伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2015年7月29日@東京校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
飯田美弥子 氏
(弁護士、「八王子合同法律事務所」所属、八法亭みややっこ)

●講師の主なプロフィール:
弁護士。高座名:八法亭みややっこ。水戸一高落研出身。1998年司法試験合格。ハンセン病国賠訴訟弁護団、高尾山にトンネルを掘らせない天狗裁判弁護団、再審布川事件弁護団、痴漢えん罪沖田国賠事件弁護団、日の丸君が代強制反対裁判弁護団(市立中学校教師)などに参加。八王子革新懇事務局長、国民救援会三多摩総支部副会長。著書『八法亭みややっこの憲法噺』(花伝社)。

はじめに

 飯田美弥子さんは、週末になると「八法亭みややっこ」として落語で「憲法噺」をされているユニークな弁護士です。飯田さんがこのスタイルで憲法のことを話すようになったのは2013年5月から。以来、評判を呼んだこの噺を100回以上全国各地で演じてこられました。飯田さん自身も想像しなかったというこの広がりは、「安倍政権による改憲論議に対して国民が漠然と感じている不安感によってもたらされている」と言います。この講座では落語を通じて、自民党がめざしている改憲案の問題点などを、わかりやすく伝えていただきました。

どうして「みややっこ」になったのか?

 私は月曜から金曜まで弁護士をして、この2年間は土日祭日に落語をやるという生活を続けています。2012年の暮れに第二次安倍政権が発足しました。それで危機感を持った私は2013年の5月から八法亭みややっこを始めて、当初は八王子や近隣の市で「公演」をしていましたが、2014年春からは毎週末ほとんど着物を着て地方を回っています。早く安倍政権に退陣してもらわないと忙しくて仕方ありません(笑)。ちなみに「八法亭」という名前は八王子法律事務所からとったものです。

 こういう格好で憲法噺をするようになったきっかけは、私は弁護士ですから、憲法の話をして欲しいという講演依頼があるんですね。2013年5月に予定していた講演で主催者が事前に質問事項を送ってこられたのですが、「憲法は私たちの暮らしにどう活きているのですか?」と書いてあったんです。私はこの質問にイスからずり落ちそうになりました。というのも、この主催者の方たちはその前に伊藤塾塾長の伊藤真さんの憲法についての熱い話を聞いていたはずだからです。せっかく塾長の密度の濃い話を聞いて感激して帰っても、いざ自分の生活を振り返ると、憲法がどうつながっているのかわからないということでした。

 もしスーツ姿で行ってこういう質問を受けたら、思わずしかり飛ばしてしまうかもしれません。相手も「弁護士の先生」が相手だと構えて怖がってしまいます。そこで、高校時代にやっていた落語のスタイルでやってみようと考えました。こういう格好で座布団に乗って話したところ、同じ話をしても反応が違って、喜んでもらえたんです。初めてやった「みややっこの憲法噺」が評判を呼び、1回講座をやると2回お声がかかるという風に広がっていきました。今では来年6月まで予約が入っているという、何とも複雑な心境です。

私たちの暮らしと憲法

 では、先ほどの質問にもありましたが、私たちの生活に日本国憲法はどう活きているのでしょうか? それはその前の大日本帝国憲法(明治憲法)と比較するとよくわかります。まず大日本帝国憲法のときは、婦人参政権はありませんでした。民法にはなんと、「妻は無能力」という文言がありました。そう書いた理由は「家庭の和合のため」とされています。難しい言葉を使うともっともらしく聞こえますが、要するに「女房につべこべ言わせておくと、家がごたつく」ということなんですね。

 それから刑法には姦通罪がありました。明治憲法では妻だけがこの罪に問われました。なぜでしょうか。戦地に若い男性が兵隊として連れて行かれます。でも家に置いて来た若妻が気になって、戦争に集中できないんですね。そこで国家が奥さんをちゃんと監視しておきますよ、というのが立法趣旨でした。かたや戦地では慰安所を作っていたので、妻のことは監視しながら、戦地では男性に女をあてがっていたということになります。おかしなことです。日本国憲法になって姦通罪そのものが廃止されました。

