ」をどれくらいの人が観ていただろう?
 バリバラとは、障害者のための情報バラエティー番組。最近は障害者だけでなくすべてのマイノリティの問題を取り上げている。で、私はこの番組をたまに観ているのだが、都知事選の日は「マイノリティのお笑い日本一」を決める「SHOW-1グランプリ」が放映されていた。車椅子だったり寝たきりだったりLGBTだったりと様々な障害やマイノリティ要素を持つ人々が「お笑い芸人」として登場し、コントをしたりネタを披露したりするのだ。
 これがまぁ、衝撃だった。

 高次脳機能障害の人が自分の障害をネタに笑いをとり、寝たきりの人が「雇ってください」と仕事の面接を受けに行くネタをやったり、発達障害の人たちが「発達障害あるある」的なコントをしたり。果ては「言葉による場外乱闘」になると、寝たきりの男性芸人が筋ジストロフィーで車椅子の男性芸人に向かって、「いいか、障害は寝てからだぞ」(障害は寝たきりになってからだぞ)と言い放ったり――。「自分の障害をネタにした障害者」の底力の半端なさを「これでもか!」と見せつけられ、爆笑しつつも「人間の尊厳」なんて上っ面な言葉を遥かに超えたところにある何かに、感電するほどにシビれたのだった。

 精神障害の分野だって、素晴らしい取り組みがある。当事者研究で有名な「べてるの家」は北海道・浦河で80年代から活動を続ける当事者たちの共同体だ。年に一度のべてる祭りでは「幻覚&妄想大賞」が開催され、その年でもっとも幻覚や妄想に苦労した人が表彰される。ちなみに「べてるの家」には、今話題のポケモンGOが流行るずーっと前からピカチューが見えていた人がいるというのだから、ゲームなど必要ないではないか。
 そんな「べてるの家」の理念は「安心してサボれる職場づくり」「べてるに来れば病気が出る」「昇る人生から降りる人生へ」「弱さの情報公開」などなど。全身から力が抜け、よろけてしまいそうなほど素晴らしい。彼らの取り組みは世界的な注目も集めており、毎年、世界中から北海道の田舎町に数千人の研究者らが見学に訪れるのだ。

 脳性麻痺の分野でも、とてつもない取り組みがある。それは「青い芝の会」。07年に、75年に出版された『母よ、殺すな!』という本が復刊され、私は本の推薦文を書いたのだが、まあ彼らの運動といったら凄まじい。ちなみになぜ「母よ、殺すな!」なのか。それは70年に起きたひとつの悲しい事件に端を発する。この年、2人の重度脳性麻痺の子どもを抱えた母親が、2歳の下の子を殺してしまったのだ。母親は脳性麻痺の子どもに対し、「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」と思ったという。この事件に世間は同情を寄せ、母親への「減刑嘆願運動」が起きる。それに対して、脳性麻痺の人々の団体「青い芝の会」が、「殺されてもやむを得ないなら、殺された側の人権はどうなる!」と「殺される側」から声を上げたのだ。

 『母よ、殺すな』著者で脳性麻痺の横塚晃一氏は、以下のように書いている。

 なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本性あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。

 あるがままの「命」を肯定しようとする叫び。これほどに力強い言葉が他にあるだろうか。生存を否定したり、条件つきにしようとするあらゆる力に対し、彼らは全身全霊で抗う。そんな「青い芝の会」の行動綱領には、以下のような言葉が並ぶ。

 「われらは強烈な自己主張を行う」「われらは愛と正義を否定する」「われらは問題解決の路を選ばない」

 一見過激だが、彼らの言葉は、なぜこんなに躍動感に満ちているのか。不自由な身体を抱える彼らの内面に、どれほど溢れんばかりの言葉の洪水が満ちているのか、鳥肌が立つ思いがするのだ。

