雨宮処凛がゆく!

 今年は、イラク戦争から10年である。

 その10年という節目にふさわしいあるドキュメンタリー映画が、12月から公開される。

 それは『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件・・・そして』だ。
 04年に起きた「日本人人質事件」は皆さん覚えていると思う。

 高遠菜穂子さん、今井紀明さん、そして郡山総一郎さんがイラクのファルージャで武装グループに誘拐、拘束された事件。武装グループは日本政府に「自衛隊の3日以内の撤退」を求め、従わないと「3人を生きたまま焼き殺す」と宣言。これに対して、当時の小泉政権は自衛隊撤退はしないと主張。結局、無事に解放されたわけだが、人質となった3人に対して、世間から大バッシングが沸き起こった。

 その時に登場した言葉が「自己責任」だ。

 この事件が起きた時、あなたはどんなふうに思っただろうか。3人を心から心配した人もいれば、メディアやネット上での「軽卒な行動が国に迷惑をかけた」という論調になんとなく賛同していた人もいるかもしれない。実際にバッシングに参加した人もいるかもしれないし、まったく関心がなかったという人もいるかもしれない。

 私はというと、とても他人事とは思えないでいた。なぜなら、私自身もイラク戦争1ヶ月前にバグダッド入りしていたからである。

 戦争は始まっていなかったとはいえ、既に多くの米軍がイラクの周りに配備され、空爆が始まるのは秒読みとされていた。また、出国直前、外務省からは邦人避難勧告が出ていた。この時点で、何かあったら「自己責任」と言われる条件は揃いまくっている。だけど、私はどうしてもイラクに行きたかった。当時、世界中から反戦活動家がイラクに集まっていた。外国人がたくさんイラクにいれば、米軍は爆弾を落とせないと考えたからだ。彼らは自らを「人間の盾」と名乗り、身体を張って戦争を止めようとしていた。そんな現場に私も行って「戦争に反対している」という意志を表明したかったのだ。

 結局、開戦前には何事もなく帰国したから、私の行動は誰にも批判されなかった。それからイラク戦争が始まり、すぐに終結し、イラクでは戦後の泥沼が始まった。私の周りのジャーナリストやフリーライターなどはこぞってイラク入りしていた。そんな時に、あの事件が起きたのだ。

 映画は、イラク戦争から10年後の高遠さん、今井さんを追っている。事件当時18歳だった今井さんは、事件のあと5年間ほどは対人恐怖に苦しみ、現在は、ひきこもりなどの若者を支援するNPOの代表をつとめている。一方、高遠さんは今もイラク支援を続けている。

 あの事件から10年経って、改めて、思う。なぜ、彼らはあれほどまでにバッシングされなければならなかったのか。今井さんは高校生の頃から劣化ウラン弾の被害を訴える活動をしていたという見上げた若者である。高遠さんは、イラクのストリートチルドレンなどの支援活動をしていた人である。だからこそ、2人はイラクに入っていた。そんな彼らに、なぜ、多くの日本人が「拒絶反応」のような感情を剥き出しにしたのか。

 そしてもっとも謎なのは、そういった「善意のボランティア」があれほど叩かれたのとは対照的に、当時の小泉首相はそんなバッシングなどとは今に至るまで無縁ということだ。イラク戦争開戦の最大の根拠となった「大量破壊兵器」はそもそも存在すらせず、誤った情報によって始められた戦争を真っ先に支持した日本政府の責任が誰にも問われていないという不条理。が、「勘違い」によって始められた戦争で多くの人の命が奪われ、今もイラクは混乱の中にある。

 映画を見て、この10年の日本を改めて振り返った。そうしたら、なんだか怖くなった。「自己責任」という言葉はありとあらゆる場面で更に幅を聞かせているからだ。

 今井さんは、映画の中で「『自己責任』って、『死ね』ってことじゃないですか」と語っている。そうなのだ。貧困に対しても使われるこの言葉は、突き詰めると、「もう面倒だから死んでくれ」とほぼ同義だ。

 今、格差と貧困が拡大する中で、多くの人が余裕をなくしている。自分自身もいつ「転落」するかわからない日々の中、決して「負け組」にならないように、多くの人が今いる場所に必死でしがみつき続けている。そんな彼らが道ばたでホームレスを見たりした時、どう思うだろうか。ある程度余裕があれば「可哀想だ」と思うかもしれない。「ひどい世の中だ」と心を痛める人もいるだろう。また、「これは社会の問題だ」と考える人もいるはずだ。しかし、構造の問題として捉え、社会の問題として考えると、自分自身も何かしなくてはならなくなる。

 そんな時、「自己責任」という言葉ほど魅力的なものはない。その人の責任ということしてしまえば、何もしない自分は完璧に免責されるのだから。

 翻って、イラク人質事件の時の自己責任の大合唱だ。

 あの背景にも、同じような心理があったのではないだろうか。「大量破壊兵器」という、あるかないかよくわからないものを理由に始められた戦争。その戦争を真っ先に支持した国の1人である自分。戦争に加担しているといううっすらとした罪悪感が、あの頃、この国の人々の間には確かにあった。自分たちの税金が、イラク人を殺すことに使われているという後ろめたさのようなもの。