 教育の自由もありませんでした。国家が統制をしていました。その象徴として、校庭に「奉安殿」と呼ばれる耐火性の立派な「建物」があって、そこに天皇の写真である「ご真影」と、教育勅語が入っていました。登下校する先生や子どもたちは毎日そこに最敬礼するんですね。学校の校舎は火がつくと燃えちゃうんですが、奉安殿は燃えないようになっていました。生徒の命より天皇の写真の方が大事だったのですね。実際に、八王子空襲のときには、教員たちがまっ先に奉安殿からご真影を救出したというエピソードもあります。

大日本帝国憲法では主権が天皇

 なぜそんな事になるのかといえば、大日本帝国憲法では主権者が国民ではありません。第一条で、天皇主権を謳っています。そして天皇はこの日本という国をつくった天照大御神という神様のお孫さんからはじまった家系なので、天皇も神様(現人神)だとしています。そうやって代々続いて来たことを万世一系と呼ぶのですが、そのことを第一条で宣言しています。国民主権ではないので、とても「立憲主義」とは言えません。ただ、ややこしいことにこの憲法には三権分立についても書いてありました。

 なぜかと言うと、当時の日本が追いつけ追い越せと、近代化のお手本にしていた欧米列強の憲法では三権分立を採用していたから、カタチだけマネをしたのですね。ちなみに欧米列強の中でイギリスだけは、きちんとした憲法典というカタチではまとめていません。フランスなど他の国々は18世紀くらいに市民革命が起きて、新しい立憲主義の憲法が出来ましたが、イギリスは13世紀から長い時間をかけて何度も王家と議会との約束事を書き換えて来たという歴史があるからです。

日本国憲法の理念は13条にある

 大日本帝国は憲法で天皇が主権者だというお話をしました。それに対して日本国憲法は国民主権ですね。ではその日本国憲法の一番大切な理念はなんでしょうか? それは憲法13条にある個人の尊厳原理というもので、「すべて国民は、個人として尊重される」という一文です。「幸福追求に対する国民の権利については、国政の上で最大限尊重される」というのは、「誰でも好きなように生きていいんだよ」と言っているのです。

 私はこのように、毎週休日を使って地方に行って落語をしています。「あぁ、この人は友達がいないさみしい人なんじゃないか」と思われているかもしれませんが、私はこの憲法の危機にじっとしてはおれないのです。何を幸せと思うかは人によって違うし、それを最大限追求することにおいて、憲法は保障してくれているのです。

 そして日本国憲法が先駆的な点は、平和でなければ幸福追求ができないということを70年前に見抜いているという事です。例えば3・11の原発事故が起きたときに、福島大学の副学長は「あれだけの被害が出た以上、他との比較ではなく、発電手段から原発を捨てなければならない」と言っていました。もう選択肢としては捨てて、電力が不足するならどう補うかということを考えればいいというのです。

 戦争についても同じ事です。日本国憲法ができたときこの国は「戦争という手段を捨てるんだ」と決めたのです。もちろん、日本だけが戦争を捨てるといっても「周りに怖い国が現れたらどうするの?」ということを言う人もいるでしょう。それでも、70年間戦争による死者を出していないという実績があります。

暮らしを縛る自民党改憲案

 立憲主義というのは国民が政治家や権力者を縛るルールなのですが、私が自民党の改憲草案で一番ついていけないと思う所は、国家のために国民がいるという発想になっている点です。

 改憲案の前文では、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する。」と位置づけています。国民の権利のためではなくて「国と郷土と良き伝統のために」憲法を制定するって言っているんです。国民に対して「君たちはこの国に何をしてくれるの?」という態度なんですね。

 そして第9条では「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土・領海及び領空を保全し…。」と言っています。国民はどうやって「国」とやらと協力して守るんでしょうか?これは国民一人ひとりの意思よりも政権の手足になることが大事だと述べているのです。