 もうひとつ、紹介したいのは、ALSの人たちのコミュニケーションだ。身体中の筋力が徐々に奪われ、死に至る病である。病気が進行すれば呼吸器をつけなければならないので話せなくなる。身体も動かせなくなると、手で文字盤などを指すこともできない。そうなるとどうやってコミュニケーションをするのかというと、介助者が当事者の腕を取り、「あ、か、さ、た、な・・・」と発語する。
 例えば「こんにちは」と言いたい時は「か」のところでほんの少し動く筋肉を動かし、今度は「か、き、く、け、こ」の「こ」のところで動かす。こうやって1文字ずつ、言葉の欠片を拾っていくのだ。
 数年前の院内集会でその光景を初めて見た時、私は「荘厳な儀式」を観ているような気持ちになった。そして、人間の「伝えたい」というコミュニケーションへの執念に、胸を打たれた。
 車いすに乗り、目を閉じて眠っているように見える女性はそうして長い時間かけて言葉を紡いだ。端から見たら失礼ながら「瀕死」「重症」に見えてしまう彼女がそうして紡いだ言葉は、「まだ死んでない」だった。最上級のブラックジョークに、会場はどっと笑いに包まれた。

 反貧困運動を始めて、10年。その間、数々の障害者運動の人たちと出会ってきた。そこから私は、多くのことを学んだ。障害者運動は、熱い。本気でギリギリの「生きさせろ」という叫びを、私はどれほど聞いただろう。
 ある意味で、貧困だったり非正規だったりするということは「状況」だ。一過性のものかもしれない。そこからの脱出を、多くの人が望んでいる。しかし、障害者運動の「覚悟」は違う。一生これを引き受けて、どう生きていくか。私は彼らの言葉に何度目を開かされ、何度涙を流しただろう。

 容疑者は、こんな豊かな世界があるということを、知らなかったのだと思う。生きることそれ自体が闘いという世界。そこから生まれてきたたくさんの言葉と文化と作法と、生き延びるためのたくさんの知恵とノウハウ。そして彼らの運動は、これまで確実に政治を変えてきたのだ。
 多くの人は、障害者というと24時間テレビに登場するような「頑張ってる障害者」「清く正しく美しい障害者」を想像するのかもしれない。が、それはほんの一断面で、主張する障害者もいるし、言うこときかない障害者もいるし、お笑い芸人になる障害者もいるし、たぐいまれなる笑いのセンスや才能を持つ障害者もいる。
 格差と貧困が深刻化し、生きる基盤がどんどん切り崩されている今、「生存」を求めて闘ってきた障害者運動の歴史から、私たちは学ぶべきことが山ほどあるのだ。

 ちなみに、私は北朝鮮に5回行っているが、かの国で障害者を見たことはない。北朝鮮で生まれ育った人に聞いても、彼らも「見たことがない」ということだった。そんなかの国で生まれ育った人が日本に来て身体障害者を見た時、驚いて指をさしたのを見て、「本気で見たことないんだ」と戦慄したことを覚えている。

 障害を持つ人も持たない人も当たり前に生きられる社会。立場の弱い人やハンディを抱えた人に視点を合わせた社会。
 結果的にそんな社会は、誰もが生きやすい社会だと思うのだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第384回障害者の世界は、「豊か」だ。の巻」 に21件のコメント

  1. magazine9 より:

    「頑張っているならいいよ」「役に立っているならいいよ」「●●だったらいいよ」…何かと引き換えに評価されるような、そんな無言のプレッシャーが、家庭や学校、会社など社会のあちこちに溢れているようです。それを最も強く感じてきたのが、障がい者をもつ人たちだったのかもしれません。そう書きながら、自分も無意識のうちに「評価」の視点で他人を見ていないかと、不安になりました。評価や枠から自由になったとき、世界の本当の豊かさが見えてくるような気がします。

  2. うまれつきおうな より:

    理想はそうかもしれないが現実は健常者は少しでも生産性が低いと容赦なく「死んだほうが良い」などと言われているわけで、そこで「障がい者は生きているだけで尊い」と言われても身分制度のような理不尽に感じるだけではないだろうか。この際「障がい者は日本が先進国であることを宣伝することに役立っている」という方向でアピールしたほうがいいのではないか。無論、根本的な解決にならないというのは分かっているが、今の「人権は金持ちにしか認めない」という体制がすぐには変わらない以上、障がい者を守るためにはそういう戦法も有りではないかと思う。

