原発震災後の半難民生活

1)


――この頃の職場周辺で起きたことのなかで、ほかにもいくつか印象に残っている出来事があります……

 私は前回、こんな一文を記したうえで、職場の同僚たちと連れだってうどんを食べに行った日のことを語りました。その際、「ほかにもいくつか印象に残っている」出来事に関しては言及することなく、その連載を締めくくったのでした。

 私はやや憂鬱な気分になりながらも、いよいよそれらの出来事について語らなくてはならなくなったと感じています。一年あまりの間、私の脳裏に澱のように溜まってきたこと…… 忘れかけた頃に、ふと記憶の底から浮かびあがってきては、私の胸のうちをかき乱しつづけてきたこと…… 

 「おおげさな……」と失笑する向きもあるかもしれませんが、学生たちとの間で起きたこれらの事件を思いだすたびに、私がやるせない気分に陥ってきたのは紛れもない事実です。

 私が語り残した事柄は、大きく分けてふたつあります。そのひとつは、ある日、フランス語の授業をしている時に起こりました。ひとりの学生からの質問に答えるなかで、私はフランス語の文法に関する解説を離れて、いつしか雑談をはじめていました。私が話したのはおおむね次のようなことでした。

――そういえば、去年の秋から、フランスの学生たちが、この大学に留学していた。ところがこの三月、福島の原発事故が原因で、彼らはフランス本国に帰国してしまった。しばらくして、その彼らが自分のところに「日本の放射能汚染は恐ろしい」とメールを送ってきた。このことは、日本の現状が「外」からどのように見えているかをはっきりと物語っているのではないか。ところで、肝腎の日本人のほうはどうかと言えば、こうした「外」からの眼に対して、ほとんど無自覚なように見えて仕方がない。大学で勉強しているみなさんは、いくつもの外国語を学ぶ機会に恵まれていて、ひとよりも海外の視点を知ることができる立場にあるのだから、ぜひともこういう内と外の見方の違いに敏感になってほしい……

 上のように自分の言葉を書き起こしてみて、かえすがえすも悔やまれるのは、この辺ですっぱりと切りあげておけばよかったということです。けれど、いったん滑らかになった私の舌はその先へとエスカレートしていきました。

 私がまず指摘したのは、最近しきりに「メルトダウン」という言葉が用いられるようになってきた、ということでした。私は次のように話を続けました。

――きちんと調べれば分かるように、これは原子炉が「制御不能状態」になったということを意味している。もしかすると、今回の福島原発の一件は、いわゆる原発事故のなかでも最悪のレベルに数えられることになるのではないだろうか。たとえば、海外のメディアでは、かなり早い時期から「メルトダウン」の危険性が指摘されていた。では日本のメディアはどうだったかといえば、ほとんど一様に「メルトダウンはしていない」という政府や東電の発表を垂れ流しにしただけだった。こういう一連の経緯を踏まえてみると、今頃になって「実はメルトダウンはしておりましたが、安全性に問題はございません」などと吹聴されたところで、そう簡単に信用することなどできはしない。

 私の舌は、さらにダメ押しの言葉を付け加えました。

――すでに福島原発から大量の放射能が漏れてしまったことは、動かしようのない厳然たる事実! それに、私たちが住む宇都宮の町から事故現場までの距離は、たったの130キロに過ぎない! ところが、この大学のある教員は、文科省の出来合いのデータを引きながら「宇都宮は安全である」と断定し、しかも保健センターのパンフに薄っぺらな「解説」をのっけて、学内中に配布してまわっている! なんたる無責任! 四つの原発が同時に爆発してしまったというのに、いったいどこの誰が、なんの資格で「安全」を保証できるというのだろうか? 

 このセリフは、当時の記憶をたぐり寄せながら書き起こしたものでしかありません。私がその場でしゃべったことは、ここまで理路整然とはしていなかったはずなのです。現に話を終える頃には、私の鼻息は少なからず荒くなっていたものでした。

 元来、私はカッとなりやすい性格です。加えて、この時の私の頭には、例のうどん屋での一件が浮かんでいました。ずるずるとうどんの汁をすすりながら、津波や原発事故のことを会話の肴にして楽しんでいた同僚たち…… そんな彼らの話に、テーブルの端っこで耳をそばだてながら、もやもやと感じていた違和感や、憤りの気持ち…… これらのものが混ぜこぜになった形で、むらむらと込みあげてきたのでした。

 だから、私が学生たちにした話は、どこかしら歪んだ目的を隠し持っていたのではないかと思うのです。話の内容の是非を差し置くとしても、私は少なくとも、学生たちと直接関係がないものへの怒りに駆られたままで、上のような話をすべきではありませんでした。

 私がそう気づいたのには、もちろん理由があります。授業が終わり、おおかたの受講生たちが教室を立ち去り始めていました。ひとりの女子学生が私の前に進みでて、押し殺した声でこう言ったのです。

――先生、××市は、安全でしょうか?

