伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2015年9月19日@東京校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なおこの講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
佐藤安信 氏
(弁護士、「長島・大野・常松法律事務所」顧問、東京大学大学院総合文化研究科教授、同持続的平和研究センター長、「人間の安全保障」プログラム担当)

●講師の主なプロフィール:
東京生まれ。国際機関で法務専門家として難民保護、平和維持/構築、法整備・司法改革支援に従事。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)法務官としてオーストラリアで、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)人権担当官としてカンボジアで、EBRD(欧州復興開発銀行)弁護士としてロンドンで勤務。2002年から平和構築研究会を主催。現在、日本弁護士連合会、国際交流委員会、国際司法支援センターの幹事を務める。国際人権法学会、国際連合学会、比較法学会、アジア法学会、法社会学会、日本平和学会、国際平和研究学会(IPRA)、国際開発学会、ADR法学会、日本仲裁人協会所属。

はじめに

 2015年9月19日未明、国会で安全保障法制が成立しました。大多数の国民の理解も得られないまま、憲法違反の疑いが強い法律を成立させたこの動きについて、佐藤安信先生は「政府を縛る憲法のくびきをなし崩しにしようという意図が見える」と懸念を示されました。
 先生は、かつてUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の人権担当官として、紛争中のカンボジアで勤務されました。その経験を通して実感したのは、日本の法律家にこそ、非軍事的な平和貢献ができるという思いだったといいます。そして戦後一貫して非軍事的な平和貢献をしてきた日本は、「今こそソフトパワーをベースにした戦略によって、地域の安全保障を高めるべき」と語ります。この講座では、安保法制について、「人間の安全保障」というアングルから、日本のあるべき道について語っていただきました。
※この講座は、安保法制が採決された9月19日当日に実施されたものです。

安保法制の成立がもたらす、日本国憲法の危機

 安保法制が成立しましたが、この法律の問題が重要になってくるのは、むしろこれからでしょう。まず「存立危機事態」の定義自体がはっきりしない。そしてそのあいまいな「存立危機事態」に政府が認定すれば、日本が直接攻撃の対象になっていなくても、日本の同盟国を攻撃する相手に対して日本の自衛として攻撃ができることになっています。それでは、これまで専守防衛にこだわってきた日本の立場が、なし崩しにされてしまいます。ではここで、皆さんに聞いてみたいことがあります。以下の条文は、いったいどこの国の憲法だと思いますか?

○公民は、言論、出版、集会、示威及び結社の自由を有する。
国家は、民主主義的な政党、社会団体の自由な活動条件を保障する。

 これは、日本国憲法ではありません。北朝鮮の憲法です。とても良いことが書いてあるように見えますが、あの国の実態からかけ離れていますよね? 憲法に書いてあってもそれが尊重されないということは、こういうことなのです。
 自民党は憲法改正を悲願としてきた党です。しかし真正面から改正が難しいとなったので、今回のように解釈改憲を重ねて、日本国憲法を空文にしようと狙っているのかな、と私は考えています。これは非常に危険なことなのではないでしょうか?

安保法制は「積極的平和主義」とは相容れない

 それでは、日本のめざすべき平和主義とはどのようなものでしょうか? 安倍政権は、「積極的平和主義」と称して安保法制を成立させましたが、軍事力で物事を解決しようとする考え方は、決して積極的平和主義などとは言えません。
 まず、武力紛争が起こったときに国際社会ではどのようにすべきとされているのかを考えてみましょう。国連憲章では、ある国家によって武力による威嚇または武力の行使がなされた場合の解決の仕方として、安全保障理事会が安全保障の措置を国際社会で担うことになっています。
 しかし冷戦時代に米ソが対立し、お互いが拒否権を乱発する中で、国連は機能しなくなってしまいました。そこで日本などは、アメリカの核の傘の下に守られるという立場をとってきました。
 2001年に起きたアフガン戦争は、9・11事件を受けてアメリカが自衛権を発動するという名目の元に行われました。そしてイギリスなどは、そのアメリカに協力して集団的自衛権を行使して参戦しました。今回の安保法制の解釈によっては、アメリカへの攻撃が日本の存立危機事態を招来したとして、こういったケースでは当然参戦する可能性があります。しかし国連憲章では集団的自衛権の行使は、決して恒常的な手段ではなく、あくまで例外的な処置としてしか認められていません。国際社会の原則としては、紛争解決の手段ではないのです。
 