 だからこそ、イラクで3人が人質となったと聞いた時、多くの日本人は更に罪の意識に苛まれたのではないだろうか。戦争に加担している国の国民として何もしていない自分と、そんな状況に抗って、ボランティアとしてイラクの人々の支援の活動をしている若者という構図。それは、「おまえはそれでいいのか?」という言葉を突きつけるものかもしれなかった。

 しかし、そんな漠然とした罪悪感を、「自己責任」という言葉はすべて払拭してくれた。絶妙のタイミングで、政治家たちがこぞってその言葉を口にしてくれたのだ。

 多くの人は、「何もせず、戦争に反対もしていないあなたたちは何も悪くないんですよ」と許された。「逆にああやってのこのこ戦場に行く人間の方が迷惑なのだ」と政治家たちは言ってくれた。イラク戦争にどれだけの税金が使われているかなんてそっちのけで、彼らの救出にかかる税金ばかりが話題となった。その「祭り」の中で、戦争に加担しているといううっすらとした罪の意識は、完璧に免責された。

 「何もしない自分を許してくれる魔法の言葉」としての「自己責任」。だけど本当に、今井さんの言うとおり、それは「死ね」ということだ。ものすごく悪質な思考停止だ。

 そうしてもうひとつ、特筆しておきたいのは、劣化ウラン弾のことだ。

 この映画で、私たちはイラク戦争後のあまりにも痛ましい悲劇を目の当たりにすることになる。高遠さんが支援活動を続けるイラクの病院の光景は、直視できないほどのものだ。次々と生まれてくる、先天性異常の赤ちゃんたち。

 私は99年、劣化ウラン弾が初めて実戦で使用された湾岸戦争後のイラクを見た。そこでの小児病院の光景も、凄まじいものだった。ガン、白血病、先天性異常の子どもたち。だからこそ、03年、イラク入りして「劣化ウラン弾を落とすな」という意味で「NO NUKES」というプラカードを掲げてデモをした。しかし、イラク戦争でも米軍は大量の劣化ウラン弾を使用したといわれている。原発や核のゴミを兵器に転用した劣化ウラン弾。それには、日本の原発に使うウランを濃縮した残りかすが使われている可能性もあると言われている。日本の原発に使うウランの多くはアメリカで濃縮され、残りかすはそのまま置いてくるからだ。

 そんな劣化ウラン弾が降り注いだ地で、先天性の異常や様々な病気に苦しみ、息絶えていく子どもたち。

 そんな戦争を「支持」した日本政府。

 『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件・・・そして』は、12月7日から公開される。

 監督の伊藤めぐみさんは、イラク戦争の10年前、高校生だったという。そして高校生ながら、デモに参加していたという人だ。

 こういう若い世代が出てきたことが、私には、大きな希望である。

 

  

※コメントは承認制です。
第278回  「ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件・・・そして」の巻」 に8件のコメント

  1. magazine9 より:

    生活保護バッシングに、あるいは「自助」を声高に叫ぶ与党・自民党の社会保障政策に象徴されるように、「自己責任」を強調する(しかも公に)声は、10年前のあのときから、さらに猛スピードで強まっているように感じます。先週UPの「つながって考えよう」で、障害者の社会参加や懲役経験者の社会復帰を阻む背景にも、自己責任論があるのでは? という指摘がなされていました。「悪質な思考停止」を、社会全体が続けていることの意味を、改めて考えます。

  2. たかはしたつお より:

    「自己責任」が言われ始めた時からか、それ以前か定かではないが、それまで「成人病」と言われていた高血圧、肥満、糖尿病などが「生活習慣病」と改められた。
    麻生元総理が、「出鱈目な生活」を送っていた人が、そのために病気になっても、その治療費は「真面目な生活をしていた人」が納付した「健康保険税」で負担しているのだ、と言ったとおり、今国会に提出されると思われる「通称・尊厳死法案」と言うもので、「自分はあらかじめどういう死に方をするか」について「遺書」のように書いておくように、「法制化」する予定になっているようだ。
    要するに「自己責任で生き」、「自己責任で最後を迎えなさい」と言う事だ、ちなみに「スイス」では自己責任で「自死」することを決意した人を、医師が幇助する仕組みがあると言う、但し色々認めるための条件がある事と、医師が直接手を下すのではなく、点滴機械をセットするだけで、薬の注入等は本人が行う、と言う事らしい。
    果たして日本が始めるかどうかは不明だが、「臓器移植」が欧米からだいぶ遅れている、として始めた国である何年か後には始めるかもしれない。

  3. 宮坂亨 より:

    ファルージャ虐殺を行ったのは、オキナワ・キャンプシュワブの部隊。イラクから見ればオキナワは悪魔の島。オキナワに罪をひっかぶせて知らんぷりの日本は悪魔の国か。辺野古に基地ができればオキナワは永久に悪魔の島となる。人類一万年の歴史上初めて悪魔辞めようと宣言したのが日本国憲法でなかったか。悪魔でいたくない人々、連帯しよう。

