原発震災後の半難民生活

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 しばしの沈黙の後で、助手席の妻がふたたび口を開きました。

 そういえばこの間、隣りのタケトミノオバアの家にクッキーをおすそ分けに行ったら、あがってー、あがってーって、しきりにオバアが勧めるものだから、仕方なくお茶をご馳走になりながら、いっしょにクッキーを食べたことがあって、そしたらオバアがふとした拍子に沖縄戦のことをつぶやきはじめたのよ。

 三日三晩、オバアはひとりで、砲弾の雨のなかを逃げつづけたんだって。いちど丘にのぼって、ガジュマルの森の中をさまよいつづけて、それからやっとのことで家に戻ってきたら、離ればなれになっていた旦那さんが、板の間で血まみれのまま亡くなっていたそうよ。

 どうしてひとりで逃げたんですか? どうして旦那さんと生き別れになってしまったんですか? いろいろと心のなかで質問が湧いてきたけれども、とてもそれ以上聞けるような感じではなかった。

 オバアはこうも言っていたわ。いまも基地があるけれど、アメリカーはヤマトゥーよりもやさしかったよって…… 戦後になって、基地で皿洗いの仕事をはじめたオバアが、上着にコップや皿を詰め込んでいるのを見つけても、アメリカーの兵隊さんたちはただ笑っているだけ…… 「スティール・ママさん」なんて、ニックネームまでつけてくれたらしいのよ。

 ここまで来ると、妻の話はいきなり中断されました。突然の饒舌の後に、やはり唐突に、元通りの無言が訪れたのでした。これといった話題も特に浮かんでこなかったので、運転席と助手席にそれぞれ陣取る私たちの間には、あの日以来のお決まりとなった気だるい沈黙が、棚引くことになりました。

 ――ヌチドゥタカラは、沖縄戦の凄絶を一言に凝縮した言葉なのかもしれない……

 アクセルを踏みなおしながら、私は心中でひとりごちていました。それはまた、「沖縄人」にとって、常に「内地人」たちの裏切りを思い出させずにはおかない言葉なのだろう。もしこの想像が当たっているとすれば、ほかならぬ内地からやって来た人間が、気軽に「ヌチドゥタカラ!」などと述べるのは、なるほど倒錯した振る舞いととられても仕方がないのかもしれない。Nさんが言いたかったのは、そんな振る舞いこそ、沖縄人に対する冒涜の上塗りである、ということだったのではないだろうか?……

 上のような自問の内容は、Nさんと再会した日からおよそ三年の歳月が過ぎた今も、私のなかでリフレインのように響きつづけています。そういえば、この日は急にKが「オシッコ!」と言い出したこともあって、途中のパーキングエリアで休憩をとることにしたのですが、ちょうど上空を三機の戦闘ヘリが、北の方角へ飛んでいく光景を目の当たりにしたものでした。

 そのとき、おそらく内地から遊びに来た観光客だったのでしょう、ひとりの若い父親が、まだ年端も行かない息子を抱きあげて、「ほら見て! スゴイね! カッコイイね!」と指差しはじめました。この家族は案の定、「わナンバー」の車に乗りこんで、その場を立ち去りました。

 私は「ブルーシール」のミント・アイスをKに買ってやりながら、何とも形容しようのない居心地の悪さに捕えられていました。なぜなら、私が運転する車もまた、米軍関係者だけが乗ることのできる「Yナンバー」だったのですから。

***

 この文章を書き記している今日、私の脳裏に澱のようにこびりついたまま離れないことがひとつあります。それに触れることなく、この文章を締め括るわけにはいかないという気持ちです。

 それは、私の娘が暮らすG村の上空を、アメリカ本国でも「ウィドウメーカー(未亡人製造機)」として悪名高い戦闘ヘリ「オスプレイ」が、毎日のように飛び交うようになったということです。

 ひとつの新聞記事の切抜きが、私の気持ちの所在を物語ってくれるのではないかと思います。その記事、つまり琉球新報2013年8月5日付の号外を、以下に引用してみます。そこには、「米軍ヘリ墜落 G村 キャンプ・ハンセン内で炎上 3人脱出1人不明」という大きな見出しが付けられたうえで、次のような本文が続いているのです。

 ――防衛省によると、5日午後4時すぎ、米軍ヘリ2機がG村の米軍基地キャンプ・ハンセン内の山火事を消化活動中、うち1機が墜落した。乗組員4人のうち、3人が脱出、1人が行方不明だという。同省などによると米空軍所属のHH60救難ヘリという。

