原発震災後の半難民生活

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 原発の毒がなくなったら、お父さんといっしょに宇都宮で雪遊びしたい…… 

 Kはたしかに、私にそう伝えたのでした。

 このメッセージは長い間、私の脳裏を離れることがありませんでした。一つひとつの言葉だけではありません。何よりも三歳当時の、K独特の柔らかい声のトーンが、ともすれば挫けそうになる私の心に光をともしてくれたのでした。後述するように、原発に関する過去の文献を調べ、自分で身の周りの放射線を計測し、自分なりの仕方で避難者支援の活動にかかわるなか、その声はいつでも私の中を駆け巡っていきました。

 ところが、あの日から三年くらい経った頃のことです。私はしばらくKの前で原発関連の話題に触れることを避けていたのですが、久しぶりの沖縄滞在中にふと思い立って、試しに「雪遊び」のメッセージを覚えているかどうか、Kに尋ねてみました。すると驚いたことに、彼女はきょとんとした顔で、私を見つめ返すのです。

 ――何も覚えてないの? Kちゃんはガジュマルの木の下で、お父さんに言ったんだよ!

 私はわれ知らずムキになって、三年前のことを問いただそうとしました。あれこれと質問してみた結果分かったのは、どうやらKの頭からは何もかも、「ガジュくん」という名前さえも、きれいさっぱり消え失せているということでした。

 ――この名前は、Kちゃんが付けた名前なんだけどな……

 未練がましく口ごもる父親を尻目に、娘は澄まし顔でお絵かきを続けるばかりでした。いつの間にかふっくらとした輪郭を脱ぎ捨て、少しばかりの凛々しさを宿しはじめたその横顔を眺めていると、つくづく過ぎ去った月日の長さを感じずにはいられません。

 あの時のKのメッセージも、Kと二人でガジュマルの木の下で過ごした短い一時も、ほんとうは自分の気持ちを奮い起こすための、他愛もない幻のようなものだったのだろうか? 私は本気でそう自問していました。てっきり同じ思い出を共有していると思っていた私にとって、それが思いこみに過ぎないと分かったときのショックは、小さくはなかったのです。

 いやいや、決してネガティヴに捉えることではないはずだ…… 私の中で、そんな自問自答が始まりました。昔の出来事を忘れるということは、健全に育っているという証拠でもあるのだし、第一、原発事故後にKに味わわせた避難生活を考えれば、ある程度のことは忘れてくれたほうが、親としても安心して見ていられるわけだから…… 概ねこのような内容を自分に言い聞かせることで、私は胸中で渦巻く当惑の感情を和らげようとするのでした。

 「それにもかかわらず」と言うべきか、「それだからこそ」と言うべきかはよく分かりませんが、私にとって「ガジュくん」の木の下での思い出が、いまだにひとつの支えになっていることは事実です。それに、自分なりに当時のことを振り返るにあたって、この光景はいつでも導きの糸でありつづけています。

 たとえば、すぐさま思い出されるのは、当時も今も、自分がどんなにKの甲状腺の状態を気にかけてきたかということです。1章のラストでも述べたことですが、2011年3月15日に私たちがタクシーで逃げ回っていたコースは、実は大量の放射性プルームに覆われていたのではないか、と私は考えています。だいぶ後になってから、SPEEDIによる事故直後の「放射能拡散予想図」が公開されたのは周知のとおりですが、その予想図を見るかぎり、私の疑いはほぼ的中していることが分かります。

 実際、2011年の手帳をめくってみると、ちょうどゴールデン・ウィーク中の記録として、「細野首相補佐官が、SPEEDIの試算図5000枚を隠していたことを認めた」というメモが残されています。私はKのノドの状態が、心配で心配で仕方がなかったのです。

 「Kちゃん、こっちにおいで」。私は再三に渡って彼女を引き寄せては、彼女のアゴからノド、ノドから頸動脈にかけての範囲を、親指の腹で押してみずにはいられませんでした。そもそも原発事故からまだ二か月も経っていない時点で、触って分かるほどのシコリができるということは考えにくいので、私の行動は滑稽以外の何物でもありませんでした。けれども、愚かな私はどうしても自分を止めることができませんでした。

 Kはノドを触られるたびにくすぐったがり、大声をあげて体をよじりました。

 ――Kちゃん、そんなに暴れないの! ちょっとの辛抱だから! 

 ――ヤーメテッ! ヤメテクーダサイッ!

 Kは何度も私の手を振り払い、終いには本当に腹を立てたらしく、キッ! と私の眼をにらみつけます。こうなると私としても、「俄か触診」を諦めるほかなくなるのでした。妻はといえば、私たちの様子を横目に眺めながら、鼻のわきに小じわをためていました。

 ある時、彼女はこう切り出しました。

 ――素人がそんなことやって、何か意味でもあるの? だいたいあなた、甲状腺が正確にどこにあるか知ってるわけ?

 ネットで調べてそれなりに知っているつもりだ、と私は答えました。すると軽く鼻先で笑ってから、彼女は答えました。

 ――さすが、ネット検索がお得意な研究者さんね。その点だけは、頭が下がります。

 彼女は芝居がかった姿勢で、一礼してみせました。その仕草にはカチンと来ましたが、たまたまKが絵本の読み聞かせを催促してきたので、私はそちらに気を取られることになりました。

 いま思えば、これはKがとっさの機転をきかせて、私たち二人の暴発を止めようとしたのかもしれません。子どもは子どもなりの仕方で、両親の間で起きていることに悩んだり、傷ついたりしているようです。これからお話しすることも、そのことを裏づけているのではないかと思います。

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4章:ゴールデン・ウィーク――沖縄にて その4「ガジュマルの木の下で」」 に1件のコメント

  1. なかもと より:

    思い出すのも書き出すのもお辛かったでしょうに、本当にありがとうございます。
    「何が一番正しいのか」を見つけるのも設定するのも本当に難しい問題です。

    子供はいろいろなことを敏感に感じて、子供なりに一生懸命なのでしょうね。
    それがポジティブであってもネガティブであっても、それが「親の本気」から来るのであればきっとそういうことも糧にして、たくましく育ってくれるのではないか、そうあって欲しいと思います。

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