  4. 鳴井勝敏 より:

    「自己責任」という言葉ほど魅力的なものはない。その人の責任ということにしてしまえば、何もしない「自分」は完璧に免責されるのだから。この「自分」が為政者だとすれば、国、地方自冶体を形成する必要がない。しかし、為政者は逆な場合にも「自己責任」を強調すするのだ。 つまり、為政者は利己主義的に使え分けるのだ。 まさに、「法の支配」ではなく、「人の支配」の構造だ。 これは「立憲主義」とは真逆である。
    また、「自分」が一般人である場合、所得格差が一段と「自己愛」を強めているからではないだろうか。「自己愛」は本能に由来するといわれるからだ。こんな不透明な時だからこそ理性を鍛え「隣人愛」を実行したいものだ。   

  5. たかはしたつお より:

    またとんでもない法案が国会に提出されたようです。
    「持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律案」だそうです、キーワードは「受益と負担の均衡」と「自助・共助・公助」のようです。
    こうなったらもはや「社会保障制度」とは言わないでしょう、日本という国で生きてゆくには「自己責任を基本とする」と言う事ですね、「憲法改悪」どころか「憲法の基本的条文の破壊」ですね。

  6. TokiNoKawa より:

    「自己責任」を主張して起こった被害者たちに対するバッシングも問題の一つであろう。しかし、初めて自衛隊を海外派遣までして協力したイラク戦争がどのような戦争であったのか、「イラク戦争の検証」こそ、今なすべきことではないだろうか。そして、イラク戦争における米軍への戦争協力は、現政権が進めようとしている政策と一致しており、ネトウヨらが主張する「歴史修正主義」の流れの一つに位置づけられるであろう。山田教授の本『日本は過去とどう向き合ってきたか』は、ネトウヨや「歴史修正主義者」である政治家の主張が、史実とはいかに異なるかを出典を明記して明らかにしている。太平洋戦争から繋がる歴史認識を改めるために、日本人が読むべき本ではないだろか。

  7. ピースメーカー より:

    「護憲責任論」と「自己責任論」、ふたつの責任論の争いという言葉が、今回の記事を読んで頭に浮かびました。
    「護憲責任論」を今回の記事に沿ってざっくりいえば、「ボランティアとしてイラクの人々の支援活動をしている3人はまさしく平和憲法を実践している『英雄』であり、政府はその英雄をどのような対価を払おうとも平和的に救出することは憲法の人権、さらに平和思想に即した責務であり、そして英雄の3人を『三馬鹿』呼ばわりする日本国民は、憲法の理念を実践するという責務を放棄した人でなしだ!」というのと似たり寄ったりの考え方でしょう。
    「自己責任論」はそういった「護憲責任論」の反動で、「『憲法』だの『人権』だの言っていれば、どんなに道理に外れた無理でも押し通せると思うのは大間違いで、限度を外れればその責任は個人が背負うべきだ!」というのと似たり寄ったりの考え方だといえば、ふたつの責任論はとてもわかりやすいでしょう。
    とはいえ、ふたつの責任論は、批判する相手が無責任で人格が劣るとして攻撃しているということでは共通しているのであり、両者の争いが(今回の記事でいえばイラク人の)どんな利益に貢献するのか疑問があります。
    さて、医師・写真家・NPO法人宇宙船地球号事務局長の山本敏晴氏は以下の記事でこの事件を批評してます。
    http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65337614.html
    耳に痛い批評ですが、憲法の理念を真に実践したければ、まさに山本氏のような視点こそが必要なのでは?

  8. ピースメーカー より:

    赤木智弘氏といえば、今は無き月刊誌「論座」の2007年1月号に、「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を寄稿し、「私たちのような貧困労働層を足蹴にしながら自身の生活を保持しているにもかかわらず、さも弱者のように権利や金銭を御上に要求する多数の安定労働層が、社会の流動性を高めるために戦争に巻き込まれてほしい」「平和への執着こそが、我々弱者を貶める原因ではないか」という強烈な主張をして、それに対する「応答」を「論座」の2007年4月号に7人のリベラル、左派の知識人・政治家から寄稿され、その「応答」に対する返答を「論座」の2007年6月号に寄稿したのだが、そのタイトルがまた興味深い。
    タイトルは、”けっきょく、『自己責任』 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──”である。
    http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama2.html
    7人の高名な方々はいずれも「護憲責任論者」ともいえようが、赤木氏の主観からすれば彼らは「自己責任論者」ということになるのだが、これは「護憲責任論者」も「自己責任論者」も、他者の責任を追及し攻撃するスタンスでは一致する以上、「護憲責任論」と「自己責任論」は表裏一体の存在であるという好例といえないだろうか?
    さて、「『何もしない自分を許してくれる魔法の言葉』としての『自己責任』」「ものすごく悪質な思考停止だ」とおっしゃった雨宮さんは、赤木さんの「けっきょく、『自己責任』ですか」という言葉を、どう受け止められるのだろうか?

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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