原発震災後の半難民生活

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 汚染、そして人間関係。

 この二点をめぐって私が思いだすのは、相変わらず互いに密接な関連性のない断片的な出来事ばかりです。その記憶の一つひとつは今でも鮮明ですし、それらを思い出すときに湧いてくる痛恨の気持ちも変わることはありません。

 二〇一五年五月下旬以降、私は自宅とその周辺、職場、Kをよく連れて行った公園や施設、川べりなどを虱潰しに計測していきました。その時に持ち歩いたのは、義父の助けを借りてアメリカ本国から買い求めた放射能測定器でした。この測定器は、大雑把な文字盤の上を針が振れるだけの、お世辞にも精巧とは言えないものでした。それでも実際にあちこちで計測を試みていくと、はっきりと分かることがあったのです。

 たとえば、腰の高さでは、〇.一マイクロシーベルト毎時の近辺でふらふらしていた針が、測定器を地面に近づけた瞬間、〇.九まで振り切れるということがありました。そのようなケースが最も多かったのは、側溝などの土砂のたまりやすい場所でした。けれども、何の変哲もない平坦なアスファルトの舗道であっても、表面付近にかざしてみると、時として〇.五から〇.六くらいに跳ね上がるということは起こりました。

 二か月近く計測を続けた末に、私が出した結論は次のようなものでした。宇都宮の汚染値は、予想していたよりもはるかに低かった。ただ、うっすらと汚染されているという事実も明らかだ、と。

 あまり注目されていないのですが、原発事故の直後、栃木県南部には大量の放射性ヨウ素が飛来していました。そのプルームのなかを私たち家族が逃げまわっていたことは、だいぶ前にお話ししたはずです。こうした事情もあって、私はセシウムによる汚染も深刻なレベルではないか、と悲観していたのです。それが杞憂であることが分かって、胸を撫でおろしたものでした。

 一方、心配の種も残っていました。腰の高さで〇.一マイクロという数値ですから、大人が外を歩くぶんには大騒ぎする必要もなさそうです。ただ、Kのような幼児たちの背丈や行動の仕方を考えると、地面すれすれの場所で大きく針が振れるという事実はやはり懸念すべきことでした。

 もうひとつ、私が不安だったのは、この頃から「地産地消」や「食べて応援」の合唱が目に見えて高まったことでした。勤務先の学長が、構内の食堂で「栃木県の野菜を食べよう」キャンペーンを進めようとしたのも、この時期のことでした。その動きについてはS先生とW先生が未然に食い止めたのですが、いざ町のスーパーマーケットへ買い物に行くと、青果コーナーは「(栃木産・福島産を)食べて応援」の一色に染まっていました。当時はまだ、まともな汚染測定所や情報公開の体制が立ち上がっていたとは言い難い時期でした。それにもかかわらず、足並みを揃えて「安全・安心」を謳い文句にする世の中の大勢に、私は付いていくことができなかったのです。

 折しも六月下旬には、妻がEを出産しました。私は沖縄中部の病院で、Kといっしょに立ち会ったのですが、血まみれの姿で産声をあげる赤ん坊を目にした瞬間、こう思ったのです。

 ――ダメだ。少なくとも今、この子たちを宇都宮に戻すわけにはいかない。

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【最終回】
6章:いまだ途上にて
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。

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