B級記者どん・わんたろうが「ちょっと吠えてみました」

 冤罪に巻き込まれるかどうかは、職業や肩書を問わない。学者だって例外ではない。逮捕や拘禁の要件、自白の証拠能力といった「刑事手続と人権」が定められた憲法の専門家でも、いつ我が身に降りかかってくるか分からないのだ。
 憲法学者の飯島滋明・名古屋学院大准教授が痴漢冤罪の被害に遭ったのは、昨年5月3日の憲法記念日の夜だった。その経緯や問題点について、ご本人の講演を聞く機会があった。冤罪が他人事でないことはもちろん、知識があって備えができていると思っていても、いざその立場に置かれれば「嘘の自白」をしてしまいかねないことを再認識させられた。事件をもとに、改めて冤罪が生まれる原因や対策を考えてみたい(事件の詳細は飯島さんの著書『痴漢えん罪にまきこまれた憲法学者』参照)。
 広島駅近くでの出来事だった。婚約者らと旅行で訪れていた飯島さんは、婚約者と牡蠣を食べにいこうと1人で店を探していると、6人の高校生の集団とすれ違った。道をふさいでいる感じだったので、空いているところを抜けてすれ違おうとした時、その中の自転車の女子高校生がふらついて、ぶつかってきたそうだ。少し経って「キャー」という声が聞こえた。
 その後、200メートルほど離れた場所で「店が見つかった」と婚約者に電話中に、いきなり2人の警察官に背後から身体をがっしりと押さえ付けられた。「お前やっただろう」と詰問される。何が起きたのか分からなかった。「任意捜査」と言いながら、「覚えがあるだろう」「署まで来い」。「身に覚えがない」と揉み合っている20分ほどの間に、警察官は20人ほどに増えていた。
 やって来た婚約者の目の前で現行犯逮捕され、手錠をかけられる。容疑は、女子高校生2人の身体を触ったとの広島県迷惑防止条例違反だった。一緒にいた高校生が交番に通報し、「目撃者」とされていた。客観的な目撃証言がなくても、被害者や仲間の申告があれば逮捕できてしまうのだ。
 警察での取り調べでは、「写真がある」「手の繊維鑑定の結果が1週間で出るぞ」などと、完全に犯人扱いだったという。実際には、繊維鑑定の結果が分かったのは1カ月後で、犯罪の証拠となる付着物は検出されなかった。写真もなかった。
 調書への署名を拒否しようとしたら「検察や裁判官に報告する」と言われた。「勾留されると長くなる」という思いがよぎり、怖くなった。1週間後に挙式が控えていたし、広島から車を運転して帰ることになる婚約者の安全も心配だった。「『自白』した方がいいかもしれない。どうしようか、と考えた」
 これまで繰り返されてきた冤罪と同じ構図である。取調官が脅しをかけ、嘘まで言って、「容疑者」を追い詰めていく。いきなり逮捕され留置場に入れられたショックや、先行きへの不安が襲ってくる。外部への連絡も思うに任せず、相談できる人はそばにいない。法律に詳しい学者であっても「嘘の自白」の誘惑にかられるほど、正常な判断能力を奪われてしまう状況であることがよく分かる。
 同じ頃、警察署の外では、マスコミ報道が冤罪被害を増幅させていた。
 新聞やテレビはほとんどが実名報道で、勤務先の大学名や自宅住所まで報じられた。「1人で広島を訪れていた」「酒に酔っており」と誤った情報を書いた新聞もあった。婚約者らと訪問していたことは痴漢の動機がないことの裏付けになるし、アルコール検査では飲酒運転の基準を大きく下回っていたのに、だ。捜査側が流す「犯人視情報」に依拠し、飯島さんが犯人だという印象を強めることに事実上加担した。
 「私が記事を見ても、犯人だと思ってしまう書き方。調べもしないで、平気で違うことを書く」との怒りは、当事者としてはもっともである。
 で、そうした状況を救ったのは、弁護士だった。法律学者とはいえ広島には知り合いがいないから、まず当番弁護士に来てもらった。知人の弁護士が紹介してくれた2人とともに、3人の活動が大きかったそうだ。
 接見で「『自白』は絶対にしないように」とクギを刺された。胸中が揺れていただけに、否認を貫くうえでとても心強かったことだろう。弁護士は検察が勾留請求をする前に、婚約者の上申書を持って裁判官に面会。「広島には婚約者と来ていて動機がない」といった事情を説明し、勾留を認めないよう要請した。裁判所が勾留請求を却下した後も、検察の準抗告に備えて、現場付近の監視カメラの調査などを続けた。検察は準抗告せず、飯島さんは逮捕の2日後に処分保留で釈放された。
 このケースでの現行犯逮捕が適法だったかどうかは別にして、現行犯の容疑者が否認している事件で勾留されずに釈放されるのは、かなりのレアケースだそうだ。その後も任意の捜査が行われたが、弁護士は高校生の供述や証拠の確認、検察官への面談・説明を続けた。その結果、8月下旬に不起訴になった。