 学生の顔は血の気を失い、両眼が真っ赤に腫れあがっていました。真正面から私を見据えるその眼差しの強さに気圧されて、私は要領を得ないことを口ごもりました。彼女は苦しそうに言葉を継ぎました。

 ――××市に、両親の家があるんです。さいわい、津波には流されずに済んだんですけど、放射能の汚染がひどいんじゃないかと心配で……

 しまった、と私は思いました。俺はなんて愚かな教師なのだろう。

 この大学に通ってくる学生たちの大半が、東北や北関東の出身であるということを私は忘れていたのでした。たくさんの新入生たちが、毎年のように、宮城県、岩手県、茨城県、福島県、栃木県の北部などからこのキャンパスに集まってきていました。おそらく私の目の前にいる本人も、あの三陸の大津波を間近で目撃したのでしょう。彼女が証言したように、幸いにも両親の家が流されずに済んだのだとすれば、それはとりもなおさず、親戚や、友人や、知り合いの家のいっさいが、大津波の渦のなかに飲みこまれていったということを意味しているはずでした。事実、彼女の出身である「××市」は、壊滅的な被害をこうむった町のひとつに数えられていたのです。

 私はなんと答えていいか分からず、ひたすら間の抜けたことを口走っていたように思います。けれど彼女のほうも、私から明確な答えを求めているわけでもないようでした。というのは、すぐにこんなふうに続けたからです。

――両親のほうが、はるかに大変な思いをしているはずなのに、「お前は宇都宮にいなさい。ここは放射能が高いから戻ってきてはいけない」と言うんです……

 涙がその両眼から堰を切ったようにあふれだし、はらはらと頬を伝って流れ落ちました。静かにすすり泣く教え子を前にして、私はただ絶句したまま、なんの言葉もかけてあげることができませんでした。

 たぶん、親友なのでしょう。もうひとりの女子学生が、彼女の背後で息を潜めてうつむいていました。いつの間にか教室のなかは、私たち三人だけになっていました。

2)


 このことがあってからしばらくの間、私はふさぎの虫に取りつかれることになりました。

――言葉を語るということは、ひとを傷つけるということなのかもしれない……

 こんな言い訳を考えだして、私は平静をよそおおうとしてみました。けれど、このもっともらしい言い訳は、私が感情まかせに語り散らしたという事実そのものに関して、免罪符になるわけではありませんでした。何より、私は言葉を語ることをみずからの職業に選んできた人間なのです。そんな人間がひたすら思いの丈をぶちまけつづけたということ、しかも自分の言葉が、若い学生たちの心情にどんなネガティヴな影響を及ぼすのかをろくに考えもせずにそうしたということは、隠れようもなく恥ずべきことでした。仮にまったく同じことを伝えるにしても、もっと賢明で、もっと彼らに合点が行くようなやり方でそうすることはできたはずでした。

 しかし、私が落ちこんだ理由は、それだけではありませんでした。うかつにも、私はこの女子学生とのやりとりがあるまで、今回の原発震災が津波を伴なう巨大な複合災害でもあったということを、けろりと忘れ果てていました。頭ではひと一倍そのことを理解していると思いあがっていただけに、私はみずからの不明をくよくよと思い返すことになりました。

 三歳の娘と出産間近の妻を、放射能のリスクから逃がすことにばかり注意を奪われてきた私の脳裏を、この時になってはじめて、津波襲来後の瓦礫の山のなかにたたずむ教え子たちの姿がかすめていきました。昨日までの見慣れた生活の光景が、一瞬にして死屍累々たる荒野に成り果てた現場のまっただなかで、いったい学生たちは何を思い、何を感じていたのでしょうか…… もちろん、私に彼らの思いを代弁する資格などあろうはずもないのですが、そうであればなおのこと、なぜ自分はそんなことさえ察することができなかったのだろう、と恥じ入らずにはいられなかったのです。

 そうこうするうちに、みずからの鈍感さを思い知らずにはいられないようなもうひとつの出来事が、ある日、ふらりと記憶の片隅から浮びあがってきました。

 それは、沖縄から宇都宮に戻ってきた翌日、つまり四月十二日の朝のことでした。ひさしぶりに職場に顔を出した私は、自分の研究室のドアノブにひとつの小さな紙袋がかかっているのを見つけました。不審に思って取りあげてみると、なかにはかわいらしい包装紙に包まれたチョコレートとコーヒー豆が入っていて、この間まで卒業研究を指導していた二人の学生の名前と、お別れのメッセージを記した手紙が添えられていました。