  3. 貨幣経済廃止論者 より:

    それじゃ、ますます金持ちにしか人権を認めない連中をのさばらせて、「障がい」のあるなしに関わらず金持ちでは無い人間を「国の道具」に固定するだけだと思うが。

  4. 通りすがり より:

    逸失利益の部分ですが、ゼロと算定することが何かおかしいのでしょうか。労働で収入を得ることができない人の逸失利益をゼロとするのは当然のように思います。慰謝料について差を設ける必要はないですが。

  5. 織本花嬌の末裔 より:

    私は精神障碍者です。合わせて身体障碍者です。
    障がい者の日常は悩みと絶望の間を振り子のようにさまよっているだけです。就職すると身体の不自由によって『経歴詐称』だの事実無根の言いがかりをつけられ退職に追い込まれ、病院に通院すると職場でいうと何の病気かしつこく聞かれ、心の病と言うと、変人扱いされ、就職しても最低賃金で働きます。私は最低賃金に近いもので15万円頂戴していました。もちろん、結婚なんて、笑われて相手にもされません。女性とお付き合いもできませんし。私の場合一軒家に一人で住んでいて家賃も発生しませんが年収や職業に引っかかり結婚相談所も門前払い。私の趣味は広く、音楽演奏やカメラ、バイク、料理など幅広く構えていますが、世の女性は悉くスルーです。障害をもってから大学を2つ通い、1つは有名校の通信制、もう一つは4年生大学を3年で単位満了の卒業要件を満たすが、いくら、頑張っても就職したいときには就職できず、婚期は皆無、年金は大きく上がることはなく、毎年下がり続け、近所では相手にされることはなく。警察に行くと盗難届も出させてくれません。板橋区役所だって虐待を受けてると通報したって動いてはくれません。両親は蒸発し昨年他界したらしく、父親の葬儀も火葬も私には何も知らされず、私は母親から亡くなったのでお墓を建てるように命令され私は年金から3000円以上の旅費を使ってお墓の交渉に行っています。それでも、話がまとまりそうになると、母親は私をのけ者にして『あとはこちらでやっとくの、お前はもういいよ』と言い始め、実の姉は連絡しても無言を続け、親戚には軽蔑され、・・・・私の半生ですが、どこが。豊かなのでしょうか?作者の主旨が全く解せません。世界で地獄に一番近く天国から一番離れた存在こそ『日本の障がい者』なのです。
    私は中学から続いている家族によっての虐待行為の被害者で本来病人でも何でもないのです私を含め4人家族で私の除く3人で私を人格を含め全否定され続け、病院に通院すると『弟の病気をしっかりと治して下さい今大変な状態です』という悪意の電話がかかってくるのです。このような、私のように『一人ぼっちの不幸な身体・精神障がい者』いることも頭の片隅に置いておいて下さい。
    私なんて生きてるようで死んだも同様なのです。

  6. 島 憲治 より:

    >「たらたら飲んで食べて、何もしない人の医療をなぜ私が払うんだ」。石原晋太郎氏の好きな言葉を借りれば,頭の悪い人にはそのようにしか映らないのです。         石原さん、彼らがなぜそのようにしているか御存知ですか。社会構造がそうなっているからです。その社会構造は誰が造ったのですか。彼ら少数派ではないのです。この視点に立てないと彼らと向き合うことはほとんどできないでしょう。                          また、子どもを選別して生めないのです。あるいは後天的に病気、事故でいつ少数者側に回るかもしれません。全ては一人の力では生存できない。一人で生存できない人を国家が救済しないで誰が一体救済するのですか。 そのために国民は税金を支払い,国家を作ったのと違いますか。      >「利益を創出する者だけ価値がある」なんて暴力的名価値観に抗うこと。弱い立場の人の目線になってみること。
    そのためには「自立心」の醸成は欠かせないと考えています。しかも受験学力で身につく代物ではありません。

