原発震災後の半難民生活

2011年3月15日午前10時、私は妊娠7か月の妻と3歳の娘を連れて、住み始めてから四年目の宇都宮の街を離れました。福島第一原発の原子炉で、爆発事故が相次いだためです。

持ち物はスーツケース、旅行バッグ、パソコンをひとつずつ。ほかに持ちだすことができたのは、自分たちの体だけでした。ひょっとすると、もう二度とこの宇都宮には戻れないかもしれない。そんなせっぱつまった予感に駆り立てられていたので、家財道具はもちろん、私が研究者として積みあげてきた業績も、これまで集めてきた蔵書、ビデオ、娘の絵本も、妻が制作してきた能面のコレクションも、かたっぱしから棄て去るつもりで飛びだしたのです。

もう宇都宮には戻れないかもしれない……この予感の半分は的中し、半分は見事に外れました。少なくともこれまでのところ、妻と子供たちは避難先の沖縄にとどまり、私は職場のある宇都宮に戻ることになったからです。

もう少し正確にいうと、この半年間の私は、宇都宮と沖縄の間を何度も往復するという「二重生活」を送ってきました。ゴールデンウィークや夏季休暇の折に、家族でいっしょに過ごすために沖縄を訪れたほか、妻から突然「破水」の知らせを受けた6月後半には、新幹線、飛行機、高速バス、タクシーなどを乗り継いで、夜中から明け方にかけて、娘とふたりで赤ん坊の出産に立ち会っています。

この行ったり来たりの二重生活――妻によれば「船乗り」の生活――は、私および私の家族にいくつかの問題を持ちこまずにはおきませんでした。

4月になると、職場の大学は「平常通り」に新学期を開始したので、それにあわせて私も単身でノコノコと宇都宮に舞い戻ってきたのですが、それまで家族みんなで過ごしてきたはずの自宅はがらんと静まり返って、3月15日当日以来、完全に時間が止まってしまったかのようでした。床を擦るスリッパの音がいやに反響するので、我が家が半ば廃墟のようにさえ感じられたものです。

実際、いちどは本気ですべてを棄て去るつもりだった頃の心理状態のままで眺めてみると、ほとんどの家具は言うまでもなく、自室の四方を埋め尽くすあれだけ大事にしていた蔵書の数々も、なんの意味もないガラクタにしか見えませんでした。退屈で平凡な日常生活のかけがえのなさは、失ってみてはじめて身にしみるようです。

私の妻子が暮らす沖縄でも、事情は単純ではありませんでした。実のところ、彼女たちが身を寄せているのは、私の実母と、その再婚相手であるアメリカ人の義父の家なのです。布団は、ひとがしょっちゅう行き来するテレビルーム(6畳)に敷いて寝ており、しかもカーテン一枚を隔てた向こうには、徘徊や失禁をくりかえす95歳の私の祖母(母の母)が寝起きしています。

とりわけ避難当初の妻の立場からすれば、法律上の「親族」とはいえ、私の義父はもちろん、私の祖母も実母も、必ずしも気の許せる家族ではありませんでした。3歳の娘はさっさと順応してしまったのですが、少なくとも妻にとっては、まるで避難所のようにプライバシーがなく、しかも生活習慣の異なる「両親たち」と台所や風呂トイレを共有しなければならないということは、容易には受け入れがたいことだったはずです。

妻にしてみれば、自分の持ち物を選りわける時間もなく、知り合いに挨拶すらせずに住まいを後にしてきたことも、いまだに悔いが残って仕方がないのです。また、もっと緊急で深刻な課題に直面するたくさんの被災者がいるにも関わらず、「なぜ自分たちだけが避難してしまったのか」という苦しい自責の念にも悩まされてきたようでした。

いずれにしろ、こうしたことが引き金となって、私たちは電話でもメールでも言い争いをくりかえしてきました。6月末から7月にかけては、出産直後の妻の精神状態の不安定さも手伝って、私たち夫婦の関係はかなり険悪なものになっていました。

こうして、3月11日以降の私のなかでは、ずっと「非常時」の毎日が続いています。家族と離ればなれに暮らすということは、私が想像していた以上に大変なことでした。そして、いまだに原発事故の終息の目途がたたないことや、東日本全体の汚染の深刻さが判明しつつあることなどを考えれば、当分の間はこの離ればなれの生活を続けていくしかなさそうです。

私自身としても、生まれたばかりの息子はともかく、宇都宮で三年間も過ごしてきた娘を、たくさんの幼なじみの友達と引き離したままにしておくのが果たしてよいことなのかどうか、頭を抱えてしまうこともしばしばです。一方、職場も含めてどこもかしこも、まるで何事もなかったかのように普段通りのスケジュールをこなしていることには、違和感を拭うことができません。

私たちの家族だけが周囲の空気から取り残されていくのを感じるにつけ、宇都宮から避難する直前に、妻の友人が私に言った「もうすこし冷静になって!」という一言が思いだされます。周囲の目には、激しい余震が続くなか、妊娠7か月の妻を飛行機に乗せて、沖縄まで飛んで行こうとした私の振る舞いが、常軌を逸しているように見えたのでしょう。

何度となく、那覇空港の搭乗口から振り返って、いつまでも手を振る妻と娘の姿をまぶたに焼きつけてきました。そしてそのたびに、こんな宙ぶらりんの生活をいつまで続けなければならないのだろうかという曖昧な不安にとらわれるのでした。

ただ、そんな出口の見えない日々のなかで、私の心境にゆるやかな変化が生じたことも事実です。

なんといっても、北関東に比べれば沖縄ははるかに汚染を免れています。遊び盛りの娘を、公園、砂場、浜辺、田畑、雑木林などで好きなだけ遊ばせてやれるということ、そして、妻と子供たちが、汚染されていない野菜や果物を食べてくれているということ――それを考えるだけで、どれだけ私の気持ちが落ち着いたか分かりません。

また、震災前には考えもしなかったことですが、避難先の沖縄でも、ノコノコ戻ってきた宇都宮でも、いくつもの新たな出会いと、予想だにしない再会とを経験することになりました。追々述べていきますが、この原発震災がなければ、そんなことは決してありえなかったでしょう。月並みな言い方になるけれど、運命の不思議なめぐりあわせというものは確かにあるのかもしれません。

そうこうするうちに、私のなかでおおむね以下のような考えが、輪郭を取るようになってきたのです。――私はひとりの父として、十年後か十五年後になるかは分からないけれど、りっぱに成長した娘と息子に向けて、「あのとき、君たちが宇都宮を去ったのはなぜだったのか」「その後も、沖縄にとどまることになったのはなぜだったのか」ということを、きちんと語れるようにしておかなければならないのではないか……

この雑文を書こうと思い立ったのも、そんな経緯からです。日記を書くことが苦手なので、早くも曖昧になりかけている記憶の糸をひとつずつたぐり寄せていく作業になったわけですが……

 

  

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序:被曝の海のなかで」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    今回の津波や原発震災によって、
    突然の避難を余儀なくされた方はいったいどのぐらいおられるのか・・・。
    家が流され住めなくなったケースや放射能汚染により立ち入り禁止区域に
    なってしまった場合だけでなく、自主的に判断をして避難や移住という
    選択をした方もたくさんいらっしゃいます。
    これは、突然降りかかった原発事故によって、避難と別居生活を決断したある一つの
    家族の、現在進行形の沖縄と宇都宮との往復生活を綴っていくものです。
    不定期連載でお届けします。

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