 当然の結論とはいえ、完全に雪冤を果たすまでに4カ月近くもかかっている。もし嘘の自白をしてしまって勾留されていれば、20日間は出られなかっただろう。否認したまま起訴されていたなら、身体拘束はさらに長期に及んでいたはずだ。
 会社員がそれだけの期間欠勤すれば解雇されてしまうかもしれないし、家族・親類や同僚、近所、知人など、マスコミ報道を信じた人とのあらゆる関係が歪みかねない。飯島さんの場合も、不起訴まで大学の業務を自粛したり、海外留学を辞退したりといった影響を被ったそうだ。冤罪被害を過小評価してはいけないのだ。
 自身の体験を出発点に他の冤罪事件の研究を重ねた飯島さんは、冤罪を生む問題点に、①捜査機関:虚偽自白の強要や長期間の身体拘束、別件逮捕、②裁判所:簡単に出す逮捕状、有罪視での審理、③メディア:警察発表の垂れ流し、犯人視による報道、などを指摘。対策として、取り調べの全面可視化や弁護士の立ち会い、証拠の全面開示、裁判所による無罪推定原則の徹底、メディアの匿名報道の原則化などを提言していた。いずれも重要な事項だと思う。
 同時に「弁護士支援体制の強化」を挙げていて、私にはこれがとても印象に残った。
 著名な冤罪事件でも、初期の弁護活動がきちんとなされていれば結果が違っていたのではないか、とみられるケースは結構多い。「弁護過誤」と呼ばれる。本人が否認しているのに、その家族に持ちかけて勝手に示談を進めてしまう弁護士もいる。これじゃあ、やったと自白しているのと同じである。
 飯島さんの場合にしても、弁護士がいい加減な対応をしていたら、勾留されずに釈放となっていたかどうかは分からない。弁護士が果たした役割は、極めて大きかった。
 だが、一般市民にとっては、自分が逮捕された時に依頼できる弁護士がすぐに思い当たる人の方が少ない。きちんと活動してくれる当番弁護士に当たるとも限らない。そもそも、普段から刑事事件に関心を持ち、しっかり取り組んでいる弁護士の方が少数派である。
 私見だが、そんな状況を改善するには、弁護士の数を増やすしかないのだと思う。今いる弁護士たちが刑事弁護に真剣に目を向けないのであれば、刑事事件に関心を持つ新しい弁護士を開拓していくしかないからだ。
 日本弁護士連合会(日弁連)は、司法試験制度が変わって合格者が増えたために弁護士が過剰になっていると主張し、合格者を減らすよう求めている。しかし、相変わらず冤罪が繰り返される刑事司法の現況を顧みれば、まだまだ弁護士の活動が求められる余地は大きい。容疑者の取り調べへの弁護士の立ち会いにしたって、とくに地方を中心に「弁護士が足りない」というのが、実現に向けた動きが鈍い理由になっているそうだ。本末転倒である。
 弁護士にとって冤罪の防止とは、基本的人権を守るための基本の「き」だと信じたい。いつ冤罪に巻き込まれるとも知れない一般市民にしてみれば、そうした関心や能力を持った弁護士が身近に多ければ多いほどありがたい。司法改革の原点ではないだろうか。
 弁護士界を挙げて、刑事事件に強い弁護士を育成する機関をつくるとか、冤罪を訴える人をより強力に支援する制度を整えるとか、やり方はいろいろあると思う。もちろん、取り調べへの弁護士立ち会いのように、冤罪防止に弁護士が深くかかわる刑事手続の改正を求めていくことも重要だ。「自分たちの経済的な利益が侵される」と弁護士の増員を拒む前に、増員を社会に還元する方策を探る努力を尽くしてほしいと願う。

 

  

※コメントは承認制です。
第111回 冤罪防止と弁護士の役割
~憲法学者の痴漢冤罪事件から
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    もちろん、痴漢犯罪は許されない。
    一方で、めちゃめちゃな取り調べによる冤罪がこれだけ指摘されている以上、
    それを防ぐ手だても、早急に整えられてしかるべきです。
    著者が指摘する「弁護士の増員」もその一つでしょう。
    皆さんはどう思われますか?

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どん・わんたろう

どん・わんたろう:約20年間、現場一筋で幅広いジャンルを地道に取材し、「B級記者」を自認する。 派手なスクープや社内の出世には縁がないが、どんな原稿にも、きっちり気持ちを込めるのを身上にしている。関心のあるテーマは、憲法を中心に、基地問題や地方自治、冤罪など。 「犬になること」にあこがれ、ペンネームは仲良しだった犬の名にちなむ。「しごと」募集中。

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