 ――現場は国道329号、G村のゴルフ・カントリー方面に入った地点。米軍関係の消防車両が基地内に入っていった。K町消防によるとG村役場から通報があり、ポンプ車1台を出動させて現場に向かっている。「火災の消防活動に当たっていた米軍ヘリ2機のうち、1機の姿が見えなくなった」との情報もある。

 ――県警によると、午後4時7分に「飛んでいるヘリが火を噴き、煙が出ている」との110番通報があった。

 ――沖縄自動車道の補強工事をしていた建築作業員の40代男性は午後4時すぎ、Kインターの1.5キロほど手前で作業中、上空を旋回する米軍のヘリ2機を目撃した。

 ――この男性は「4時半に高速を出ないといけないので、片付けをしていたら頭の上をずっと2機が旋回していた。そのうち1機が急に傾いて見えなくなって、煙があがった。まさか落ちたとは思わなかった。その前にもヘリが着陸訓練とかをしていたけど、このヘリは様子が違った」と話した。

 記事の文章は以上ですが、よく読み返してみると、にわかには納得が行かない内容ばかりです。

 基地の敷地内で火災が発生したと書かれていますが、それはなぜなのか? 救難ヘリが墜落したとありますが、危機に対処する任務を負っているはずの機体が、なぜそんなことになってしまったのか? そもそもこの記事に書かれている山火事は、本当にこの救難ヘリが墜落する前から発生していたのか?…… 

 疑いはじめるとキリがなくなってくるようです。実際、この号外記事がネット上を駆け巡った後、肝腎の米軍ヘリ墜落事件に関する追加の報道は、ほとんど発信されることがありませんでした。それはなぜかと言えば、日本の報道陣が、いっさい事故現場に立ち入ることができなかったからです。

 私はとても鮮明に覚えているのですが、当時は現場近くにあるダムの水が汚染されるのではないかという噂が、まことしやかにネット上で飛び交っていました。なるほど、それはG村の住民全員に生活用水を提供しているダムですから、仮にその水が飛散した化学物質で汚染されたとしたら、ただごとでは済まなかったかもしれません。とはいえ、そんな噂話も、報道そのものの減少につれて、おのずと消え失せていくほかありませんでした。真実は、今でも藪の中です。

 近年の大事故でいえば、たとえば普天間基地を飛び立った米軍機が、沖縄国際大学のキャンパスに墜落した事件は記憶に新しいところです。けれども私の眼には、それははるか遠方の地での、自分とは無縁の出来事としてしか映っていませんでした。当時の私にとって、沖縄の戦後史に付きまといつづけてきた大小さまざまな米軍関連の事件は、結局のところ他人事にすぎなかったのです。そんな私の意識のあり方は、G村での米軍機墜落事故によって、根本からひっくり返されることになりました。当の墜落現場が、Kたちがいま住むアパート――二年前、私の義父宅から新居に引っ越したのです――からも十分に見通せる場所であっただけに、私の受けた衝撃はことのほか大きかったのです。

 2012年の終わり頃から、まるで私の気持ちをせせら笑うかのように、オスプレイの編隊がKたちのいるアパートの上空を飛び交う頻度は、いや増しに増しています。

 以来、私にとって日常と化したのは、スカイプで通話するたびにオスプレイの飛来が原因で生じる電波の乱れに、否応もなく心がざわめくという経験でした。

 ――オトーサン?…… キコエル?…… モシモシ?…… モシモシ?……

 コンピューターの画面に、何本もの長い亀裂の筋が走ります。Kの顔が、ぐにゃりと飴のように歪みはじめます。彼女ならではの柔らかさに満ちた声が、いくつもの雑音でかき消されてしまいます。向こうがアイフォンを使っているということも、原因の一端なのかもしれません。

 私はそのたびに、途切れ途切れに伝わってくるKの息遣いを確かめたくて、ヘッドフォンを両耳に押し付けるのです。

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4章:ゴールデン・ウィーク――沖縄にて その3「ヌチドゥタカラは誰の言葉か?」」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    原発震災の後、母親が暮らす沖縄に妻と子を逃がし、宇都宮でひとり暮らしをはじめた著者の「右往左往」を描くコラム、久しぶりの更新となりました。
    家族に会うために久しぶりに沖縄を訪れた著者が目を向けることになった、この地の過去と現在。沖縄人ではなく、かといって観光客ともいえない…その立ち位置が、著者の思いをさらに複雑なものにしているのかもしれません。

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