  7. 大西 誠 より:

    読み終えて感じたことは、憲法改正論議に「三大義務」の一つ「労働の義務」の改正が俎上にあがっていないことです。日本人の美徳として「勤勉さ」があげられますが、団塊の世代の私たちは「働かざる者食うべからざる」と生産性第1の価値観の中で育てられ、障害者への差別性を身につけてきました。「食うな!」は「生きるな!」につながります。生きる価値がないという、その人の命の否定になります。そんな「命への見方」を自覚することなく、事件の際に、第3者的立場で「いのちの大切さ」を声高に言うことに、どんな意味があるのか、と問いたい。

  8. 川端治 より:

    日本社会に自分で働いて自分の食い扶持を稼いだ生活をすることが、常識とされている風潮があると思います。障害手帳を持って、年金の援助をしてもらうことが、ずるいんだとがめついと思われるかもしれません。生活保護も国民に養ってもらっていることや国の世話になってしまうと感じるひとがいて申請しないひとがいます。私は、健常者や強者だけが生きている社会には、住みたくありません。弱者がその人のその人なりの人生を健常者や強者が支える助けている暖かい社会に住みたいです。

  9. 元HIKIKOMORIの豚猫 より:

    こんばんは。

    そういう雨宮さん自身も、「下流中年(SB新書)」で、萱野稔人さんと一緒に高齢者のことを恵まれ過ぎだとか話してましたよね。
    (同書52-53ページ)

    いや、そのこと自身を責めるわけではないのです。
    「自分は社会的弱者に寄り添っている」という人も、「公認された社会的弱者に対する怨恨」が見え隠れしてしまう、ということを言いたいのです。

    私自身も、障害者支援施設のことを馬鹿にしてしまったことがあります。
    実際精神障害者として入所していたことがありますが、「まるで幼稚園か小学校みたいだ。誰も見に来ない学芸会みたいなイベントに強制参加させやがって」とか思ってしまいました。

    今回の事件の根底には、「公認された社会的弱者に対する怨恨」があると思っています。
    そして、それは私たち一人ひとり、抱いてしまう危険性があるということです。

  10. 小林大介 より:

    人間なんて生きてるだけでいいんだよ。適当に生きてても他の誰かが何とかするだろ?何とかならなかったら、皆で滅べば良いだけの事。「滅びるの嫌だー!」って奴が腐るほどいるから、そう簡単には滅びないから大丈夫!(ニヤニヤw

  11. 多賀恭一 より:

    ① 戦争が近づくと、「障害者は無駄だから処分しろ」との声が強くなる。今回発生した障害者大量殺人事件は、社会全体が戦争に傾いていることの現れだ。市民諸君は最大限に警戒しなければいけない。
    ② 都知事選の立候補者、鳥越氏は移民推進派だ。移民は労働環境の悪化を引き起こす。労働者の側に立つ雨宮さんが応援すべき人物ではなかった。

  12. 鳴井 勝敏 より:

    その1)                        私は、年に4、5回、10年に亘り精神疾患者との触れ合いを経験したことがあります。面会室は病棟の中にある看護士の詰め所でした。出入りは鍵を持つ看護師が鉄の扉を開扉してくれます。その間に学んだことは鉄扉の中にいるか、外にいるか、紙一重であるということでした。以下は、沢山のコメントに触れ、私の感じたことです。
                               >どこが。豊かなのでしょうか?作者の主旨が全く解せません。
    人権の対象外と言わんばかりの人達に、このように生きている人達のいることをアピールしたかったのでは。あなたの主張していることがらが精神疾患者の多数意見ではないでしょうか。                                                     

  13. 鳴井 勝敏 より:

    (その2)                      >私は、健常者や強者だけが生きている社会には、住みたくありません。弱者がその人のその人なりの人生を健常者や強者が支える助けている暖かい社会に住みたいです。
    私もそう願っています。精神疾患者とそうでない人とは既述した通り紙一重です。誰もが、何時そちら側へ廻るかもしれないと考えています。障害者に優しい社会を造れないのでは、健常者にも優しい社会は造れません。

    >事件の際に、第3者的立場で「いのちの大切さ」を声高に言うことに、どんな意味があるのか、と問いたい。
    ほとんど意味がありません。家庭、学校、地域社会に人権の香りを充満させなければならないと考えています。「弱者の立場に立って」とはいうが、いうほど簡単ではありません。その為には「自立心」が欠かせないからです。ところが、家庭、学校を通じて「自立心」を重要視する風潮が日本にはとても欠けていると思います。

  14. 鳴井 勝敏 より:

    (その3)                      >「自分は社会的弱者に寄り添っている」という人も、「公認された社会的弱者に対する怨恨」が見え隠れしてしまう、ということを言いたいのです。
     確かに、そういう人達が多いかもしれません。しかし、人権思想の臭いがぷんぷんする人も沢山います。そのような人達との出会いを期待したいです。             内科、外科、眼科とある様に精神科も疾患の種類の一つに過ぎません。ところが家族始め、社会の目はそのようには評価しません。その理由は次の様な構造から生まれると考えています。「無知から偏見が生まれ、偏見から不安が生まれる」。この構造が他の疾患と決定的に違うところです。つまり、出発点は「無知」です。無知を了知に転換するには、健常者、障害者が一体になった取り組みが大事かなと考えています。まずは身の廻りから偏見を除去したいものです。 

  15. James Hopkins「反戦ネットワーク(2002/08)」賛同 より:

    ”人ひとりの命、ひとりのものにあらず”といふのがいわば定言命法であって、ひとりの人はそれにつらなる人の尊厳を映しだすもの存在であると考えるのが妥当なこととわたしにはおもわれる。いかなる状態にあろうとも、まづ人として生きて在ることの尊厳をおかなければ、その生命はどのようにでもされてしまふといふ危惧と憂慮につきまとわれることとなる。
    ”ひとの命の重さ(とか)大切さ”とはよくつかわれる文言文句ではあるが、わたしはむしろ、”人の生命のはかなさ”をいふべきだろふとおもふ。このことはいわゆる健常者であろふと非健常者であろふと本質において均しく同じことであろふ。いわゆる”弱さ”とは、強いられた状況状態や立場ないし位置によって生ずるものであると考えれば、健常者か否かを問わずにすべての人に該当することであるから、その”弱さ”を事由にした迫害や排除まして殺害抹殺があってはならないとするのが、普遍的な道徳ないし倫理基準でなければならないだろふ。
    そして、いわく”豊かさ”とは、この道徳倫理基準の実践によって生み出されるものであると考えるのが妥当かつ正義なのではなかろふか。健常者は非健常者の日々の事共や心胸を知らず、またその逆もある。それぞれの主観的な恨みつらみはあるにせよ、それらを越えたところで遭遇邂逅するいっさいが、われらひとりひとりをよりひろい眺めや奥ゆきへと導いてくれることがある。このことがいわば”豊かさ”としてあらわれるといふことではないだろうか。
    ときに”尊厳”とは、また”デリカシー”のことでもあろふ。

  16. モコ より:

     障碍者(中途障碍者も含む)への眼差しは、自分自身が不慮の事故・出来事等によって障害(精神障害を含む)を負ってしまった時、障害児を生んだ時など当事者になった時、自分自身へ跳ね返って苦しむことを忘れているような気がします。障碍者を軽蔑していた人(家族)が障害者になった時、自分が自分のこれまでの見方・考えによって逆に苦しむことになるのではないか・・と懸念してしまいます。