 また第3条では「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」とあります。国旗と国歌については今でも学校の先生に「君が代を何ホーン以上の声で歌わないといけない」と懲戒を背景に「指導」している自治体もありますが、そういうことを国民に強制するようになってきます。

 私は落語だけでなく、茶道もやっていて伝統的な日本文化が大好きです。もちろん、「日の丸や君が代が大好きだ」という人がいても全然問題ありません。でも何を愛するか、あるいはどう愛するかといったことは個人の自由です。それが今の日本国憲法が最も大切にしてきた部分です。でも改憲案では「日の丸を愛さなければならない」とか「君が代を何ホーン以上で歌わないのは愛国心がない」と決めてしまうことになるので、それはおかしいと思うのです。愛国心のあり方というのは、人それぞれであっていいはずです。

 自民党の改憲案について憲法学者の小林節さん(慶応大学)は、「立憲主義を無視して、歴史を逆行させるもの」と批判しています。小林さんは9条改憲派なのですが、その彼がそのように言うほど、立憲主義が危機にさらされているのだということがわかります。

 実際、改憲草案の最後の条文には重要な一文があります。これも今の憲法の最後にある99条の条文とよく似ているのですが、少しだけ違っています。どちらも、この憲法を守る義務(憲法尊重擁護義務)がある人たちについて述べているのですが、自民党の改憲草案では現行憲法にある「天皇及び摂政」が削除されています。つまりこの人たちは憲法の尊重義務を負わなくてよいということになり、天皇は憲法を超越しているということにつながります。

 これって大日本帝国憲法の第一条で天皇主権を謳っていたのと同じ事になるのです。でも大日本帝国憲法は最初に堂々とそれを言っていたのに対して、自民党の案では長い草案の一番最後にこっそり気づかないように書いてあるというのが、この人たちの姑息な所だと思います。だからもちろん立憲主義が否定されているんですね。

「個人」と「人」との違い

 自民党改憲案では、その13条を「全て国民は、人として尊重される」と、あえて「個人」の「個」を取っています。「単に個がとれただけじゃないの?」とお思いかと思いますが、大きな違いがあります。日本国憲法の13条では「それぞれ好きなように生きていいんだよ」と言っているのですが、自民党の改憲案を作った人たちの頭の中には、どうも「人というのはこういうものだ」というのが固まっていて、それから外れた人は人じゃないから権利を剥奪しても良いと思っている節があるようです。人というものは、この改憲草案にあるように国旗国歌を尊重して、家族相互に助け合ってという条文に従う人であるべきだということなのでしょう。憲法から「個人」の個をとって「人」にしている理由は、そういうことでしょう。

 また、あらゆる条文に含まれている「公益及び公の秩序」を優先するとあるのですが、これを政権が判断するというのも危ういと思います。私は高尾山にトンネルを通すことに反対する裁判などを起こしてきましたが、そのような裁判もこの改憲案29条のようになれば「公益及び公の秩序」の名の下に起こす事すらできなくなるに違いありません。

 今進められている集団的自衛権についても、法的にはおかしなことばかりです。もし本当に積極的平和主義を進めたいのならば、武器や原発を輸出するのではなく、憲法9条の平和主義を輸出してもらいたいと思います。こんな状況を変えていくには、皆さんの世論が大事なのです。最後に、堤未果さんが書かれた『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)という本から引用します。

 「無知や無関心は、『変えられないのでは』という恐怖を生み、いつしか無力感となって私たちから力を奪う。だが目を伏せて口をつぐんだ時、私たちは初めて負けるのだ。そして大人が自ら舞台を降りた時が、子どもたちにとって絶望の始まりとなる」

 子どもたちに絶望を手渡してはなりません。どうぞみなさん改憲阻止の声をあげてください。そして、自分ではうまく説明できないなと思ったら、どうぞみややっこを呼んでください。ありがとうございました。

 

  

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