 平和学の父と呼ばれるノルウェーのヨハン・ガルトゥングさんが、先日来日されていました。彼が最初に「積極的平和」を唱えた方ですが、今回はっきりと、「日本の安倍政権が進める安保法制は、自分のいう積極的平和をめざすものとは違う」と発言されました。
 ガルトゥングさんは、「平和とは、単に戦争がない状態のことではない」と言ってきました。それは消極的平和と言えるかもしれないが、本当の意味での平和、つまり「積極的平和」というのは、その社会から「構造的な暴力」をなくしていくことであると捉えているのです。
 「構造的な暴力」とは何でしょうか? 北朝鮮の例で言えば、あの国では現在表立った戦争や虐殺などはありません。しかし自由にものを言えない状態=言論抑圧があります。政権に批判的なことを言えばすぐに逮捕されて、処刑されてしまう。それは構造的な暴力のもとにあるということです。
 そこまでではなくても、文化的暴力というのは日本にもあるかもしれません。例えば「女性は家に入って子どもを育てるべき」という価値感が主流の社会で事実上それが強制されるような場合は、職業人として社会的な活動をする女性にとって、そのような構造そのものが暴力的であるともいえるでしょう。そのような構造的暴力を取り払い、一人ひとりの人権を向上させていくことが、真の平和につながるのだ、という考え方を「積極的平和主義」と言うのだと私は考えます。

「人間の安全保障」とは

 もうひとつ、「人間の安全保障」という言葉があります。この考え方は、国連が1994年にUNDPの人間開発報告書で打ち出したものです。「人間開発」というのは、経済開発、社会開発を踏まえた新たな開発概念です。経済的な開発は大事なのですが、それを実施する際に、単にGDP(国民総生産)のように数字的なものが上がれば良しとするのではない、ということを言っています。この人間開発から、「人間の安全保障」という概念が生まれたことは興味深いことです。
 経済開発が進んでいくことで、公害が起きたり、貧富の格差が広がったり、人権が侵害されたりするなどといったことが世界中で増えました。同時に、戦争は国家間の紛争から、内戦、さらにはテロという名の新たな紛争が世界に蔓延しつつあります。そのような問題に取り組み、テロの温床ともなるといわれる貧富の格差を解消する社会開発、そして教育などを通じて個人の自己実現ができるような状態にして行く人間開発をめざすべきだ、と国連は指摘しています。開発と正義、平和、そして安全保障といった課題は、それぞれ別個に存在するのではなく、分ける事ができないのだというのが人間の安全保障の概念だと定義されています。

 つまり、ガルトゥングさんの語る「積極的平和」と、国連の考える「社会開発」「人間開発」という考え方には、異なる分野のように見えながら、実は重なっているのです。平和の問題と開発の問題を一緒に考えていく「人間の安全保障」です。安保法制の中には、「人間の安全保障」についても触れられていますが、これもその使い方に留意する必要があります。実は、「人間の安全保障が権利だ」ということを明確に示している言葉が、日本国憲法の中にあります。憲法前文の以下の部分です。

「我々は、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

「恐怖と欠乏から免れることで真に平和に生きられる」という理念をはっきりと謳い、そのために国は努力しなければならないと言っているのです。これこそが、憲法9条につながる積極的な平和主義だと私は考えます。日本国民だけでなく、世界の人びとの人間の安全保障をめざす平和をめざすために、敢えて日本は軍備を放棄する。つまり日本の歴史的責任からは、非軍事的な平和のモデルを追求しているのだと私は考えます。残念ながら現実には、軍事力が平和には必要ないとはいいませんが、憲法上の日本の進むべき道は、こちらなんだ、非軍事面による世界の平和への貢献だということです。