  17. James Hopkins「反戦ネットワーク(2002/08)」賛同 より:

    さて、上記のモコさんのコメントに添えて~
    そういったことは実際のところ無論必然のことどもです。わたしの眺めからすれば、これこそ、いわゆる”躓きの石”~「新約」福音書(ナザレのイエス伝/言行録)で述べられていること~といふべきことのようにおもいます。いわばそれまで気づくことのなかったことどもとの遭遇邂逅ないし直面によって、あらたな視界眺めへと導かれるといったことです。
    ひとはそれぞれひとりひとりが種々様々の身辺環境条件から生来した主観的な制約/眺めのなかにあります。これにあらたな眺めがもたらされるには、やはりあらたな遭遇と邂逅が必要です。あらたな眺めをとらえるには、ときに「生み/産みの苦しみ」を強いられることは当然のこととしてあります。予期せざる事故や傷害疾患などによって強いられることの苦しみやかなしみは実際の経験を通じてしかなかなか理解できないことと云えます。
    これらのことどもについて普遍的にとりくむべきことはつまるところ、無知とそこから生ずる偏見そして恐怖ないし不安に係わることどもとおもわれます。
    ときにおもふのは、非健常者ないし障害者によるさまざまな文芸活動がよりさかんに展開され啓蒙されることが重要必須であることのようにおもいます。私事ながら彼のヘレン・ケラーの自伝を読んだときに抱いた新鮮なおどろきにも似た感慨は忘れがたいものとしてあります。
    文芸実作はなかなかむづかしいこともありますが、手記やそれに類する詩作といったかたちのものであれば、さまざまに発行することができるでしょうし、公共教育の実践においても、そういった作品にふれてとりくむことが、無知や偏見を取り除いてゆく構えを啓蒙することになります。ときに障害者とされるひとの心胸を識るうえでは、こうした文芸作品によることが、(当事者との係わりにおける)さまざまな制約困難をのりこえるうえでは好都合であるようにおもわれます。文芸作品による交流啓蒙は、実名をあきらかにした実際対面による談話交流よりはるかに、当事者のデリケートなことがらやプラィヴァシーに係わることどもを的確に防護しながらあきらかにすることができますから。
    これらのことがときに、また”ピア・カウンセリング”セラピーとしてはたらくことになるようにおもわれます。

  18. asa より:

    自分自身が不慮の事故・出来事等によって障害(精神障害を含む)を負ってしまった時、障害児を生んだ時など当事者になった時、自分自身へ跳ね返って苦しむことを忘れているような気がします。障碍者を軽蔑していた人(家族)が障害者になった時、自分が自分のこれまでの見方・考えによって逆に苦しむことになるのではないか・・と懸念してしまいます。

    確かにその通りのことであることは言うまでもありませんが、こうした出来事にしても、全ては、当事者にとっては決して主体的選択ではなかったにせよ、全ては偶発的な出来事であり、これが当事者が自ら招いたことなのだといったところで、決して当事者だけの責任ではないことは当たり前のことですが、これを自己責任だといったところで、こうした当事者を取り巻く環境的要因そのものであることもまた偶発的な転機そのものであるということで、これを発想のてんかんにより、こうした出来事そのものに対する悪い影響だけを、そっと静かに歴史の闇の中に葬り捨ててしまうことで、これを別の良い影響を齎す行動に置き換えて学習しなおしていくことにより、日本社会を大きく変えていくきっかけとしていくことが何より大切なことではないかと考えられるのですが?

    最も、これがキャリアカウンセリングであれば、クランボルツによる社会的学習理論を、障害者や高齢者のほか、生活保護受給者や生活困窮者自立支援法などに基づく就労支援というものに応用していくことは可能かも知れませんが、例えば医療的な支援をはじめ、要介護状態などによる介護保険法などによる支援においては、別の専門職や専門機関などによる支援に委ねる必要もあり、こうしたところには、これが果たして応用できるとは決して限らないことだけは、予め留意すべきところではあるのですが?