 この二人は、ちょうど三年前の着任当初から私のすべての開講科目を履修し、熱心にノート・テークをしていた女子学生たちでした。だから二人の卒論執筆に際しては、私も力をこめて指導に当たったものでしたし、本人たちも就職活動をつづけながら、一月半ばの提出日にこぎつけられるよう、一生懸命、勉強に励んだものでした。その結果、三月には二人とも、晴れて卒業証書を受け取ることができたのです。

 研究室のドアにかかっていたのは、そんな学生たちからの、心のこもったプレゼントでした。ところが、私には彼女たちの贈り物をきちんと受け止めているだけの余裕がありませんでした。何よりもまず、大地震のおかげでぐちゃぐちゃになった研究室の整理を済まさなければならなかったからです。私は三月十五日に沖縄に避難するにあたって、ほとんどすべてを放置したまま飛びだしてしまいました。それで授業が始まったこの時期になって、ほかの教員たちがとうの昔に終えていた後片づけの作業に取り組まなくてはならなかったのです。

 私は床のうえに散乱した文献の山から、一冊ずつ拾いあげては本棚に戻していきました。何かの拍子で冷蔵庫のコンセントが抜けてしまったらしく、大量の氷の塊が溶けだして辺りを水浸しにしていたので、せっせと雑巾がけをしなくてはなりませんでした。こうして、まる一日かけて掃除や整頓を終えた私は、ほっと一息つくと、電気の通じた冷蔵庫に例のプレゼントをしまいこみました。そしてそのまま授業と学務に忙殺されるうちに、プレゼントの存在は私の頭のなかから消え去ってしまいました……

 おそるおそる確かめるような心持ちで、私はひさびさに冷蔵庫の扉を開けてみました。当然ながら、彼女たちのプレゼントは、いまだ手つかずの状態でそこに残っていました。私は冷蔵庫の前にしゃがんで、チョコレートの包みを取りだし、リボンをほどいたり、色とりどりの紋様がプリントされた包装紙を破ったりしたのですが、このどうということもない作業に熱中しているうちに、ばらばらだったいくつもの記憶の断片が、一斉に数珠つなぎになってよみがえってきました。

 たとえば、プレゼントをくれた彼女たちの出身が、郡山と北茨城であるということ…… そもそも、私の研究室から卒業したほかのゼミ生たちも、それぞれの実家は、大船渡、那須、日光、福島、仙台にあるということ…… これらの町は、地震や、津波や、原発事故などの被害を直接こうむった場所であるということ…… そして私はと言えば、あの震災直後の緊迫した状況のなかで、彼らゼミ生たちの安否確認だけ済ませると、妻子を連れてさっさと沖縄に飛び立ってしまったということ…… 

 そういえば、後でW先生から聞いて知ったのですが、私が宇都宮を留守にしている間に、当初の予定通り学位授与式が行われ、ほとんどすべての卒業生がその式典に出席したということでした。大震災を乗り越えてその場に集まった学生たちは、はっきり口には出さずとも、誰もが卒業の喜びを心から噛みしめている様子だったと言います。

 私はこのW先生の話を思い起こしながら、いたたまれない気分になりました。私という人間は、着任当初からずっと見守ってきたはずの教え子たちの晴れ姿を、見届けることができなかったし、見届けようともしませんでした。式典がしめやかに執り行われている最中、私は遠く離れた沖縄で、娘の保育園や妻の出産のことにばかり気を取られて、無我夢中でかけずりまわっていたのです。学位授与式への出席はおろか、ゼミ生たちとのお別れ会すら開くこともなく、私は彼らが巣立っていくその背中を見送る機会を逸してしまいました。

***

 あれから一年と三ヶ月の時が経過したいま、私は今年の三月の末に行われた学位授与式の光景を思いだしています。

 この式典に出席していたのは、私が見送ることのできなかった学生たちの、一年後輩に当たる子たちでした。そして彼らもまた、多かれ少なかれあの大震災の後に流れた同じ時間をくぐり抜けてきたのでした。その会場には、それぞれ自分の教え子たちの背中をまぶしそうに見守るW先生とS先生の姿も混じっていました。

 目の前で無邪気に卒業を喜びあう学生たちの初々しい姿を眺めやりながら、私は嬉しいような、悲しいような気分にとらわれずにはいられませんでした。

――去年の学位授与式も、こういう雰囲気だったのだろうか…… 私が見送らなかったあの学生たちは、いまどこで何をしているのだろうか…… 

 コンピューターや携帯電話の故障が相次いだせいで、彼らの連絡先すら分からなくなってしまったいまとなっては、そんな問いが空しく私のなかで響きつづけています。

 

  

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3章:ひとり暮らしの始まり(ゴールデン・ウィークまで) その4「負い目」
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    誰もが不安や心配に押しつぶされそうだった時期、
    著者の行動は決して非難されるようなものではないけれど、
    その「やるせない思い」は読んでいるだけで胸が痛くなります。
    せめて、また彼ら、彼女らと著者が相まみえる日が来るようにと、
    祈らずにはいられません。

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