日本がめざすべき国際貢献と平和構築

 では、実際にどのように人間の安全保障を役立てて非軍事面で平和に貢献できるのか。現在の世界では国同士の紛争というのは減っています。一方で国内紛争が増えている。シリアもそうですね。そこにいろいろな国から武器が流れて来ます。シリア政府には、中国やロシアだけでなく、フランスも毒ガスの材料を売っていたというニュースが流れました。そして紛争の結果として難民や国内避難民が増えています。
 こういった武器輸出や紛争への介入が止まらない背景としては、武器を売り、紛争が続くことで儲かる企業(民間セクター)が、どのように関わっているのかについても考える必要があります。実は、これこそが紛争の構造的な原因の1つなのだと私は考えます。昨今は、企業の社会的責任(CSR)が言われていますが、これを平和にも適応して行くべきではないでしょうか? 私は「企業の平和責任」と呼んでいます。
 人間の安全保障という視点から考えると、武器や紛争で儲ける構造を変えて、むしろ持続的な平和のために企業がやれることは、たくさんあります。難民支援、復興支援や地雷除去などでは、大量の人材や技術、資材などが必要となります。そこにチャレンジしていくことが、企業の平和責任を果たすことになるのです。

 もちろん、より大きい責任は国家の平和責任です。例えば命の危険を冒して逃げて来た難民は、保護する責任がある存在です。しかし、去年の日本での難民認定は11人(そのうちシリア難民は3人、ただし人道的な配慮からの特別な在留許可で相当数が実際には保護されていることはあります)でした。これは、もちろん難民条約上の解釈と認定の問題ですが、海外から見た場合、日本は難民を保護する国際的な義務はもちろん、国際的責任を果たしているとみられるでしょうか? また現在の難民条約では、日本のみならず、貧困から逃れるためにやって来た人は難民とは認められませんが、帰国したら餓死するような状況で送還することが、平和責任を果たしたことになるのでしょうか? そこにきちんと向き合うことこそ積極的平和主義であり、人間の安全保障で求められていることなのです。

 日本政府は紛争地に軍隊を派遣すれば、国際貢献になると考えているようですが、それは間違いです。現地の人々の視線に合せて紛争の現場を理解しないと、本当の平和を築く事はできません。
 私はかつて、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の人権担当官という立場で紛争中のカンボジアで過ごしました。紛争地では一見すると静かに見えても、武器が氾濫していて、ちょっとしたことで撃ち合いが起こります。どこから弾丸が飛んで来るかわからないのですから、どんな法律があっても、犠牲は必ず出ます。
 その状態で単に武装解除をしようとしても、誰も武器を捨ててくれません。彼らは、「『人を殺さなくても生きていける』という安心感をもてない限りは、命の最後の頼みの綱である武器を簡単には手放さない。だから、さまざまな支援をして、武器で闘って相手から金品を奪い取るようなことをしなくてもすむような社会をつくることが大切になるのです。

 やるべきことは、武器ではなく法をルールにしていくこと、武器がなくても生活できるようにしていくこと、難民を保護して人道的な支援をすること、誰もが教育を受けられるようにすることなどさまざまです。
 それは日本が、これまで行ってきた憲法9条による平和構築支援とも重なります。この方向をさらに積極的に押し進めて行くべきでしょう。今求められているのは軍隊ではありません。市民社会や企業が、国際平和に貢献できることはいくらでもあるのです。お互いに信頼関係を築く事で紛争を予防する、武器ではない、「法」の支配と国家ではない「人間」の安全が保障された社会、すなわち持続的平和を実現するために積極的に支援することこそが、まさに日本が今やるべき平和構築支援ではないでしょうか。
 法律家をめざしている皆さんにとっても、そのような現場で法律家の力は大きな役割を果たすことになりますから、ぜひそのような分野で活躍していただきたいと思っています。

 

  

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