  19. James Hopkins「反戦ネットワーク(2002/08)」賛同 より:

    ところで、相模原の療養施設で起きた事件についてだが、この件についてとくに留意したいのは、犯行に及んだ元施設職員が自身精神神経疾患の診療をうけているといふことに係わることである。ここで敢えて留意し言及したいこととは、彼が処方され服用していたであろふ薬剤のことである。
    精神科医療での処方薬剤とその使用については、その諸問題(とくに多剤多量投薬)がこの10年ほどでかなり指摘されてきたが、いまだに十分な周知と対処改善には至っていないようにおもわれる。~ちなみに”向精神薬”は、”麻薬”と同等に扱われるものである。「麻薬取締法」の正式名称には、”麻薬および向精神薬”とされているはずである。
    ときにこれに係わる代表的な啓蒙書としては、デイヴィッド・ヒーリーによる著書の訳書「抗うつ薬の功罪/SSRI論争と訴訟」みすず書房(2005)など、最近では手短に簡潔に参照できるものとして、野田正彰「うつに非ず/うつ病の真実と精神医療の罪」講談社(2013)がある。
    これらを参照するかぎりでわかることは、”向精神薬”ここではとくに”SSRI”薬剤についてだが、これが場合によって”希死念慮/自殺衝動”を高めることと併せ、ときに”他害傾向ないし攻撃性”をひき起こすことが指摘されていることである。
    ここで示唆し啓蒙したいことは、あくまで精神科医療が抱える処方薬剤とその使用に係わる問題群であることに留意してもらいたい。精神神経疾患への偏見等を助長するような意図は一切ないことは明確にしておきたい。

    因みに最近の伝聞によると、ここ日本ではいまなお、EU/欧州連合構成諸国や米合衆国の医療機関で最近一般に指導かつ規定されている投薬基準値のおおよそ10倍(平均でだろふ)におよぶ薬剤が一症例患者に処方されているとのことらしい。その結果、一国としては世界最大の精神科処方薬剤の販売消費市場であるらしい。暗然たる感があるゆえ、敢えてここに記す。

  20. yukazou より:

    逸失利益はゼロでは無くマイナスだろう。
    なぜなら血税による障害年金が支払われなくて済むからだ。

    北朝鮮で障害者を見たことがないのは生まれたときに殺されるからだ。
    中途障害の場合は恥だと感じ家から出ない。
    昔の日本と同じ。

    北朝鮮のことを良く言いたいのだろうが、日本でよく見かける
    ようになったのはそれだけ意識が改革している証拠=北朝鮮
    は遅れている、と言っているようなものだが?

  21. より:

    「障害者=障害者年金を貰える」という前提の時点で、もうね・・・。
    お金を稼いでいる障害者も沢山居ますよ、都合が悪いから皆さんが見ない様にしているだけでしょ。
    なら、そういう障害者も「逸失利益はマイナス」なのかって話で。
    結局、自分の偏見を露呈しているだけですよ、って話な訳で。

    「障害者=無価値で何の役にも立たない馬鹿共」
    これが結局、国民の多くの頭の底にこびり付いている偏見な訳で、それを
    「勤労の義務が定められているから」とか、
    「昭和世代の偏見だ」とか、
    そんな責任転嫁で済むレベルの話じゃないと思うのですよ。
    (そもそも法律で、障害者も権利を認められているんだけれど・・・まあ、ここの人達はそんな事も知らないんだろうなあ)

    バリバラも矢鱈と持ち上げられているけれど、「自分で望んで笑い者にされる」という意味では、昔の見世物小屋と同じなんですよ。
    (まあ、貴方達は認めたく無いんだろうけれど。昔だって見世物小屋は障害者が金を稼ぐ手段だったのだし。親に売り飛ばされたのなら別だが)

    後、
    「障害者をハッキリ批判しちゃう俺かっこいい」
    も、いい加減見飽きたから、うんざりですわ。

    こうやって障害者は、
    「叩いてストレス解消」「持ち上げて利権利用」
    両方の意味で利用されて、本当な便利な消耗品だよね(´・ω・`)

    そんな訳で、これからも紅いゴスロリアイドルの処凛たそには、頑張って執筆活動して欲しいです。
    障害者年金を一円も貰えない障害者より(`・ω・´)ノシ

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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