原発震災後の半難民生活

3)


 その間の私が何をしていたのかと言えば、相変わらず妻と押し問答を続けていました。

 そもそも避難の選択は、正しかったのかどうか。宇都宮の放射能汚染は、本当に深刻なのかどうか。果たして産後の彼女自身を、義父宅のテレビルームで寝泊まりさせるのは、適切なのかどうか。

 エンドレスな言い争いのくりかえしは、徐々に私たち二人の関係を蝕んでいきました。泣いたり喚いたり、なだめたりすかしたり、といった互いに疲弊する場面が、少しずつ積み重なっていきました。出産後のマタニティー・ブルーに苦しんでいた妻にとって、苦痛は二重三重に倍増していたことでしょう。

――二人の子どもをひとりで育てるのはしんどいよ。父親もそばにいてくれないと、子育てに自信が持てないんだよ。

 こうした妻の意志は、長期に渡る避難生活を通して、いつしかしりぞけられていきました。そして、避難の選択をつづけた私に妻の怒りが集中してくるのは、ごく自然な帰結でした。

 私にとっても、夫としての配慮のなさ、資質の低さを言いつのる妻の主張に耳を傾けることは、苦痛以外の何物でもありませんでした。ある時期、妻からのメールの文面には、「死ね」、「くたばれ」、「とっとと消えてください」などといった呪詛が、あちこちに散りばめられていました。電話やスカイプをするたびに、妻の口からは「離婚」という言葉が飛び出すようになりました。いま思えば滑稽なことですが、私たちはまだ実際にその見通しも立っていない段階で、子どもの養育を誰がどうするのか、お金は誰がどう負担するのかについて、奇妙なほど詳細に検討していたのです。

 このようなやりとりを続けながら、私はひたすら自問していました。どうしてこんなことになった? 俺は何をやってるんだ?…… 不条理劇の登場人物の役柄を、無理やり演じさせられているような毎日でした。演劇を見るのは楽しい経験ですが、自分がその役柄になるのは、たまったものではありません。

 そのうち、私の体ははっきりといくつかの症状を示すようになりました。互いを際限なく傷つけあう私たち自身の言葉のボディーブロウによって、私の肉体が悲鳴をあげたのだと思います。

 最初に、足のふくらはぎや踵の辺りに発疹が湧き始めました。それらのボツボツが痒くてたまらず、爪を立てて引っ掻いていると、ふとした拍子に薄皮が破け、赤味がかった漿液が絶えずにじみ出てきました。薬局で買い求めた薬を塗ってみましたが、ほとんど効きませんでした。

 また、毎晩布団に入るたびに、胃液が喉元までこみあげてくるようになりました。舌の根元をちりちりと焦がす独特の苦さを帯びた酸味が、しきりに私の睡眠を妨害するのでした。もちろん病院で処方された胃薬を服用しましたが、夜中になると決まって口の中はたっぷりとした胃液の味で満たされていました。おのずと口内炎がひどくなり、舌を動かすだけでも痛いので、満足に食事をとることができませんでした。しかも寝つけない夜が重なったことで、日中の仕事をしている間に、ふと意識が飛んでしまうということも重なりました。

 おそらく妻の側にも、私に伝えてこなかった事情は数多くあったのではないか、と思います。とにかく、当時の私たち夫婦は、よく二本足で立っていたものだと感じています。あの八方塞がりの状態からどのように抜け出すことができたのか、それなりの時間が経過した今となっては、雲をつかむような印象しかありません。はっきりしているのは、現在の私も妻も、ともに元気で暮らしているということ、そして私としてもこの原稿を書き終えたら、あの頃のことは二度と思い出したくないということだけです。

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【最終回】
6章:いまだ途上にて
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。

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