原発震災後の半難民生活

8)


 汚染データにも増して私を不安にしたのは、近所や親戚などの人間関係でした。すでにXさんからどのような仕打ちを受けたかについては少しだけ触れたので、ここでは別のエピソードを語ることにします。

 二〇一一年七月、私がある砂場で計測をしていると、近所に住む顔見知りの女性、Oさんが歩み寄ってきて、「どのくらい出てます?」と質問しました。この女性もまた、それ以前はほとんど言葉を交わしたことのない人でした。

 「ここはそんなに高くないです」と私は答えました。地面に近づけても、測定器の針はせいぜい〇.二から〇.三の間を指し示すだけだったからです。もっと精密な器械ならいざ知らず、私が使用していたオンボロの測定器――言い忘れましたが、この測定器はやがて故障し、二度と使えなくなってしまいました――に限って言えば、この程度で大騒ぎしても仕方がない、というのが私の実感でした。

 Oさんは、ふんふん、と真面目な顔でうなずいていました。私もそこで止めておけばよかったのかもしれませんが、先方から会話の接ぎ穂を付け足されていくうちに、ついつい他の場所でのデータのことも話していました。勤務先はこれこれの値であり、近くの川の土手はこれこれの値であるから、それほど高くないと思う。ただ、このあいだ出張で通った那須塩原のパーキングエリアでは、舗道に近づけると、なんと四マイクロシーベルト毎時を超えてしまった。これはどう見ても異常な値であり、栃木県北部の汚染のレベルをとても心配している、等々。

 それからぐるりと月日がめぐって、近隣の住民総出で草刈りをしたときのことです。だいたいの作業が終わると、当時、自治会長を務めていたHさんという男性が、駐車場で出席者の点呼を取っていきました。点呼が終わったので自宅に戻ろうとすると、Hさんはおもむろに周囲の人たちと話を始めたのです。そのなかには、Oさんの顔も混じっていました。

 何となく引き止められた気がして立ち止まると、「いやー、震災の直後はいろいろ大変でしたよねー」とHさんが急に声をはりあげました。当然ながら、彼の発言の一部は、私の耳に届くことになりました。

――この建物の屋上にのぼって、水道タンクの掃除をしてたんですよ。あのころは、なんせホーオシャノーオが、たあっぷりと溜まってましてねー!

 とつぜん、Hさんの周囲で爆笑が巻き起こりました。その中心に位置していたOさんは、「いやいやいや!」と右手をぱたぱた振りながら、おかしそうに腹を抱えて笑っていました。一瞬、何が起きたのかよく分からず、私は呆然と立ち尽くしていました。

――まあ、実際に測定してみると、そーんなに高くはなかったんですけどねー!

一同は、再び爆笑しました。その二度の爆笑が私に与えた衝撃は、とうてい一言では形容することができません。Hさんはまるで念を押すかのように、不自然に大きな声で締めくくりました。

――とーにかく、ぜーんぜん汚染なんて心配ないですよ! 

 OさんやHさんの意図は、まったく不明でした。けれども、その露骨な話し方と笑い方は、彼らが日頃から私や私の家族について噂しあっているということ、そしてこの機会にいやがらせをしてみたということを、よく物語っていました。

 私は黙ってその場を立ち去りました。駐車場からアパートの階段までの、ほとんど二十歩にも満たないはずの距離が、途轍もなく遠く感じられたものでした。背中や首筋には、自分でもしかとは正体のつかめない脂汗が噴き出していました。

――こんな連中がいる場所にKを戻したら、学校で何をされるか分かったもんじゃない。

 私は真剣にそう自問するようになりました。誰から伝え聞いたのかは忘れてしまったのですが、原発事故直後、私のアパートと真向かいに住んでいたBさんの娘さんが、小学校でいじめられたというエピソードを思い出したのです。Bさんは、学校の給食が汚染されているのではないかと心配して、子どもに弁当を持たせたのですが、同級生たちが寄ってたかって、その弁当箱にチョークの粉を詰めこんだというのです。

 最初にこの話を耳にした際には、どこか遠くの出来事のように受け止めていた私でした。けれども、この草刈りの一件以降、小学校でのいじめ問題は、「遠くの出来事」どころではなくなってしまいました。宇都宮に家族を戻すかいなかということは、私にとって、KとEを守るうえで死活問題となったのです。

 このような私の感じ方について、大げさだと思うひともいるかもしれません。しかし、この原稿を書き進めている今日も、福島から横浜へ、東京へ、あるいは新潟へと自主避難した世帯の子どもたちが、小学校において「菌」呼ばわりされたり、担任教員からさえいじめられていたという事実が明らかになっています。こうした報道が氷山の一角に過ぎないということは、想像に難くありません。S先生、W先生、N先生をはじめとして原発避難者の聴き取り調査に携わる人たちから、私は同様の話をたくさん聞かされています。

 小学校は、子どもたちが日常生活を送る小さな社会です。その小さな社会でくりかえされるいじめは、大人たちの社会を映す鏡にほかなりません。子どもは、大人の背中を見ながら毎日を過ごしているのです。

 その後、宇都宮市内の小学校では、原発事故後に急きょ設定された百ベクレル/㎏という基準値を超える給食が、何度か提供されています。それにもかかわらず、汚染データの公開は、生徒たちが給食を食べた後におこなわれるという不可解な制度が改められる気配はありません。そもそも事故前までの汚染の基準値は、現在の百分の一、すなわち一ベクレルに過ぎなかったという事実も、改めて思い出しておく必要があるでしょう。

 なお、Bさんのご家族ですが、娘さんの一件があってからしばらくして、別の町に引っ越してしまいました。

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【最終回】
6章:いまだ途上にて
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。

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